48.絶対にいや!
目を開けた弘晃は、ぼんやりとした表情を浮かべたまま、自分が置かれている状況を確認するように周囲を見回すと、ほっとしたような顔をし、小さく「あ……なんだ、夢か」と言った。
それから、彼は、傍らにいる紫乃に視線を戻すと、彼女が気恥ずかしくなるほどの長い間彼女を見つめた。 そして、何を思ったのか、感じ入ったように、『紫乃さん。とても、きれいだ……』と呟いた。
「やだっ! 弘晃さんってば、まだ寝ぼけているんですか?」
言われた途端、火がついたように顔を赤くした紫乃は、弘晃の視線から逃げるように顔を下に向けながら喚いた。
今の紫乃は、お世辞にもキレイといえるような状態ではない。着替え損ねて着たきりになっているパーティー用のドレスは、着崩れてシワが寄っているいるだけではなく、まばゆい朝の光に晒されて、ひどく色あせて見えた。それに、ドレスなどどいうチャラチャラしたものを着ているにも関わらず、今の紫乃は、紅のひとつも引いていない。泣いたせいで崩れてしまった化粧は、とっくの昔に洗い流してしまっていた。
「それに、髪だってグチャグチャだし、徹夜したり泣いたりで、顔なんかパンパンで……」
嘆き続ける紫乃を、弘晃は、少し困っているようではあるが、ニコニコしながら見つめている。それもそのはずで、目覚めてからずっと、彼の両耳は紫乃の手で蓋をされていた。
「あの、紫乃さん? いったい何をおっしゃっているのでしょうか? 僕には、全然聞こえないんですけど?」
弘晃が、ニコニコしながらも申し訳なさそうに、紫乃の話を中断させた。
「貴女が僕の耳を塞いでくれているのは、そうしてくれるように 僕が寝言で貴女に頼んだせいなのかな……とは思うんですけど。でも、もういいですよ。手を放してくれませんか?」
「え? えーと……ですね。その、それは、できません」
紫乃は首をふった。そうしたくない理由が彼女にはあった。
「ダメなんですか? なぜです?」
弘晃が、怪訝な顔をした。
「それは……」
弘晃は察しが良い。というよりも、どんなに鈍感でも、こんなふうに耳を塞がれていれば、彼の近くに彼に聞かせたくない『何か』があることに気がつくものである。
「何か、あったんですね?」
弘晃は右手を動かすと、紫乃の左手首を掴んだ。
「あっ、駄目ですっ!」
紫乃の抵抗むなしく、彼女の左手は、あっさりと弘晃の右耳からもぎ離された。『弘晃は、ひょろひょろに見えるけど、あれでも地道に鍛えているんだよ。寝たきりになったら困るからね』と、先刻、現在の弘晃の主治医である岡崎壮太医師から聞かされたばかりの言葉を思いがけないところで証明されて、紫乃は憮然とした。
紫乃の手から開放された弘晃は、枕に頭をつけたまま、音がするほう……廊下から室内に洩れ聞こえてくる騒音に顔を向けた。
「おやまあ。懐かしいというかなんというか……。道理で夢見が悪かったわけだ」
弘晃が、小さく笑った。
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一度は追い出したはずの老婆が、弘晃の病室があるフロアに現れたのは、いまから15分ほど前のことである。
『紫乃ちゃんは、弘晃の傍にいてあげてね。独りぼっちで目を覚ましたときに、『あの人』の声が聞こえたんじゃ、弘晃が可哀想だから』
岡崎医師と弘晃の母は、紫乃にそう言い残すと、老婆を追い出すために病室を飛び出していった。
だが、老婆は、捕まることも追い出されることもなく、いまだに、この病室のあるフロア中を逃げ回っているようである。老婆の声と彼女を追い回す病院スタッフの声や足音は、いつまでたっても鳴り止まない。なかでも、祈祷と称する老婆の奇声は、病室の中まで、ハッキリと聞こえてくる。
「弘晃さん、あんなのを懐かしがったりなさらないでくださいなっ!」
紫乃は、弘晃の耳をしっかりと塞ぎなおした。
「紫乃さん。そんなことをしてくれなくてもいいですよ。僕は大丈夫ですから」
弘晃が、彼の両耳に手を押し付ける紫乃をなだめるように笑いかけた。
だが、紫乃は手を放す気はなかった。頑固に首を振る彼女を見て、弘晃が困ったような顔をした。
「オババさまのことを誰かに聞かされたんですね? 僕のことも? 母か壮太から?」
弘晃がたずねた。
紫乃がうなずくと、弘晃が笑った。
「あのふたりは、特におおげさなんです。ふたりの話を聞いた貴女が想像しているほど、僕は辛い目にはあっていませんよ。それに、もう昔のことです。いまさら気にしたりしません。大丈夫ですから。手を放してください」
「嫌です」
「『いや』?」
聞こえないながらも、紫乃の唇の動きを読み取った弘晃が眉をひそめる。
「そうよ。 ダメなのではなくて、わたくしが嫌なの! 絶対にいや!!」
紫乃は、言い張った。
「……だって、ちっとも大丈夫に見えなかったもの。あんなふうに……」
弘晃の母親と岡崎医師が病室を出て行った直後、老婆の祈祷の声をきっかけにして、夢うつつの弘晃が取った行動は、見守っている紫乃までが苦しくなるほどだった。
