57.賭け
医者の最初の見立てでは、幸三郎の病名は狭心症による心臓発作。 会社の経営が思わしくないために抱えていた心労のうえに、幸三郎が老婆を見習うべく急に始めた修行の無理が重なったのが良くなかったのだろうということだった。
「そうでしょうとも。絶対に、弘晃さんが触ったからではありませんわ!」
弘晃に言い聞かせるように、紫乃が、きっぱりと大きくうなずいた。
「でも、発作の直接のきっかけを作ったのは、やはり僕なんでしょうね。祖父のとっての僕は、自分に降りかかる『呪い』を避けるための避雷針のようなもの。『触れたら死ぬ』と、オババさまから脅かされたこともあって、彼は、ずっと僕に近づくことを避けてきた。その僕に触れられたショックが、大きかったのでしょう」
寂しそうに、弘晃が言った。
「事実はどうあれ、おじいさまは、信じてしまったのでしょうね」
「ええ。祖父は、今度こそ、『呪い』が自分の頭上に降ってきたと思い込んだようです。それで……」
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病院から退院し、自宅療養に入った幸三郎は、ある日、弘晃と弘幸を自室に呼んだ。
幸三郎が暮らす部屋の近くまで弘晃が足を踏み入れたのは、その時が初めてだった。祖父の部屋は重厚な家具に囲まれた洋室なのだろうと、なんとはなしに思い込んでいた弘晃は、彼の部屋が、だたっ広い和室であったことに違和感を感じた。
「わしは、隠居する」
弘晃たちが部屋の中央に敷かれた布団に横になっている幸三郎の枕元に正座すると、幸三郎は、天井を睨みつけたまま宣言した。
「心臓だけでなく、もう、あちこちガタがきておると医者が言いおった。これから先は、家で養生に努めろとさ。まるで、今までの弘晃のようだな」
それから、幸三郎は、遺言でも言い残すような重々しい口調で、 中村の当主も中村物産の経営者の座も、全て弘晃に譲ると言い出した。
「は? 弘晃に?」
「僕に……ですか?」
怪訝な顔をする弘幸と弘晃に、「皆から聞いた」と幸三郎が言った。
「弘晃は、今までも弘幸の仕事を影ながら助けていたそうではないか? その働きぶりは見事で、社員たちの信頼も厚いそうだな」
「ですが、弘晃は、まだ20歳になったばかりですし、体も弱いので、表立って中村物産のトップとして働くのは、無理があるのではないかと……」
「年齢的なことはともかく、体のことは、もう心配なかろう」
幸三郎が、布団から片手を出して上げ、弘幸の反論を封じた。「『呪い』は、今は、わしが受けておるわけだから……」
ますます困惑して顔を見合わせる弘晃たちの理解の浅さを詰るように、幸三郎は、「だから、もう、弘晃が『呪い』の影響を受けることはないわけだろう? 弘晃は、じきに他の者に負けぬほど健康になるはずだ」と、説明した。どうやら、幸三郎は、それまで彼の身代わりとなって『呪い』を引き受けていた弘晃に触れたために、自分の体が急速に病によって蝕まれたと思い込んでいるらしい。そして、幸三郎が呪いを自身で被った時点で、彼の身代わりであった弘晃は『呪い』から解放されるはずだから、弘晃は健康になる……とも思い込んでいるらしい。
なるほど、筋は通っているような気がする。だが、それは、あくまで、中村家が呪われているという前提があってこそ成り立つ話。『呪い』など、そもそも存在しないのだから、やはり、それは、ただの幸三郎の思い込みに過ぎないと、ふたりは思った。だが、反論したところで無駄に議論が長くなるばかりだと思ったので、ふたりとも黙って、幸三郎の話の続きに耳を傾けた。
「オババさまによれば、お前は、『この家に100年の繁栄をもたらす光の子』。わしが『呪い』を引き受けたからには、お前は、もう本来の力を発揮できよう。正弘は、まだまだ子供だ。わしの跡を継げるようになるまで何年かかることかと案じておったが、お前なら、もう充分やっていける。お前に後を託せるとわかった今ならば、わしも安心してあの世へ逝ける。 こうやって、わしの血を引くお前に事業のすべてを引き継ぐことができるのも、慈悲深い『てんのいちなるものさま』の御計らいがあったればこそ。一族の繁栄を願う、わしの想いが『てんのいちなるさま』に届いたからに違いない。ありがたいことだと、先ほども、オババさまと話しておったところだ」
