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水面に映るは  作者: 風花てい(koharu)
水面に映るは・・・ 
58/89

58.負けるが勝ち?

 紫乃のその後の情報は、一度会ったきりなのに彼女のファンになった弘晃の母親が、隣の校長を介して逐一仕入れてきてくれた。いじめが益々エスカレートしても、彼女は苛めっ子に屈することも逆上することもなく、教師にさえ助けを求めずに、凛として学生生活を送り続けているようだった。


 一方、祖父の後を継ぐことに反発を感じ、態度を保留にしたまま父親の仕事の手伝いさえ他人に任せて家でクダクダしている弘晃のところにも、いつも以上に、引っ切りなしに人が訪れた。ある社員は、幸三郎が引退を決めたことに心からの快哉を上げ、弘晃が跡を継ぐことを喜んでくれた。それまで弘晃を蔑ろにしてきた幸三郎が急に態度を変えたために、彼がショックを受けているのではないかと心配して様子を見にきてくれた社員もいた。体が弱い弘晃が、この先、今まで以上に多くなるであろう仕事をきちんとこなしていけるかを気に病んでいるのではないかと、具体案を考えてきてくれた者もいた。

 弘晃と幸三郎の確執を熟知している家族や爺やや大叔父は、弘晃が浮かない顔をしていることを気にしているのか、弘晃が良からぬ事を考えることのないようにと(既に考えた後だったが)、いつも誰かが弘晃の傍についていてくれた。


 誰もが弘晃を心配し、彼と、また一緒に仕事ができるようになる日を待ち望んでくれていた。

 結局、祖父とオババさまのことさえ気に病まなければ、自分は、周囲の人間に愛され必要とされている幸せな人間だったわけだ。周囲にひとりの味方もなくても頑張っている紫乃と自分とを比べたら、自分は、なんと恵まれていることか。 弘晃は、いつまでも、いじけている自分がアホらしくなってきた。


(しかたがない。仕事に戻るとするか……)


 弘晃は、ようやく、重い腰を上げた。


 ちょっと休んでいただけだと思っていたら、別室には、弘晃宛に寄せられた報告書が腰まで漬かれるほど溜まっていた。立ったまま、たまたま目についた書類を手に取ると読み始める。弘晃宛の書類……特に報告書の類は、弘晃に配られる分だけ、余分にページが追加されていることが多い。作成した者が、外に出ることができず現場に立ち会うこともできない弘晃にもわかりやすいようにと、写真や説明書きを多めに添えてくれるからだ。その時、彼がたまたま手にとった書類は、そんな『弘晃仕様』のものだった。他の書類も確認すると、どれもこれも『弘晃仕様』だった。文面は、ビジネス文書なので、そっけなさを感じるほど固い。でも、他所の会社の人間が見たら、なんと非効率で無駄なことをしているのだと呆れられそうなほど手間がかかった書類……


「こんな面倒くさいこと。 みんな、僕のために、よくしてくれるよね?」


 邪魔者だった祖父がいなくなったのだから、後は、自分たちの好きにやっていいのに……

 自分のことなど、放っておけばいいのに……

 みんな、そろいも揃って馬鹿なんじゃないか?


 そう思ったら、胸が熱くなった。弘晃は、その場に胡坐をかいて座り込むと、山盛りの書類を手当たり次第に読み始めた。



-------------------------------------------------------------------------------



 仕事を再開する一方で、弘晃は、自分の代わりに当主や社長になってくれる人物を探し始めた。


 当主のほうは、弘晃が手伝うことを条件に弘幸が快く引き受けてくれた。だが、中村物産には大勢の社員がいるにもかかわらず、社長の引き受け手は、どうしても見つからなかった。

「みんなが納得しませんよ」

 幸三郎にクビにされかけた一人であり、弘晃が社長に一番適任だと思って最初に話を持っていった人物は、そう言って苦笑した。

「そりゃあ、私にだって野心はありますよ。でもね。弘晃さんは、私たちをクビから救って、ついでにあれだけ恐れられていた幸三郎社長を引退にまで追い込んだ。今まで、誰もできなかったことを、あなたは、やっちゃったんだ。もう、英雄ですよ。その弘晃さんを差し置いて、私が、社長の座についたって、皆に、そっぽを向かれるだけです。そんな役、私は引き受けたくはありません」