「あんなふうに、ずっと我慢していたの? あんなふうに布団に潜り込んで体を丸めて? あんなふうに耳を塞いで?」
眠っている弘晃は、自分が点滴をされていることなど、もちろん忘れている。布団を引っ被ろうとする弘晃を見て、点滴の管が掛け布団に引っかかって抜けてしまうのではないかと思った紫乃が慌てて彼を押さえた。すると、弘晃は、『耳ぐらい塞がせてくれ』と、眠ったまま叫んだのだ。そのときの弘晃は、とても辛そうで、今にも泣き出しそうに見えた。
起きている弘晃は『昔のことだ』と笑っているが、それは、彼の人並み以上に発達した自制心がそう言わせているだけのことに違いないと、紫乃は思っている。祖父と両親の間で諍いが起きないように、本家と分家の溝が決定的なものにならないように、この人は、幼い頃から自分が譲れるところは全部譲って、理不尽な目にあっても不平の一つも言わずに、自分さえも誤魔化して、ずっと我慢してきたに違いない。
「弘晃さんは、一番の被害者でしょう? そのあなたが……一番小さくて、ただの子供だったあなたが、なぜ、誰よりも我慢して、いろいろなことを諦めて、聞き分けの良い『いい子』になって暮らさなきゃいけなかったんですか? そんなの変です! だいたい、弘晃さんのおじいさまという人は、 いったい、どういう神経をしていらっしゃるんですか? 自分の孫なのに、『呪い』なんて言葉を間に受けて、赤ちゃんをおかあさんから無理矢理引き離して! 弘晃さんやおかあさまたちがどんなに辛い思いをしても、自分さえよければ構わないなんて、あんまりです! どうかしてます!」
紫乃は、弘晃の耳を塞いだまま、彼に向かって訴えた。
本当の弘晃は、心の深いところで、とても傷ついている。
その傷は今でも癒えていない。
だから、無意識のうちにあんな行動をとったりするのだ。
あんな傷ついて悲しそうな顔をする弘晃など、紫乃は、もう見たくない。
老婆のことで、もう二度と彼に辛い思いはさせたくない……させない。
「『大丈夫だ』なんて、嘘です! 大丈夫なフリができるってだけじゃない!」
「紫乃さん、何を言っているんですか? 僕に、ちゃんと話を聞かせてください。手を……」
困惑した表情を浮かべながら、弘晃の指が、泣きながら耳を押さえている紫乃の手に触れる。
「いやっ!」
今度ばかりは力ずくで放されまいと、紫乃は弘晃の耳……実際には彼の耳がついている弘晃自身にしがみ付いた。
「……。昨日は、わたくしのことを、さんざん『馬鹿』呼ばわりしたくせに、あなたのほうが、よっぽど馬鹿じゃない……」
紫乃の頬を伝う涙が、弘晃の頬を濡らした。
弘晃は、一度だけ、紫乃の手を引っ張っぱろうとした。
だが、彼は、すぐに手を緩めると、小さく息を吐いた。 そして、彼にしがみついている紫乃の背中に片手を回すと、あやすように優しく撫で始めた。
「何を言っているかは、ほとんど聞き取れなかったけど、恐らく、貴女は僕とオババ様のことで怒っているんですよね?」
紫乃が、ある程度落ち着いてから、弘晃がたずねた。
「まったく、あなたにも困ったものですね。正義感が強いうえ、思い込みが激しいというかなんというか……。妹さんたちのことにしても、僕のことにしても、結局は他人のことなのに、どうして、いつも、そこまで一生懸命になってしまうんだろう?」
弘晃が、小さく笑いながら、紫乃を引き寄せた。
文句を言っているものの、怒っているふうではない。彼の声は、とても優しくて暖かかった。
「……だって……」
拗ねたように言いながら、紫乃が顔を上げた。
まつげが触れ合うほど、彼の端正な顔が彼女のすぐ目の前にあった。
「でもね。紫乃さん」
弘晃が涙に濡れた紫乃の目を見つめて微笑む。
「耳を塞げば、確かに、オババさまの声は聞こえなくなるかもしれません。昔の僕は、そうやって彼女の声をやり過ごしていた。だけど、それでは、僕は、いつまでたっても独りぼっちのまま。自分の殻に閉じこもっているだけで、オババさまの声に囚われていることに変わりはないと思うんです。耳を塞げば、オババさまの声だけじゃなくて、他の人の声も聞こえなくなってしまう。それでは、何も変わらないし、変えられない。だから、僕は、随分昔に、オババさまの声に囚われることをやめようと思ったんです。そして、そう思えるようになったのも、実は、貴女のおかげなんですけど……」
「わたくしの?」
驚いたように目を瞠る紫乃に、「そうですよ。貴女がいたから」と、弘晃が微笑みながら、うなずいた。
「いじめられても逃げずに正々堂々と前を向き続けて頑張っていた貴女を知ったときから、僕は逃げるのをやめたんです。だから、どうか手を放してくれませんか? 貴女の声が聞きたいんです」
紫乃を見つめる弘晃の眼差しは、彼女を包み込むように優しく穏やかだった。
彼の目を見つめながら、紫乃は、『ああ、この人は本当に大丈夫なんだ』と、訳もなく思った。
紫乃は、小さくうなずくと、そっと手を放した。




