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水面に映るは  作者: 風花てい(koharu)
水面に映るは・・・ 
52/89

52.仕えるのなら

「弘晃さん。いったん休憩しましょう」

 話が佳境に入ってきたのを感じながらも、弘晃の息が上がってきたのを心配した紫乃が割り込んだ。


「でも、こんな中途半端なところでやめるのも……」

「それでも、弘晃さんの体のほうが大事です」

 枕から頭を上げて抗議する弘晃に紫乃が強い口調で宥める。


「少し休んだほうがいいです。また熱が高くなったら大変ですから」

「でも……」

「続きは、後でゆっくり聞かせてもらいます。ね?」


 2人が揉めていると、誰かが控えめに病室をノックする音がした。

 入ってきたのは、弘晃の父、弘幸だった。


「オババさまが出たって聞いたものだから心配になってね。大丈夫かい? 具合は?」

 老婆のことをまるでお化けか何かのように言いながら、弘幸が近づいてくる。


「どちらも大丈夫です。それより?」

 弘晃が父親にたずねるような視線を向けた。

「うん。葛笠さんから電話があってね。最初の打ち合わせを、こちらの応接室を借りてすることにしたんだ。六条社長の秘書がいきなり本社に現れたのでは、皆が動揺するかもしれない」

 なるほど、中村の社員は、これまでずっと六条から卑劣な嫌がらせを受けてきたわけだから、父の秘書の葛笠が単独で本社に現れでもしたら、中村の社員たちに袋叩きにされかねない。なんだか申し訳ない気持ちになって紫乃は、「すみません」と頭を下げた。


「紫乃さん。その『すみません』は、もうお仕舞いにしようね」

 弘幸が優しく、しかし、きっぱりと紫乃に申し付けると、「それにね。 こちらのほうが断然都合がいいのだよ。 いざとなったら弘晃に相談できるからね」と、冗談めかして片目をつぶってみせた。

「……というわけだから、おっつけ、正弘もこちらに来るよ。ところで、お母さんは、何処に行ったのかな?」

「そういえば、ずっと戻ってきませんね。看護婦さんと茶飲み話でもしているんじゃないですか?」

 弘晃も、妻を捜すように首を廻らせる父親に合わせるように、視線だけを彷徨わせる。この部屋の中にいる者で、静江の行方に心当たりがあるのは紫乃しかいない。


「あの……、おかあさまは、たぶん、気を利かせてくださっているのだと思います」

 気恥ずかしさと戦いつつ、紫乃は、声を絞り出した。

「気を利かせて? ……ってことは……」

 上品そうな面立ちを不思議そうにしかめて紫乃の言葉を反芻していた弘幸は、急に青ざめると、両手で頬を挟んだ。 

「すまない! 私も気を利かせなくちゃいけなかったんだね?!」

「違いますわ! おかあさまは……、その、ちょっとばかり気を利かせすぎてくださっただけなんです!!」

 あたふたと出て行こうとする弘幸を、紫乃は慌てて引き止めた。 


「わたくし、弘晃さんに、昔のことをお話してもらっていたんです。オババさまのこととか、お祖父さまのこととか……」

 努めて平静を保った声で言い訳めいたことを言いながら、紫乃は、いっそ話の続きは弘幸にしてもらえばいいと思いついた。それならば、弘幸を引き止めることもできるし、弘晃も聞き手に回ることで楽ができるはずである。我ながら良い考えだと思った紫乃は、早口で弘幸に話を振った。


「弘晃さんの才能を早くに見抜いたおとうさまや家庭教師の皆さまが、お祖父さまを追い落として弘晃さんを次期当主にすえようと密かに画策していたというのは本当ですか?」

「ああ、そうだよ。爺やたちは、もともと、父のことを評価していなかったからね」

 『紫乃さん。なんで勝手に話を大きくしているんですか?!』という弘晃の抗議には耳もくれずに、弘幸は、すんなりと紫乃の話に乗ってきた。弘幸は、近くにあった背もたれのない椅子を引き寄せると、弘晃のベッドを挟んで紫乃と向かい合わせになるように座った。



「『評価してなかった』? 爺やさんたちは、おじいさまの腹心だったのではないのですか?」

 紫乃は、驚いた。一途に幸三郎に仕えてきたからこそ、彼らは、弘晃の見張り役として見込まれたのではなかったのか?