「でも……」

「今までのままでいいんじゃないですかね? それで、充分回ってきたんだし」


 第一候補が固辞したあとは、弘晃が誰に話を持っていっても、『あの人が降りたのに、自分が引き受けられるはずがない』という答えが返ってくるばかり。しかたがないので、大叔父など、中村本家関係者にも社長の話を振ってみたが、『お前が、身内びいきの人事をやめようって言ったんだろうが?』と、やっぱり断られた。


 弘晃が社長に相応しいと思われる人物に30人ばかり当たったところで、今度は、その30人全員が、弘晃を説得するために中村家に押かけた。表向きは弘幸を社長とする。弘晃は、今まで通りに彼の補佐として最高決定権を持つ。それが、彼らの望みだった。


 弘晃が、当主と社長の座へ向かって着実に追い詰められていく一方、 紫乃はといえば、自分の母親の陰ながらの尽力もあって、同じ学校の敷地の中にある高校の諸先輩を味方につけることに成功し、いじめられることもなくなっていた。

 立場の変った紫乃は、苛めっ子に報復するどころか、彼女たちと和解するために自分から手を差し伸べることさえした。

 弘晃が、とうとう社員たちの説得に負けて、幸三郎の後を継ぐことに決めた日。隣の学校では、紫乃が、元いじめっ子の同級生たちと一緒になって、仲良く花壇を造っていた。



-------------------------------------------------------------------------------



「そうか、跡を継ぐことを決めてくれたか」

 弘晃と弘幸が報告に行くと、寝床に座った幸三郎は嬉しそうな顔をした。


 この頃には、幸三郎は、弘晃たちに対して、随分と態度を軟化させていた。

 弘晃は、仕事を再開してから、ちょくちょく幸三郎の部屋を訪れていた。だが、彼は、お人好しの紫乃とは違うので、幸三郎と和解しようと思って、あえて彼に近づいたわけではない。引継ぎのため前任者である幸三郎から話を聞かなければいけないことも多々あったし、報告しなければいけないことも山とあったから、しかたなしに会っていただけである。なにより、彼は、『呪い』なんぞ信じていなかったから、『呪いが感染するから近寄るな』という幸三郎の忠告を聞くつもりがなかった。


 いまのところ、弘晃が幸三郎に話す内容と言えば、箇条書きされたものを棒読みするような仕事の報告だけ。幸三郎にしても、もはや弘晃のやることに口出しするつもりはないらしく、彼の話に重々しくうなずくだけである。


 だが、その日。

 いつものように淡々と仕事の話を始めた弘晃と幸三郎の会話は、いつもと少しだけ違っていた。


「……それと、僕たちが社長を引き継ぐに当たって、お祖父さまが始めた事業の見直しを行っていきたいと思っています。まず、これからの中村の主力となりうる事業として、来年度から大幅に予算と人員を増やそうと検討しているのが……」

「なに? 残してくれるのか?」

 幸三郎が目を丸くして、棒読み口調の弘晃の話を止めた。 

「わしは、てっきり、すべて止めにするのだとばかり思っていた。お前たちは、わしのやることなすこと全て気に入らないのだと思っていたから……」

「気に入らないからという理由だけでは、事業を中止する理由にはなりませんよ」

 『あなたじゃあるまいし』という言葉を、弘晃は呑み込んだ。

「今すぐには無理でも、事業の中には、将来的には大きなニーズが見込まれると思われるものもありました。それらについては、撤退するよりは、先行投資のつもりで将来に向けて育てていったほうが、我が社のためになるだろうというのが、おおかたの意見です。もちろん、それ以外のものについては、これ以上損害が大きくならないうちに、どうにかします。良い機会ですから、昔ながらの業務についても見直していくつもりです」

