49.借りがあるから?
紫乃を引き寄せたまま、彼女の手から開放された弘晃が外の気配を探るように耳を澄ましている。
弘晃の胸元に顔を寄せたまま、紫乃も耳を澄ました。聞こえてくるのは、彼の静かな息づかいだけ。病院は、少し息苦しさを感じるほどの静寂を取り戻していた。
「どうやら、オババさまは、いなくなったようですね」
紫乃に回していた手を緩めると、弘晃が言った。
「ええ」
紫乃は、恥らうように小さくうなずいた。
弘晃の耳から手を放す少し前に、紫乃は、老婆を追い出すことに成功した病院スタッフが廊下で快哉をあげるのを聞いていた。
だが、聞こえてたのは、それだけではなかった。『やれやれ、やっといなくなってくれた』と言いながら戻ってきた弘晃の母親の静江が病室に入った途端に、『あ、あら、お邪魔だったわね♪』と嬉しげに呟きながら一人合点して出て行ったことにも気がついていた。 静江は今頃、当分の間は病室に戻らずにいてやろうと気を利かせてくれているに違いない。
(おかあさま。ごめんなさい)
紫乃は、心の中で未来の姑に詫びた。そして、弘晃にしがみつくようにして腰を屈めていた自分の体を起こすと、ベッド脇にある付き添い用の椅子に行儀よく座りなおした。
あらためて弘晃を向き合ってみると、紫乃には、彼に話したいことや聞きたいことが沢山あった。
それは、弘晃も同じだったようだ。
「弘晃さん。あ」「ねえ、紫乃さ」
顔を見合わせた途端、同時に話し出そうとしたふたりは、まずは相手の話を聞こうと、同時に口をつぐんだ。お互いに相手が話し出すのを待って、無言で見つめあってしまったあと、ふたりは、やはり同時に笑い出した。笑い出して間もなく、弘晃が軽く咳き込む。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。具合のほうは、昨日よりもずっといいようですから」
おろおろしながら弘晃を気遣う紫乃を安心させるように、弘晃が微笑んだ。
「お願いですから、絶対に無理はしないで、安静にしていてくださいね」
結果的に、紫乃が一番言いたかったことが、一番最初に自然に彼女の口をついてでた。
「それはそうと、紫乃さんは、昨日からずっと付き添っていてくれたんでしょう? ありがとう。本当に迷惑をかけてしまって……」
「迷惑だなんて思ってません」
弘晃に詫びなど言わせたくなくて、紫乃は、つっけんどんに彼の言葉を遮った。
「病人は、そんなところまで気を回さなくたっていいんです。でも……」
紫乃の顔が曇った。
「どうしました?」
突然沈んだ顔をする紫乃を訝しげに見つめながら、弘晃がたずねた。
「あの……、私のほうこそ、ご迷惑なのではないでしょうか?」
「迷惑?? 紫乃さんが? なんだってまた、そんなことを思いついたりしたんですか?」
本当に意外そうな顔をしながら、弘晃がたずねた。
「だって……」
紫乃はうつむくと、ますます怪訝な顔をする弘晃に対して半分ほど背を向けた。「あのお婆さんのこと。私のおかげだって……」
「『いかにして、私は、オババさまを克服できたか?』ですか? ええ、そうですよ。あなたのおかげだと僕は思っています」
「それが、『借り』なのですか?」
「借り? 僕が貴女に対して、ですか?」
「ええ。岡崎先生が言ってらしたんです。弘晃さんは、私に返し切れないほどの借りがあると思っているって。だから……ですか? だから、愛の無い結婚をしようとしているわたくしを心配して、わたくしが改心するまでの間だけ、傍にいてくださったんですか?」
「僕が、ただ借りを返すためだけに、貴女と付き合っていたと?」
「そうではないのですか? もしも、そうだったとしたら、とても申し訳なくて……」