「いやいや」

 紫乃の疑問を察したかのように弘幸がニコニコしながら首を振る。「それこそが、我が父中村幸三郎のとんでもない勘違いなのだよ」

「勘違い、ですか?」

「そう。爺やたちは、確かに忠義者だった。私の祖父と父の2代に渡ってよく仕えてくれました。だけど、あの人たちは、江戸の昔から連綿と続いてきた丁稚奉公制度で中村に入ってきた最後の世代だからね。当主がどんなに嫌な奴でも、笑顔で堪忍して、一所懸命に仕えてくれるのだよ」


「どんなに嫌なことがあっても?」

「基本的にはね。 昔の採用というのは、完全な縁故採用制度だから……」

 言いかけた弘幸が、何を思ったのか、突然、「紫乃さんは、時代劇を観たことがおありかな?」とたずねた。

「ああいうのに、『伊勢屋』とか『越後屋』とかいう店の名前が出てくるでしょう? 屋号にある地名は、たいてい、その店の本拠地を示します。ちなみに、うちの正式な屋号は『尾張中村屋』です。だから、奉公人も、そちらのほうからの伝手を頼って…… とはいえ、うちは古いですからね。後の時代には、江戸の近郊の村にも、幾つかの伝手があったようですが ―― 雇い入れる。そして、採用された者の身元保証や一人前にする義務は、同郷の店の者が引き受けることになる。不始末を起こせば連帯責任。同郷の仲間にも迷惑が掛かるし、場合によっては、自分の郷の、その後の採用にも影響が出てくる。だから、迂闊に悪いことができないし、仕事が辛いからって簡単にはやめられない。それと、主がわからず屋で理不尽な時ほど逆らいづらいというのもあるね。後で、どんな報復が待っているかわからないから」

 弘幸が、大げさに体を竦めてみせた。


「……と、まあ、前時代的で窮屈この上ないこの採用制度ですが、別の見方をすれば、奉公人もまた、何世代にも渡って同じ店で働いてきたことになるわけでしょう? 何百年と続いていれば、当主に当たり外れがあるのも、彼らは良く承知してくれているのだよ。嫌な奴に無理して使えるのも、特に当主を思ってのことじゃない。自分たちの店が潰れないように……自分たちの子孫も、この店で働いていけるようにするためだよ」

「じゃあ、爺やさんたちが忠誠を誓っていたのは……」

「そう。当主中村幸三郎本人というよりも中村家……というか中村の商売そのものに対してだね。彼らにとっても、店は、簡単には投げ出せない大切なものなのだよ。そうはいっても、彼らに心がないわけではないからね。嫌なことをされれば腹も立つし恨みもする。能力がないのに威張ってばかりの男に仕えるよりも、頑張ったら頑張っただけ認めてくれて、店が潰れる心配をしなくてもいい有能な人物の元で働きたいものだと、いつも夢見ている……」

 歌うように言いながら弘幸が微笑む。


「爺やたちは、戦時中の中村財閥なら、誰が当主でも、あれぐらいの財を成すことはできると考えていた。そして、戦争が終わった後の変化に全く対応できない父幸三郎を無能だと思っていた。そこに、弘晃の世話係の役目が回ってきた」

 弘幸が、息子に誇らしげな視線を向けた。「そして、彼らは見つけた。 『良い主に仕えたい』という自分たちの密やかな願望をかなえてくれそうな可能性を秘めた子供を……」


「お父さん。話を大きくしすぎですよ。 第一、中村の跡取りは今も昔も正弘です。それは爺やたちも承知していました」

 弘晃が、咎めるような視線を父に向けた。

「うん。そうだね」

 弘幸がうなずく。「弘晃は無理の効く体ではないからね。でも、爺やたちは、正弘には『お兄ちゃんを立てるように』って、くどいぐらいに教え込んでいたよ。だから、あの子は、筋金入りのお兄ちゃん子に育った」