「あ……うん」

 幸三郎は、ギクシャクとうなずいた。それから、独り言のように、「そうか、残してくれるのか」 と、つぶやいた。


「ところで。弘晃は、いまだに、寝たり起きたりの生活だそうだな?」

 幸三郎がたずねた。

「はい。いまだに、そうです」

 気分的に弘晃が身構えた。幸三郎が倒れてから少し気が大きくなった弘幸が、「だから、『呪い』と弘晃の体調には、なんの因果関係もないって、前々から言っているじゃないですか」と突っ込んだ。

「お父さんの病気にしても、そうですよ。決して『呪い』のせいではありません」

「そう……か」

 幸三郎は、小さく息を吐いた。 それから、彼は、弘晃たちに何かを言おうとし、口に出す直前で押し黙るという仕草を何度か繰り返した。


「どうか、しましたか?」

 弘晃がたずねた。

「実は、寝られんのだよ」

 消え入るような声で、幸三郎が打ち明け、戸口のほうへ顔を向けた。


 閉められた襖の向こうから、幸三郎の快癒を願う老婆の甲高い声が聞こえてくる。弘晃が『呪い』から解放されたと認定されて以来、老婆は、幸三郎の部屋の廊下の前に拠点を移し、日夜、彼女が言うところの『呪いと怨霊』と戦っていた。弘晃の部屋とは違い、幸三郎の部屋は和室なので、襖越しに聞こえてくる老婆の声は、弘晃が自分の部屋の中で聞いていたよりも、ずっと大きく聞こえた。

「確かに、これでは、うるさくて眠れませんよね」

 老婆の声がするほうに顔を向けながら、弘晃が顔をしかめた。

「わしは、お前に、こんな酷い思いをさせていたんだな。何年も、何年も」

 『すまなかった』という幸三郎の言葉は、老婆の声にかき消されながらも、かろうじて弘晃にも聞き取れた。

「いいですよ。過ぎたことですから」

 弘晃は、表情を変えぬまま静かに答えた。


「とはいえ、眠れないんじゃ困りますよね。どうしましょうか」

「いっそ、オババさまに、お引取りいただいたらどうです?」

 弘幸が提案した。

「今までの労に報いるということで、彼女に充分な報酬をオババさまに与えて、暇を出したらいい。そうすれば、彼女も気持ちよく、この家を出て行くことができるでしょうし、お父さんも、気が咎めることがないでしょう?」

「だが、わしの病はともかく、それで、また、会社に何かあったら……」

「大丈夫ですよ」

 顔を曇らせる幸三郎を励ますように弘幸が笑った。


「オババさまを追い出してたことで会社が不幸に見舞われるようなら、また呼び戻せばいいのです。でも、きっと大丈夫ですよ。僕たちには、弘晃がいます。なんていったって、この子は『光の子』!  弘晃がいる限り、会社は潰れるようなことにはなりません。弘晃に任しておけば、 絶対に大丈夫!!ねえ? 弘晃?」

「え……」

 父親から邪気のない笑顔を向けられた弘晃は、答えに窮して顔を強張らせた。


 実を言えば、中村物産とその子会社は、これからのほうが、ずっと大変だ。しばらくは赤字続きだろうし、幸三郎社長がしたことの後始末やら、借金返済やら、それから、これまで幸三郎が軽視してきた中村物産保有の鉱山や工場で発生している公害病問題にも、本格的に対応しなければならない。 


 他にも、やはり、これまで軽視されてきた福利厚生の充実やら、なんやらかんやら……と、とにかく、解決しなければいけないことが彼らの前には山積している。だから、決して、能天気に『大丈夫』なんて言っていられる状況ではないのだ。とはいえ、この機会を逃したら、 老婆を追い出す機会は、おそらく半永久的に廻ってこないに違いない。