うつむいた紫乃は、スカートを覆うフワフワとした生地を握り締めた。
「父が弘晃さんの会社を狙ったのをいいことに、その機会を利用して、まんまと弘晃さんのお嫁さんに納まろうとしている。わたくしがしようとしていることは、つまり、そういうことじゃないですか? 弘晃さんにしてみれば、とても迷惑なことではないのですか?」
「迷惑どころか、嬉しいですけど」
弘晃が微笑んだ。
「ねえ、紫乃さん? 壮太は……岡崎先生は、そういう話し方をしましたか? つまり、貴女が僕に対して引け目を感じなければいけないような?」
「あ、いいえ、決して、そんなことは……」
紫乃は、大きく首と手を振った。
「具体的に、彼は、何と言ったんです?」
「え?」
聞かれるやいなや、紫乃は頬を染めた。具体的に……なんて、照れくさくて言えない。
「おふたりとも、その……私が、嬉しくなるようなことばかり話してくださいました。でも、嬉しいことばかり言ってくださったので、なんだか信じられなくて……」
弘晃は、『やっぱり……』と言いながら、点滴をしていない右手で、赤みの差した顔を覆っていた。
「あのふたりのことだから、僕が居た堪れなくなるほど恥ずかしくなるようなことを貴女に話したに違いないんですよ。でも、ふたりの言ったことは、そのまま鵜呑みにしてくださっても結構ですよ。ええ、そうです。僕は、あなたに『借り』があることにかこつけて貴女に執着し、貴女との交際を少しでも長引かせようとしてました」
弘晃は、照れが高じて開き直ったようだった。
「だいたい、相手が紫乃さんじゃなかったら、なにがあっても見合いなんかしませんよ」
「え? わたくし……だったから?」
驚いた紫乃は、両手で口元を覆った。はしたないと思いながらも、彼女は、手の内側に隠された自分の口元が、自然に緩むのを押さえ切れなかった。
「そう。断らなければいけないにせよ。 一回会うぐらいなら許されるかな……と」
さすがに面と向かって話すのは恥ずかしいのか、弘晃の目が泳いだ。
「直接会って話してみたかったというのもあるけど、僕に気がついてほしかった……と言いますか……」
「え?」
「あ、別に、変な意味ではないんですよ」
問い返す紫乃に、弘晃が首を振る。
「ただ、ずっと見ていたから。でも、僕は貴女を見ていたけれど貴女は僕のことを全く知らない。考えてみれば、こちらから一方的に見てばかりいうのも、貴女に対して失礼だな……と思ったり、いや、それより、全く知られていないというのも寂しいな……と思ってみたり、ですね。だから、一回ぐらいは、僕が貴女の視界の中に入ってみても、罰は当たらないんじゃないかと思って…… そう。ただ『いるな』程度に貴女に僕を認識してもらえれば、それでよかったんです。一生、目の端にも止まらない赤の他人じゃなくて、見たことがある程度の赤の他人というか……。あああ、いったい、僕は何を言わんとしているのだろう?」
紫乃に劣らず、脈絡がなくなってきた自分の話を持て余した弘晃は、『それよりも、紫乃さん』と、話をいきなり紫乃に振った。
「紫乃さんこそ、考え直すなら、今のうちですよ」
「はい? 何を?」
「僕との結婚です。貴女のお父さんとうちの会社のことは、抜きにして考えてくれてください。昨日の僕と六条さんとの話は聞いていたでしょう? 勝負は引き分け。会社のことは、なんとかなります」
「でも、どうして? 弘晃さんの体が弱いことなら、それは……」
今更、考え直せと言われる理由がわからなくて紫乃が顔をしかめると、「だって、考え直したくなってませんか?」と、弘晃は、なぜか意地の悪い笑みを紫乃に向けた。
「うちは、呪われているそうですから。僕と結婚したりしたら、貴女にも呪いが降りかかってしまうかもしれませんよ」
