51.彼よりもずっと
大工の棟梁作の抜け穴を潜って隣の部屋に出れば、そこには掃き出し窓がある。そこから一度外に出て、台所の勝手口から入る。庭の隅っこをチョロチョロしても幸三郎に見咎められることがないようにと、弘晃の動線に沿って植栽をうまい具合に配置し目隠しを作ってくれたのは庭師たちだった。それだけではなく、彼らは、祖父の部屋からの眺めよりも弘晃の部屋からの眺めを重視して新しい庭を設えた。これも、幸三郎が弘晃の部屋には絶対に近づかないと知った上での、腹いせである。丹精してきた庭を潰されただけでなく、祖父の命令で、柘植の生垣や樹齢うん百年の見越しの松まで撤去しなければなって、庭師たちも大工以上に憤っていた。
「生垣? そういえば、なかったですね」
弘晃の家を訪れたときに見た、情緒はないけれども頑丈そうなコンクリート塀を思い出しながら、紫乃が言った。
「祖父は、僕の具合の良い時には、庭に出ることを許可してくれました。でも、庭から庭の外の景色を見ることで、僕が、外の世界に憧れを持っては困ると思ったらしいんですね」
「じゃあ、あの塀は、外からの侵入者に備えるためじゃなくて」
「ええ。中の人間が外に出る気にならないようにするための物です」
「はあ……」
苦笑しながら話す弘晃の言葉に、紫乃は気の抜けた相槌を打った。ここまでくると、弘晃の祖父の妄念は、狂気じみているというよりも、むしろ馬鹿馬鹿しいものがある。だからこそ、大工も庭師も、雇い主である祖父に直接意見することはできなくても、弘晃のために自分の出きる限りの協力を惜しまなかったのだろう。
「もっとも、僕が抜け穴を使うことは、あまりなかったんですけどね」
「あら、どうして?」
「なぜだか、僕が部屋を抜け出そうとするときに限って、オババさまが大騒ぎするんです」
「え? でも、ドアが開いているわけではないのでしょう? わかるんですか?」
不思議そうな顔をする紫乃に、弘晃は困ったような顔で「彼女によると、僕は、とても『眩しい』らしいんです」と言った。
「眩しい? 」
「はあ。オババさまは、僕が部屋の中にいるときには、部屋がまばゆい光で満たされているように感じているようなんですね。だけど、僕が抜け穴を通っていなくなると、その光が遠ざかる……すなわち暗くなるように感じると……」
「ああ、なるほど、それでいなくなるのがわかると……」
だが、どうして、老婆が、そのような光を感じることができるのか? しかめ面になって悩んでいる紫乃に、弘晃が「あまり、深く考えないほうがいいですよ」と笑った。
「あの人のことは、考えれば考えるほど、わからなくなりますから。それはさておき。僕がいなくなろうとしているのに気がつかれた後のオババさまを宥めるのが、また一苦労で……」
老婆は、抜け穴の存在を知らない。だが、彼女が言うところの弘晃が放っている『光』が弱くなっているのは感じられる。ゆえに、弘晃が『暗く』なっているのを感じた老婆は、『暗く』なった原因を、弘晃の力が弱っている、あるいは、この家の『呪いの力』が大きくなっているせいに違いないと考える。
「だから、オババさまは、本気で僕のことを心配するわけですよ。僕が、部屋の中で怨霊に頭からムシャムシャ食べられているんじゃないかってね」
弘晃の見張り役兼世話係の者が部屋の外で必死で老婆を押しとどめている間に、慌ててベッドに戻ってきた彼の無事な姿を見て、彼女は、『弘晃、おお、よく無事で……』と、涙を流して喜んだという。
「その後が大変でね。オババさまは、『かようなこと(弘晃が怨霊に食われそうになったこと)になったのは、このババの祈りが足らぬせいじゃ!』 ……と、 無用な責任を感じてしまうわけですよ。それで、24時間ぶっつつけ、ご祈祷フルコース三昧になるという……」