 弘晃は、短時間の間に激しく葛藤した後、『任せてください。中村物産は、僕が守ってみせます』と、祖父に向かって、笑顔で確約してしまった。


 散々迷った挙句、幸三郎が老婆に暇を与えたのは、それから半年ほど後のことである。



-------------------------------------------------------------------------------


 幸三郎の部屋から戻ると、弘晃は弘幸を追いかけて庭に出た。


 柔らかだった若葉の緑は、夏に向かって強くなっていく陽射しの強さと張り合うように、日増しにその色を深くしていた。


「お父さん。よくも、僕をハメましたね」

「はめる? おやおや、穏やかならざる言葉だね。なんだってまた、僕が、可愛い息子に、そんなことをしなくてはいけないのだろう?」

「とぼけないでください。お祖父さまの前で、僕に、あんな約束をさせておいて……」

「そうだねえ。あんな約束しちゃったら、弘晃も、簡単には社長業から手を引けないよねえ」

 伸び盛りの朝顔を愛でながら、弘幸は、自分が彼が息子が疑っている通りのことをしたことを、さり気なく肯定した。

「皆が、まだ心配しているよ。君が、一度は社長も当主も引き受けたものの、誰か適当な人物を見つけ次第、さっさと身を引こうと思っているんじゃないかって」

「……」

 父親の言うとおりだったので、弘晃は押し黙った。

「会社を建て直そうって最初に言い出したのは、君だよ。大勢の人間を巻き込んでおいて、これからが本番って時に、自分だけ『大変だから、いち抜けた!』っていうのは、ズルイと思わないかい? 始めたことには、最後まで責任を持たないとね」

「……」

 いちいち、ごもっとも。

 弘晃は、更に押し黙ると、恨めしげに父親の背中を見つめた。


「でも、お父さん」

「大丈夫だよ」

 拗ねている息子を面白がるように、弘幸が笑いかける。

「頼りないお父さんで申し訳ないけど、僕も頑張るから、弘晃も頑張ろうね。なに、弘晃ならば、誰よりも、ちゃんとやれるさ」

 弘晃の幼い記憶の中に、しっかり刷り込まれているからだろうか? 弘幸に『大丈夫』だと言われると、弘晃は、本当に大丈夫かどうかはともかく、やるだけやってみようという気がしてくるから不思議である。


「ああ、もう! わかりましたよ。頑張ります! 頑張ればいいんでしょう?」

 弘晃が、ヤケクソのように答えたその時、隣の学校から少女たちの弾けるような笑い声が風に乗って聞こえてきた。

「賑やかだねえ」

 声のしたほうの空に弘幸が笑顔を向ける。

「隣の中学校の生徒が、うちとの境の塀の側に花壇を造っているんですよ」

 弘晃が答えた。あの笑い声の中には、きっと紫乃の声も混じっているのだろう。


「僕の完敗だな」

 苦笑いを浮かべながら、弘晃は呟いた。 


 いじめに、馬鹿がつくほど真正直に正論で立ち向かって言った紫乃。

 彼女のその心意気が、弘晃の母親や紫乃の先輩たちの心を動かし、いまや人を氏素性で差別する悪弊がまかり通っていた学校全体の空気すら変えつつある。そればかりか、彼女は、塀の向こう側で無責任な傍観者を決め込んでいた弘晃の心まで動かし、回りまわって、なにがあっても変わることなどないだろうと思っていた幸三郎の心まで動かしてしまった。


 六条紫乃、恐るべし。


「まあ、今更、死ぬ気にもなれなから負けてもいいんだけど。っていうか、そもそも彼女が負けるほうに賭けようと思ったことが間違いだったんだよな。うん」

「弘晃。どうかした?」

 独り反省会に没頭している息子に、弘幸が話しかけた。

「いいえ、なんでもありせん」

 我に返った弘晃が首を振る。


「僕も頑張らないといけないなと思っていただけです」

「『僕も』?」

「ええ、僕『も』です」

 弘晃は、微笑んだ。


 紫乃に負けないように。

 紫乃と比べても、恥ずかしくないない自分でいられるように。


 僕も、頑張ろう。 


 あの時から、弘晃は、そう思いながら生きてきた。

 そう思いながら、ずっと、紫乃を見つめ続けてきた。


 


 



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