「な……」
紫乃は、呆気にとられ、ついで、笑いだした。
「いやだ。 弘晃さんったら、からかったりして……」
「からかってません、僕は大真面目です」
弘晃が精一杯真面目な顔をしてみせる。
「え? うそ……? 呪いなんて、本当に、あるの?」
紫乃の笑顔が凍りついた。
彼女の頭の中に、『おんりょう』と書かれた大きくて黒い物体が、漬物石のように中村家を屋根の上から押しつぶそうとしている光景が浮かんだ。
「……なんてね」
青ざめた紫乃を見て、弘晃がニヤリと笑った。
「も~っ!! 弘晃さんの意地悪っ!! 嫌いっ!!」
紫乃が、笑っている弘晃に当たらないように、彼の掛け布団を拳でポカポカと殴った。
「人のことを驚かせたお返しです。……と言いたいところですが、実は本当に大真面目です」
弘晃は、意地の悪い表情を引っ込めると、紫乃を見た。
「呪いはないにせよ、中村本家が、インチキ霊能者に振り回されて家を傾けたことは本当ですから。なにせ、一時期は、共倒れを恐れた分家にさえ見捨てられた本家ですからね。いくら大きくて古くても、うちの評判はむごいものらしいですよ。 まともな家なら、うちに自分の娘を嫁に出そうとは思わない。だから、僕と結婚すれば、紫乃さんも、周囲から何を言われるものかわかったものではありません。生きている人間の悪意のほうが、死んでいる人間の呪いなんぞより、ずっと恐ろしい。そのことを、紫乃さんはよくご存知のはずです」
「わたくしは、そんなの気にしませんわ」
紫乃は、間髪を入れずに答えた。
「でも、嫌な思いをするのは、紫乃さんだけじゃないかもしれない」
弘晃が寂しそうに微笑む。「害は、妹さんたちにまで及ぶかもしれない」
「そんなこと……」
『そんなことは気にしない』という台詞は、長い間、妹たちのために自分の結婚を犠牲にするつもりでいた紫乃の口からは、すんなりと出てこなかった。口ごもってしまった紫乃に、弘晃が優しく穏やかな眼差しを向ける。
「よかった。『妹たちのことなんて、どうでもいい』って、即答されたらどうしようかと思った」
弘晃が言った。
「え?」
「だって、紫乃さんが、ずっと気にかけていたことではないですか。『どうでもいい』なんて言えるなら、それは、紫乃さんの頭に血が上っている証拠です。あるいは、今にも死にそうな僕と、今にも潰れそうなうちの会社を救うという自分の役割に酔っているかのどちらかでしょう。だったら、結婚の話は、いったん白紙に戻したほうがいいと思うんですよ」
「白紙なんて、嫌です!」
今度の紫乃は、すんなり意思表示ができた。
「それに、わたくし、自分に酔ってなぞいません。弘晃さんは、わたくしがメチャクチャなことをしていると思われているかもしれませんけど、昨日からの行動は、わたくしなりに、いろいろ考えた上でのことです」
紫乃は口を尖らせた。
「そうなんですか?」
「そうですとも! それに、中村家の評判のことは、それほど心配することはないと思うんですよ。だって、もう過去のことですもの。分家の皆様とも仲直りしたし、会社だって、ちゃんと立ち直ったじゃありませんか? そう! そういえば、弘晃さんって、すごかったんですね」
紫乃は、嬉しげに手を合わせながら、弘晃を見た。
現在の中村物産は、父が無用な横槍さえいれなければ順調に立ち直りつつある。
一時期は弘晃の祖父の横暴に耐え切れずに離反した分家も再結集し、あらためて全事業の見直しと再編成を行っているという。
紫乃の父親が強引に中村物産を潰そうとしない限り、数年の後には、なんの問題もない健全な経営状態になる予定である。
岡崎と弘晃の母の話では、それらを成し遂げた一番の功労者が弘晃であるということだった。




