59.大切な人だからこそ
弘晃が死ぬのを諦めて祖父の跡を継いでから、『もうやめたい』と思うようなことは、幾度もあった。
だが、隣の学校で頑張っている紫乃を思うことで、もう少しだけ頑張ってみようという気持ちになることができた。大変ではあるものの、やりがいのある仕事を抱え、かけがえのない仲間に必要とされる日々は、とても充実していた。
弘晃が、7年前に、ふて腐れたまま死んでいたら、こんな幸せは得られなかった。20歳からの弘晃の命も幸せも、全て、紫乃からもらったようなもの。どれだけ感謝しても、感謝しきれるものではない。
「……とはいえ、7年間も、見知らぬ男にずっと見られていたなんて、貴女にしてみれば、気持ち悪いだけかもしれないけど……」
「そんなこと……」
弱気な表情を浮かべて紫乃の反応を伺う弘晃に、彼女は、微笑みながら首を振ってみせた。
「でも、見てばっかりいないで、声をかけてくださったらよかったのに……」
弘晃だけが一方的に紫乃を知っていたことが悔しくて、彼女は、口を尖らせながら不満を言った。もっと早い時期に、弘晃と知り合いになっていたかった。そうしたら、もっと沢山の時間を、彼と共有できたはずだ。
「そうしたら、弘晃さんの具合が悪いときには、お見舞いに行けたし、学校の話にしても、私の口から直接弘晃さんに話してあげられたはずだもの。それから…… そうよ! 弘晃さんにばかり我慢させていたおじいさまやオババさまにも、『一言』 言ってやれたわっ!!」
「そうですねえ。紫乃さんなら、祖父に勝てたかもしれませんね」
拳を握り締めて息巻く紫乃を、弘晃が笑った。
「でも、その頃の僕は、紫乃さんに会えるなんて考えもしていなかったような気がする。ましてや、女性と交際するとか結婚なんて、論外。僕には、一生縁がないものだと思い込んでいた。貴女との見合いにしても、最初は、断るつもりだった。でも、貴女に会えるチャンスをフイにするのは惜しくて、一度だけ貴女に会うことを自分に許してしまった。……でも、結婚する気がないなら、やっぱり、会うべきじゃなかったんだよね?」
「後悔しているの?」
弘晃を見つめる紫乃の声が震えた。「わたくしに会わなければよかった。弘晃さんは、そう思っているの?」
「後悔? しているよ。何度もした」
微笑もうとした弘晃の顔が悲しそうに歪む。「見合いをする前なら、貴女を見ているだけで、僕は充分幸せだった。気持ちが疲れたときには、蔵の2階の窓から貴女が造った花壇の花を眺めているだけで心が和んだ。本当に、それだけで良かったのに……」
弘晃が目を伏せた。
「紫乃さんと別れたとき、初めは、ちょっとだけホッとした。貴女のためを思えば、僕と別れたほうが正解だと思ったし、僕は僕で、貴女と見合いする前に戻るだけだと高をくくっていた。でも、そうじゃなかった。過去には戻れなかった。数日も立たないうちに、無性に貴女に会いたくなった。その気持ちを無視すればするほど、貴女のことが頭を離れなくなった。しかも、思い出すのは、最後に会ったときに貴女が見せた泣き顔ばかり。忘れたいのに、ちっとも忘れられない。しまいには、貴女に全然似ていない人を貴女と見間違えたり、貴女の声が聞こえた気がして、部屋を飛び出したり…… なんだかもう、気が変になりそうだった。 ……で、他のことを考えなくてもいいようにと、とにかく仕事に没頭していたら、このざまですよ」
横になった弘晃は、「これ、この通り」というように、拗ねたような顔で自分の体に掛かっている掛け布団を叩いた。
「パーティーで、貴女と一緒にいた森沢さんを見たときには、あの人がうらやましくて仕方がなかった。 森沢さんは、健康そうで、自信に溢れていて、なによりも貴女とお似合いだった。人を羨むなんて愚かなことだとわかっているのに、どの男よりも貴女の側にいられる森沢さんに殺意さえ覚えた」
「弘晃さんが、『殺意』?」
「あ、笑いましたね。でも、本当なんですよ」
彼らしからぬ物騒な言葉の選択に紫乃が笑うと、弘晃が、ムッとしたような顔をした。
「ごめんなさい」
紫乃は、笑いを引っ込めた。「でもね。5番目……じゃなかった、森沢さんは違うのよ。わたくし、あなたに会いたくて、あの人を利用しようとしたの。でも、森沢さんは、お見通しで……」
「そうだったんだ。じゃあ、今度会う機会があったら、森沢さんにお礼を言わないと……」
「え?」
「彼が、言ってくれたんです。あなたと話すように……って」
弘晃は微笑むと、起き上がろうとした。
慌てて制止しようとした紫乃に、逆につかまるようにして体を起こした弘晃は、咳払いと一つすると表情を改めて、紫乃を見た。