幸三郎は、目を閉じると、横になったまま両手をすり合わせた。
(どこまでも勝手なことを……)
呆れた弘晃は、ものを言う気にもなれなかったが、弘幸は、やはり一言言わずにはいれらなかったのだろう。通じないとはわかっていても、わずかに膝を進めて、幸三郎に意見しはじめた。
「お父さんのおっしゃりたいことはわかりました。ですが、私は『呪い』など信じておりません。お父さんが病気になったところで、弘晃の体が良くなるとも思えない。弘晃は、お父さんの意を受けた神さまの指図に従ったわけじゃない。自分の意志で、僕を助けるために、一生懸命に努力してくれたんです。体が弱くても、不満を表に出すこともなく、周囲への気配りを忘れることなく、だからこそ、弘晃は、みんなに慕われ、理解と信頼を得て……」
「お父さん。 もう、いいですよ」
息子のために半泣きになって訴えてくれている父親を、弘晃は静かに制した。それから、幸三郎に目を向ける。弘幸が必死で訴えている間、幸三郎は、目を閉じたまま、まぶた一つ動かさなかった。この人には、結局、何を言っても届かないのだと、弘晃は思った。
「行きましょう、お父さん。お祖父さま。当主と中村物産をお引き受けするかは、もう少し、考えさせてください」
弘晃は、弘幸を促しつつ、立ち上がった。
「中村を頼む」
部屋を出て行こうとした弘晃の背中に、幸三郎が声を掛けた。
「それからな。今後。なるべくお前は、わしの側に寄らんほうがいい。お前がまた『呪い』の影響を受けることになっても困るからな」
弘晃は、答えなかった。馬鹿馬鹿しくて、答える気にもなれなかった。彼は、幸三郎に背を向けたまま、何も言わずに部屋を出て行った。弘晃たちと入れ替わりに、老婆が幸三郎の部屋に入っていった。
閉めた扉の向こう側から、弘晃には聞きなれた、祈祷の言葉を唱える老婆の甲高い声が聞こえ始めた。
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「なんとも、すっきりしないねえ」
幸三郎の部屋からの帰り道、弘幸がポツリと言った。
声には出さなかったものの、『まったくだ……』と、弘晃も思った。
弘晃の望み通り、幸三郎は、社長でも当主でもなくなった。だが、『呪い』と『怨霊』は、幸三郎の心の中に巣食ったままとなった。己の過去を反省するどころか、今の幸三郎は、まるで、一族の繁栄のために命を投げ出す殉教者であるかのように振舞っている。老婆も、いままで通り、幸三郎の信頼を得て、家の中で活躍している。
弘晃は、勝てるとばかり思っていたゲームの終局で、大逆転負けをくらった気分だった。 悔しかった……というよりも虚しかった。頑張ってみたものの、結局、自分は、老婆の手のなかで踊らされてだけのようではないか?
もう、なにもかも、どうでもよくなってきた。
その時、通り魔のように、ある誘惑が、弘晃の心にとりついた。
「死んでやろうか。と、思ったんです」
弘晃が、ポツリと言った。
「祖父に、これ以上振り回されるのは嫌だった。祖父に、いい思いなんかさせてやるものか……そう思った。中村の一族や事業を託そうと思っていた矢先に僕が死んだら、祖父はきっと……」
「馬鹿なこと言わないのっ!」
紫乃は、弘晃を怒鳴りつけた。「おじいさまへの当て付けに死ぬつもりだったっていうんですか? それこそ、大馬鹿ですよっ!」
「わかってますよ。だから、魔が差したんだって言ったでしょう? その時は、本当にどうかしていたんです。ところで、紫乃さんは、やっぱり止めてくれるんですねえ……」
弘晃が、彼に掛かっている布団を力一杯に握り締めて怒っている紫乃を見ながら、嬉しそうな顔をする。
「あったりまえでしょおおおおっっ!!」
紫乃は叫んだ。この男は、そんな人間として当たり前のところで、なぜ、喜んだりするのだ?