「それは……、ああ、ごめんなさい」
辟易とした顔をする弘晃を見て、紫乃は、思わず吹き出してしまった。
「ごめんなさい。笑うなんて、いけませんよね。でも、想像したら……なんだか、おかしくて」
「笑っても、いいんですよ」
なおも笑い続ける紫乃に、弘晃が微笑みかけた。
「強がりでもなんでもなく、僕は、過ぎたことで貴女に同情してもらいたくありません。確かに辛いことも沢山あったけど、当事者であった僕たちだって、年中悲嘆にくれていたわけじゃない。結構楽しんでましたよ」
息苦しさを感じることはあったが、行動の自由をほとんど与えられなかった弘晃が、辛くて退屈しきっていたかといえば、そうでもなかったそうだ。
大工が作ってくれた本棚の中には、父親が選んでくれた良書がぎっしりと詰め込まれていたし、彼の枕元には、彼と会うことを祖父に禁じられていた正弘が抜け道を通って差し入れてくれた図書館の本がいつも山積みになっていた。
また、幸三郎が選んだ見張り役は、長年中村の会社の中枢で働いてきた優秀な男たち……移民や戦争で狩り出される以外に海外に行くことが一般的でなかった時代に、世界で見聞を広げ、異国の商人たちと渡り合ってきた老人たちであった。
「この人たちの話が、とても面白くてね。なにせ、絨毯を買いつけるために、砂漠でらくだに乗って旅したり、新しい技術や機械を日本に導入するために、ヨーロッパに乗り込んだりしたりした人たちだったから……」
自分たちが訪れた異国の国々の気候や人々の暮らしや文化、歴史や経済のしくみや政治情勢など、経験に基づいた彼らの話は、弘晃を魅了した。そして、引退した老人たちが、めったにない自分の経験や知識を誰か伝えたいと思うのは、ごく自然なこと。その彼らの前に、彼らの話と書物から得られる知識だけを世界を知る唯一の手がかりとしている幼い子供がいれば、その子供に請われるがまま、自分の知る限りのことを話してやりたいと思うものも、また自然なことであった。
幸三郎に弘晃の世話役兼家庭教師を任ぜられていた彼らは、最優先であったはずの『見張り役』の任務のことなどすっかり忘れて、彼の教育に入れこんだ。学習内容に偏りができないように、彼らは、数学や科学など、学生時代に学んだきり縁が切れたとばかり思っていた学科についても、自ら見直すことまでして弘晃に教えてくれた。古文や漢文などは、美術品の研究のために年中古文書に顔を突っ込んでいた弘晃の父が教えてくれた。
何を学ぶにつけても、弘晃は理解が早かった。
幼いがゆえに語彙が貧弱であっても、議論をすれば、並みの大人以上にしっかりとした考えかたに基づいた論理展開をする。
なによりも、この子は、生まれたときから我慢を強いられているがゆえに、精神的に非常に大人だった。誰が教えたわけでもないのに、周囲の人間への目配り気配りが、きちんとできている。それに、人が自然に彼の元に集い従いたくなるような『何か』を、弘晃は、確かにもっていた。
そんな弘晃の面倒をみているうちに、彼らは、ふと思ってしまったのだ。
「何を?」
「自分では言いづらいんですけどね……」
弘晃が、照れくさそうな顔をした。
そう。
弘晃の成長を目の当たりにしている彼らは、どうしても比べずにはいられなかったのだ。
子供ながらにしっかりとしている弘晃と、権威を振りかざし他者を圧倒することで中村家の当主として君臨してきた幸三郎とを……
そして、比べるたびに、彼らは、こう考えられずにはいられなかった。
あんな男(幸三郎)に比べたら、 俺たちの坊ちゃん(弘晃。当時10歳程度)のほうが、よほどマシなのではないと……
弘晃のほうが、ずっと当主に相応しいのではないかと……
その思いは、年を追うごとに、彼らの中で大きくなっていった。