「結婚してくれたら、僕は、一生貴女を大切にする。それは約束します。だけど、精一杯頑張っても貴女を幸せにはできないかもしれない。貴女をすぐに未亡人にしてしまうかもしれないし、反対に、貴女がヨボヨボのお婆さんになるまで、こんな調子で生き続けて、看病や介護で、貴女に心配と迷惑のかけ通しになるかもしれない。それでも、僕は、貴女の傍にいたい。貴女に、ずっと僕の傍にいてほしい」
即座に『私も、あなたの傍にいたい』、と答えようとした紫乃の口を弘晃の人差し指が軽く塞いだ。
「ダメだよ」
弘晃が、紫乃のすぐ近くまで顔を近づけて微笑んだ。
「返事は、もう少し後でいい。少なくとも、僕が一応元気になって、六条さんとの話し合いが終わって、会社のことで、紫乃さんに心配を掛ける必要がなくなってから。それまで、じっくり考えて。 それから返事を聞かせてほしい」
「わたくしは、決して、その場の勢いで言っているわけじゃないって、さっきも言ったでしょう。ちゃんと考えているわ」
呆れるほどの慎重さを見せる弘晃に、紫乃が焦れたように反論したが、彼は、その程度では、まったく動じてくれなかった。
「悪いけど、信じてないよ。だって、僕がひ弱だってことも、オババさまのことも、あなたにしてみれば、さっき仕入れたばかりの情報でしょう?」
「……それは、そうだけど、そんなこと……」
『そんなこと』程度に考えないでください。大事なことなんです」
不機嫌な表情を引っ込めようとしない紫乃を、弘晃がそっと抱きしめた。
「何度も入院している間に、僕は、旦那さんやお子さんの介護に疲れ果てている女の人を何人も見てきました。うちは、他所に比べれば裕福だし、介護の人手も足りている。けれど、それでも、貴女に苦労させることは目に見えている。だからこそ、簡単に『覚悟してくれ』なんて言えない。それに、僕の体の問題だけじゃない。いわゆる上流階級の人たちが、めったに表に出てこない僕と祖父の信仰やオババさまのことを適当に結びつけて、僕のことを面白おかしく噂していることは知っている。僕と結婚したら、紫乃さんは、きっと笑いものになる。貴女のお父さんも、『成り上がりの六条氏が、旧家の名につられて、あの中村本家のろくでなしの長男をつかまされた』って陰口を叩かれるでしょう。妹さんたちの縁談にも悪い影響がでるかもしれない。つまり、僕とお見合いしようとしたときに貴女が目論んでいたことと正反対の状況を、僕たちの結婚が引き寄せてしまうかもしれない。貴女は、本当に、それでもいいの?」
「……。弘晃さん、ずるい」
「知ってる。でも、もう一度だけ、よく考えてほしい」
弘晃が、紫乃の髪に顔を埋めるようにして彼女をより近くに引き寄せた。
「僕と結婚するのが、本当に紫乃さんの幸せに繋がるのかどうか。僕の気持ちとか両家の関係がどうとか、そんな建前は無視していい。ただ自分の気持ちに正直に、うんと利己的に打算的になって自分の都合を一番に優先して、考え直してみてください。貴女が、幸せになるために出した結論ならば、僕は、その決定を尊重する。たとえ、貴女に振られても、今度はちゃんと耐えてみせるから……」
「弘晃さんが、そこまで言うのなら……」
紫乃は、渋々ながら返事を保留にした。
「でも、ひとつ、聞いてもいい?」
「なんなりと」
「さっきから弘晃さんが言っていること。ひょっとしなくても、プロポーズよね?」
「……すみませんね。わかりづらくって」
弘晃が笑いながら紫乃を離した。
「もっと情熱的なのを期待してましたか?」
「期待したかったけど…… もう、いいわ、別に」
紫乃は、諦め気味にため息をついた。
人には向き不向きというのがある。色に喩えれば風のような薄い青……そっけなさを感じるほどの淡白なイメージしかない弘晃に、『情熱的』を期待しようというほうが間違っている。
「弘晃さんの望みどおり、思いっきり自分本位で身勝手に、どうするのが一番自分と妹たちにとって得になるのか、ゆっくり考えてみるわ」
考えなくたって結論は既に出ているのに……と思いながら、紫乃は、恨みをこめて、いささか乱暴な手つきで弘晃をベッドに押し込めた。
「ねえ? 結婚を考えるにあたって、他にも、まだ、わたくしに言い忘れていることはない? あったら、今のうちに聞いておくけど」
掛け布団で弘晃を丁寧に覆いながら、紫乃はたずねた。
「言い忘れたことですか? あ、そうだ」
口を開きかけたまま、弘晃が、病室の扉のほうから聞こえてくる複数の足音を気にするように視線を動かした。
ノックの音と共に血相を変えて駆け込んできたのは、弘晃の弟と葛笠だった。
「紫乃さん! 逃げてください!!」
入ってくるなり、正弘が叫んだ。
「は??」
紫乃は、きょとんとした。
逃げろ? どうして??




