50.不幸なようでも
「いやあ、僕は、たいしたことはしていませんよ」
病弱であるのに加えて身勝手な祖父に著しく行動の自由を著しく制限されていたために人並みはずれて我慢強く自己主張の少ない性格になってしまったものの、弘晃とて、まともな成人男子である。謙遜してはいるものの、好きな娘に尊敬の眼差しで見つめられた弘晃は、正直嬉しかった。
「それに、僕だけの力でもありません。皆の助けがあったからこそできたことです」
これは、謙遜でもなんでもなく、本心からの弘晃の言葉である。寝床からなかなか離れられない彼が、誰かの力を借りずして、何かを成すことなどありえない。
「なにより、僕は運がいいんです。特に人の運に恵まれている」
これは確信。後から振り返ってにみれば、必要とする時に必要とする以上の出会いがあらかじめ約束されていたかのような気さえする。
「紫乃さんに出会えたことも含めてね」
弘晃が感謝を込めた眼差しを紫乃に向けると、ベッドに肘をつき、弘晃のほうに身を乗り出すようにして聞いていた彼女は顔を真っ赤にした。そんなことを言われる心の準備など全くできていなかったが、彼の言葉を不快に思っているわけではない。彼女は、そういう顔をしていた。
「弘晃さんってば、そうやって、すぐに人のことをからかうんだから……」
紫乃が赤くなった顔を押さえながら文句を言っているのも、単に照れ隠しであるだけのようである。
(紫乃さんって、本当にわかりやすいよな……)
くるくると表情が変る紫乃を見つめながら、弘晃はしみじみと思った。
実際に紫乃に会ってみるまでは、弘晃は、彼女のことを、もっと取っ付きづらい女性なのだろうと思っていた。花に例えるなら棘だらけの白い大輪のバラのよう。清廉で美しく毅然としたその姿に誰もが目を奪われるけれど、棘があるので近づきがたい。だが、その棘も他人に向けられたというよりも、自分を守るために仕方なしに纏った鎧のようなもの。社交的なように見えても人と付き合うことに臆病で、どんなに友好的に見えても心の内まで他人に知られるようなことはしない。そんな人なのだろうと勝手に想像していた。
だが、紫乃が弘晃を前にして身構えていたのは、最初に会いに行った時の前半ぐらいまでだった。
それ以降は、紫乃は言いたいことを言いたいときに言っているようにしか思えないし、笑ったり怒ったり泣いたりと、彼の前め目まぐるしく表情を変えてみせる。しかも、表情のひとつひとつが実に愛らしい。だから、弘晃は、ついつい紫乃をからかって、彼女にいろいろな顔をさせたくなってしまう。とはいえ、あれほど複雑な家庭に育ち、酷い苛めにあったにも紫乃が、よくもまあ、心がひねくれることもなく、ここまでスクスク真っ直ぐ健全に育ったものだと、弘晃は半ば呆れながらも感心せずにはいられない。
(いや、でも、人前では、もう少し取り繕ってはいるようではあったな。ということは、ここまで素直になるのは、本当に心を許した人の前だけなのかもしれない)
昨夜のパーティーで遠くから紫乃を観察していた印象と自惚れにも似た願望から、弘晃は、真実に一番近い推論を導き出した。
「ちょっと。弘晃さん。聞いてます?」
小言を言われても、ただニコニコしながら紫乃を見つめているばかりの弘晃に、彼女が焦れた。
「聞いていますよ。僕はあなたをからかっていませんし、嘘もお世辞も言っていません」
怒っている紫乃もまた可愛らしくて、弘晃は反省の色も見せずに微笑んだ。
「本当……って」
疑っているというより戸惑っている。そんな響きが、紫乃の声に混じる。
「紫乃さんこそひどいな。さっきから何度も同じことを言っているのに、まだ僕を疑うんですか?」
弘晃は手を伸ばすと、紫乃の額から顔の輪郭にそって彼女の豊かな髪を梳くように動かしながら優しく紫乃を責めた。
「……だって」
紫乃が、拗ねたように眼を伏せると、彼の手をとり、彼の掌に自分の頬を押し当てた。そして、「それは……そう言ってもらえるのは、とても嬉しい……ですけど……」と恥ずかしそうにうつむいた。