「あの時も、あなたは止めてくれましたものね」
憤りながら声を荒げる紫乃の手に、弘晃のまだ熱っぽい手が触れた。
「あの時?」
意外なことを言われて、紫乃の怒りがストンと抜けた。
「あの時って?」
「祖父と話した次の日だったかな」
弘晃が言った。
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その日。
すっかり自殺願望にとりつかれていた弘晃は、蔵の鍵を持って庭に出た。
外は、曇り。
今にも雨が降ってそうなほど、低く雲が垂れこめていた。
もうすぐ、雨が降る。
体の弱い弘晃のこと。
しばらく雨に濡れ続けていれば、酷い風邪を引くこともできるかと思った。
自分が『呪い』を引き受けても、弘晃が病で死ぬ可能性があるとわかったら、幸三郎はどう思うだろう? だが、どんなに彼が嘆いたとしても、また、そうでなかったとしても、弘晃としては、これ以上病で無駄に苦しむよりも、死んでしまったほうが楽でいい。
もう、なにもかもが面倒くさい。
いっそ、幼い頃に閉じ込められていた離れがあったという池に飛び込むか? それとも、老婆が入り込んだ原因となった盗まれた錦絵と、弘晃を助けてくれた先祖の古文書があった蔵の中で首をくくろうか? そんな暗い妄想をもてあそびながら、弘晃の足は、ごく自然に、なるべく人目につかない家の敷地の隅にある蔵へと向いていた。
「うん。 やっぱり、蔵だな」
弘晃は心を決めると、蔵の中に入ろうとポケットの中を探った。だが、そこに鍵の感触はなかった。
「あれ? おかしいな。確かに、ここに…… 」
弘晃は、立ち止まると、鍵を探して、衣服についている全てのポケットを探った。鍵は、反対側のポケットから見つかった。安心した弘晃は、自分の死が待っている蔵へと1歩を踏み出した。
その時である。
弘晃の目が、視界の隅のほうで、不自然なものを捕らえた。特に意識することなく、そちらに視線を向けると、萩の木の枝の間に、コイル状の針金で閉じられた英語のノートが引っかかっていた。そのノートを通して、弘晃は、隣の学校で酷い苛めにあっていた六条紫乃という少女を知ることになった。
「その日って、弘晃さんのおかあさまが、捨てられた私の持ち物を届けてくださった?」
「ええ。 その日です」
弘晃が、微笑みながらうなずいた。
「中学生の女の子が、学校中の生徒から敵意を向けられても、涙を隠して、歯を食いしばって頑張っているっていうのに、塀一枚しか隔だてていない場所で、大の男の僕が首くくって死ぬわけにはいかないでしょう? それじゃあ、あまりにも自分が情けないですよ」
弘晃が、真っ直ぐに紫乃を見つめる。「なによりも、頑張っている貴女に失礼な気がした」
なにも今日死ぬこともないか……と、弘晃は思い直した。
死ぬのは、しばらく後……あの真っ直ぐで負けん気の強い紫乃という娘が、どこまで頑張れるか見届けた後でも遅くはないだろう。
そうだ。 いっそ、彼女の未来に自分の命を賭けてみようか?
もしも、彼女が最後まで頑張り通したら、その時は、紫乃の勝ち。
その時は、弘晃は死ぬのは諦め、祖父の言いつけに従う。
もしも、彼女が根を上げたら、弘晃の勝ち。
その時にこそ、自分は、命を絶とう。
弘晃は、気まぐれに、そんな勝負を始めた。