 それはそれとして、普通の子供なら中学生に通うぐらいの年齢になると、爺やたちは、いわゆる帝王学的なことを弘晃に教え始めた。弘晃が弘幸の仕事の手伝いを始めたのも、この頃だったそうだ。


 家に連れ戻されてからの弘幸は、正弘が当主を継ぐのに相応しい年齢になる前に幸三郎に万が一のことがあった場合の繋ぎ要員として、中村物産の重役の地位を与えられ、日々、幸三郎にしごかれていた。

「だけども、私は、商売にも、人を使うことにも、つくづく向いていないらしくてね」

 弘幸が、しおれるように肩を落とした。

 会社に行けば、何をやっても幸三郎に叱られ、『無能だ』『馬鹿だ』と罵られる。『馬鹿だ』と言われるのが仕方がないことは、弘幸にもわかっている。なにしろ、彼は、自分に統括の義務がある部課の業務内容からして、ややこしすぎて、ほとんど理解できていなかった。しかしながら、弘幸がどれほどの無能ぶりを発揮しようと、幸三郎は、彼だけはクビにも降格処分にもしてくれない。


 毎日毎日罵倒され、しかも部下からも『いてもいなくても同じ』な扱いをされては、いくら弘幸がおおらかな性格でも、さすがに、やり切れなくなってくる。

「それで、僕は、オババさまがいない隙を狙って、抜け穴を通っては、弘晃の部屋にいる爺やたちに、こっそりと助言を求めに行くようになったんだ」


 引退したとはいえ、爺やたちは、昔の言い方でいえば元『番頭』……支社長かそれ以上の出世を遂げた元社員ばかり。教えを請うには、うってつけの人々である。

 夜ごと弘晃の様子を見がてら疲れきった表情で抜け穴から訪れる弘幸から、爺やたちは、彼が抱えている仕事の内容や問題点や関わっている人物などの情報を詳しく順序だて聞き出しては、次に何をしたらよいかを彼に懇切丁寧に教えてくれた。


「……というよりも、爺やたちは、僕が誰にも相談しなくてもやっていけるように仕込んでくれようともしたんだけどね」

 だが、経済の仕組みや中村物産が行っている仕事のあれこれ、リーダーとしての仕事の進め方を弘幸に教え込むことは、爺やたちにとって、弘晃の家庭教師をするよりもずっと骨の折れる仕事だった。

 爺やたちが、どんなに優しく噛み砕いて説明しても、弘幸は、なかなか理解に至らない。そればかりか、ちょっと目先が変わっただけで、全くわからなくなる。なにより、弘幸本人のやる気が欠けている。 そのために、爺やたちは、何度も何度も同じような説明や助言を弘幸に根気よく言い聞かせる羽目になるわけだが、その夜毎繰り返される弘幸と爺やたちとのやり取りを、寝床で面白そうに聞いていた者があった。 


「それが、弘晃だった」

 1、2年のうちには、弘晃までもが、父親に助言する立場に回っていた。しかも、時々は爺やたちが思い至らなかったことまで指摘して、彼らを驚かせるようになった。


 そんなある日のことである。 爺やたちが、これからは、総てを弘晃に任せることにして、自分たちは弘幸への助言を一切やめると言い出した。

「その時、弘晃さんは、幾つだったんですか?」

 頭に浮かんだ疑問が、そのまま紫乃の口を突いて出た。


 弘幸と弘晃が、記憶のすり合わせをするように顔を見合わせた。

「正弘は、まだ高校には行ってなかったよね?」

「中学2年生でした。だから……僕が15か? 16?」

「15……って」

 紫乃は目を見開いた。「そんなことして、いいんですか?!」


「いいわけないじゃないですか。ただの子供に父に代わって会社の重要な決定を任せるなんて、無茶苦茶ですよ」

 弘晃が、ふて腐れたような表情を浮かべた。


 それでも、爺やたちは、弘晃に無茶をさせずにはいられないほど、非常に切羽詰まった気持ちになっていたのである。


 そのころの中村物産とその系列会社は、末期的ともいえる危機的な状況を迎えていた。 

 危機の原因を作り出しているのは、本来なら家と事業を守るべき中村家当代の主、幸三郎だった。




 



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