「あ、でもね」
弘晃の掌に頬を摺り寄せながら、紫乃が甘やかな微笑を浮かべる。
「弘晃さんが人の運に恵まれているというのは、弘晃さん自身が引き寄せている運なのだと思います。弘晃さんが、自分でできることをできる範囲で一生懸命やっているからこそ、皆さんも親身になってくれるんだと思いますわ」
紫乃が話すたび、彼女の柔らかな声が彼の耳を、紫乃の唇が、彼女の吐息が弘晃の掌をくすぐる。
思うように動くこともできない今の弘晃にとっては、嬉しいけれでも生殺しに近い酷な状況ではある。だが、そんなふうに無自覚に弘晃を女の魅力で絡め取っていた紫乃が、突然、子供のような好奇心一杯の眼差しを弘晃に向けた。
「そういえば、 弘晃さんの部屋に抜け穴があるって、本当ですの?」
「壮太に聞いたんですか?」
「ええ、そのお話を聞いている途中で、オババさまが来てしまって……」
いいところで話が中断してしまったのだと、紫乃が悔しそうに言った。
「どういうものなんですか? こう、棚が壁ごとクルっと回ったりするんですか?」
「それほど大掛かりな仕掛けじゃありませんよ。だいだい、本が一杯に詰まった扉なんか、子供の力じゃ重くて回らないでしょう?」
「じゃあ? 自動ドア?」
「……。 スパイ映画じゃないんだから……」
「じゃあ……? あ、いけないっ!」
身振り手振りを交えながら弘晃から話を聞きだそうとしていた紫乃が、いきなり、日光の『言わ猿』よろしく両手を交差させて口に蓋をした。
「ごめんなさい。具合の悪い弘晃さんに、お話なんかねだったりして……」
とても反省しているらしいということは、うなだれる紫乃の顔を見れば一目瞭然である。
「そんなに申し訳なさそうな顔をしなくてもいいですよ」
クスクスと笑いながら、弘晃は、紫乃の手の甲に自分の手を乗せた。
「どこから話しましょうか? 僕たちが家に連れ戻されたところからでいいのかな?」
「今じゃなくてもいいです。弘晃さんが元気になってから……じゃなくて、続きは、おかあさまか岡崎先生に話してもらいますから……」
紫乃が、とても聞きたそうな顔をしながら遠慮を口にする。
「できたら今がいいです」
弘晃は言った。「それに……僕が貴女に聞いてもらいたいんです。僕とオババさまのこと……いいえ、むしろ僕と祖父とのことと言うべきなのでしょうけど……」
自分のことを彼女に知ってもらいたい。
ずっと抱えてきた悲しみも、祖父に対する想いも、かなり捻くれている自分の心も……なにもかも紫乃の前にさらけ出してしまいたい。彼は衝動的にそう思った。この機会を逃したら、自分から自分のことを話そうと思うことなど、おそらく二度とないだろうという確信もある。
「壮太の話と重複する部分もあると思うけど、聞いてもらえますか?」
弘晃の想いが伝わったのだろう。紫乃は少し考えたあと弘晃の手を握ると、「疲れたと思ったら、すぐに言ってね」と、彼を気遣いながら話の続きを促すように微笑んだ。
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「僕を家に連れ戻した祖父は、今度こそ僕を徹底的に閉じ込めようと思ったようです」
大まかなところを先に岡崎医師から聞かされていた紫乃は、弘晃の言葉にうなずいてみせた。
彼の祖父幸三郎は、再び弘晃がいなくなることで、この家に災いが降りかかるようなことがあってはならないと思いつめたそうだ。
「分家からやいのやいのと言われて、僕を離れから母屋に移したものの、祖父は不安でしかたがなかったんです」
これからは、弘晃も、幸三郎や弘幸夫婦と同じ屋根の下で暮らすことになる。広い屋敷なので弘晃を周りから離して暮らさせることはできるが、屋敷は純和風の造りである。弘晃にあてがわれた部屋も含めて、どの部屋も四方を障子と襖で仕切られているだけなので、どこからでも自由に出入りができる。
これでは、いつまた弘幸に弘晃を盗みだされるかわかったものではない。あるいは、弘晃が大きくなった時に自分の意思で逃げ出すかもしれない。なにより、弘晃が屋敷の中をチョロチョロと動き回って、不用意に幸三郎にぶつかったりすれば、彼の命が危ない。
「だから、祖父は、僕の部屋の四方を格子で囲って座敷牢にしようと考えたそうです」
だが、『他人に迷惑をかけるわけでもない幼児の弘晃を牢屋の中に閉じ込めるのはいかがなものか?』と、これまた分家の大反対にあったそうだ。
そこで、幸三郎が思いついたのが、家の建て替えだった。
純和風の屋敷を取り壊して、現代風のモダンな邸宅に建て替える。洋風の家ならば、部屋を囲むのは可動式の襖や障子ではなく壁となる。周囲を壁で囲った弘晃の部屋の窓に防犯用の名目で格子を取り付け、一つきりの扉に鍵を掛けたうえで見張りを置けば 弘晃は簡単に逃げ出すことができなくなる。
幸三郎は、弘晃の見張り役として、中村の元社員から、5人ばかりを選び出した。彼らはいずれも、親やその親の代から、あるいは先祖代々中村の家に仕えてきた幸三郎に忠実な者たちばかりであるが、戦前の中村の経営に深く関わりすぎたとして、財閥解体時に幸三郎と共に引退を余儀なくされた者たちであった。幸三郎は、単なる見張りだけではなく、弘晃の世話係兼家庭教師の役目も彼らに与えることにした。
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「おじいさまは、本当にそんな理由で前の家を壊しちゃったんですか?」
「ええ、僕も、随分と祖父に嫌われたものですよね?」
呆れながら紫乃が口を挟むと、弘晃がほろ苦い表情を浮かべて笑った。その悲しげな微笑を見ているだけで紫乃の胸は痛くなった。
「でもね。僕にとっては、かえってそれが良かったんですよ」
「家の建て替えが?」
「ええ。そのことで、うちに出入りの職人さんたちが怒ってしまいしてね」
なにせ取り壊すことになった家は、代々の出入りの大工が丹精こめて手入れをしてきた、いわば彼らの大事な作品である。『空襲の被害も奇跡的に免れたってぇのに、この家をぶっ潰すたあ、いってぇどういう了見なんでぃ?! しかも、坊ちゃんを閉じ込めるために庭を潰して新しく鉄筋コンクリートの家を建てるだとぅっ?!ふざけるのも、てぃげぃにしやがれってんだっ!!』と、大工も庭師も憤慨した。
しかも、大工の棟梁は、弘晃の部屋の向かいに造られることになった祈祷所をめぐって、その使用者である老婆からひっきりなしに無茶な要求を突きつけられていた。
新しい家の引渡しも終わって、古い家が取り壊される作業が行われていたある日のこと。
ついに堪忍袋の緒が切れた棟梁は、老巫女が近くにいないときを狙って、既に暮らし始めていた弘晃の部屋に柄の長い鉄槌をぶら下げてふらりとやってきた。
「印半纏を着た棟梁は、僕の見ている目の前でいきなり鉄槌を振り上げると、壁を破壊し始めました」
棟梁は、壁の中央の下部に1メートル四方ほどの大穴をこしらえると、予め寸法に合わせて切り揃えてきた板を使って、大穴を空けた壁全体を覆うような本棚とクローゼットをあっという間に作り上げた。
壊したばかりの古い家の大黒柱や梁を材料にして作った本棚は、見るからに頑丈そうで、ちょっとやそっとのことではビクともしそうにもない重厚な佇まいを有していた。その本棚の一部に、棟梁は、ちょっとした細工をしていた。
「スライド式の本棚ってあるでしょう? あれと同じです。本棚の右下半分ぐらいの幾つかの棚だけが独立していて、引き戸みたいに横に動くんです」
それらの棚を決められた手順で動かすと、棚の一部が本棚の隣に作ったクローゼットの中に移動して、棟梁が壁に空けた穴が現れる。その穴を潜ると、隣の部屋に棟梁が作りつけた棚の中に出られるという仕組みである。
仕掛けを作り終えた棟梁は、抜け道の使用方法を弘晃に説明すると、『これで、いつでも、あのきちがい婆さんを出し抜いてやれますぜ』と、彼に入れ知恵して、意気揚々と仕事に戻っていった。




