47.耳をふさいで
『逃げる』
……といっても、新幹線がなかったどころか、電車にしても自動車にしても、今よりもずっと不便であった時代のことである。しかも、弘晃は医者なしには生きていけないほど弱い。
着の身着のままで飛び出して、行き先も決めないまま夜行列車に飛び乗り、とにかく行ける限り遠くまで行き、人に見つかる心配はなくとも近くの小さな診療所でさえ山ひとつ越えないと行けないような山里に、極端に体が弱い弘晃を連れて隠れ住む……なんてことができるわけがなかった。
ならば、無理をして中途半端に遠くに逃げるよりも、たとえ近場でも人ごみの中に念入りに紛れ込んでしまったほうが見つかりづらいのではないか……と考えた父弘幸は、事前に都心から少し離れた町に仕事と棲家を見つけていた。一家は、何食わぬ顔をして地域に溶け込み、普通の』生活を送り始めた。
心が空っぽのまま3歳にまでになってしまった弘晃に、両親は、精一杯の愛情を注ぎ込んだ。彼らは、あたかも小さな赤ん坊を一から育てなおすように、根気良く弘晃に接した。飲み込みが早いのか、弘晃の成長は目覚しかった。わずか数ヶ月の間に、彼は、普通の幼児と変らないどころか、人並み以上の利発さを見せるようになった。体は弱いままだったが、なんとか大事に至らずにすんでいた。
寝床で安静にしているときに弘晃の耳をくすぐるのは、もはや老婆の悲鳴のような祈祷の声でなく、柔らかな陽射しが差し込むベランダで洗濯物を干している母親の朗らかな歌声だった。弘晃のすぐ横では、兄に懐きたくて寝床に潜り込んできた弟が、枕に涎を垂らして気持ちよさげに寝息を立てている。弘晃は、弟のほうに寝返りを打つと、柔らかな髪に覆われた彼の頭に手を伸ばして、そっと撫でた。
「ずっと、このままだといいな……」
3歳児に似合わぬことを呟くと、弘晃は、小さくあくびをしながら目を瞑った。
ずっとこのまま……
あの頃。 弘晃だけでなく両親も、祈るような気持ちで、ただそれだけを願っていた。
ただ、中村の情報収集力や機動力を考えると、見つかるのは時間の問題だと思われた。しかし、少しでも長く隠れ続けることにこそ家出をした意義があると両親は思っていたようだ。
時間を稼いだところで、正弘を次期中村本家の当主にという幸三郎の思惑は変らないかもしれない。だが、弘晃が不在の間に中村本家の事業と当主幸三郎の身に何も起きないとなれば、いくら頑迷な幸三郎でも、老婆の霊能力はインチキだと気がつくはずである。そうすれば、少なくとも弘晃は解放されるだろう。幸三郎も、少しは自分の行いの行き過ぎを反省し、人に無茶ばかりを押し付ける性格を改めるかもしれない……
しかしながら、弘晃が中村本家から姿を消している間、事態は彼らが望んだ方向とは、全く逆の方向に進んでいた。
間の悪いことに、弘晃がいなくなったのと時を同じくして、財閥を解体され大幅に事業規模を縮小されてもビクともしないように見えた中村本家の事業に大きな陰りが見え始めた。
一番の痛手は、大陸での新たな事業を展開するために戦争中に注ぎ込んだ莫大の資金の回収が、完全に不可能になったことだった。
大損したショックで、水から揚げられた金魚のように顔を赤くしながら口をパクパクさせていた幸三郎のところに、今度は、占領軍が政府を通じて、財閥解体時に3分割した旧中村財閥の事業のうち、中村本家が引き継いだ分がまだまだ大きすぎるとクレームをつけてきた。勧告によって、中村本家は、更に事業から4分の1を切り離さねばならなくなってしまった。
老婆は、こんなことになったのも、弘晃がいなくなったせいだと主張した。
『そなたの代わりに怨霊の呪いを引き受けておった弘晃がおらぬようになったために、怨霊の呪いは、本来呪われるべきそなたとそなたの会社に向かい、そなたらを滅ぼそうとしておるのじゃ。わしもできる限りの力を尽くすが、弘晃がおらぬゆえ、いつまで持ち堪えられるがわからぬぞ』
それからというもの、幸三郎は、老婆をいつでも自分の身近に置くようになった。そうする一方で、彼は、日本全国に人をやるだけでなく、裏から手を回して警察まで動かして、血眼になって弘晃の行方を探させていた。
乳飲み子と病弱な幼児を連れた若夫婦。そのような4人連れであれば逃げる途中で必ず何かしら痕跡のようなものを残しているはず……幸三郎は、そう考えた。だが、いくら調査を続けても、列車の駅員や宿屋の従業員に、そのような家族連れを覚えている者はいなかったし、弘幸一家らしい余所者が住み着いているという情報が地方から寄せられることもなかった。
幸三郎は、弘幸たちが都内に潜伏しているなど考えもしなかった。『ひょっとしたら意外に近くにいるのでは?』という側近の言葉を、彼は『馬鹿か? お前は』の一言で退けた。
「弘晃は、まだ見つからんのか! この役立たずめらがっ!!」
気味の悪い老巫女を常に連れ歩き、弘晃たちが見つからない焦りで目をぎらつかせながら、何かにつけて側近たちに当り散らす中村家の当主を見て、誰もが異様なものを感じずにはいられなかった。中村幸三郎を当主として従う一族のものとて、その例外ではない。
「ご本家さまは、いったい、どうなされてしまったのか?」
一族にとって、本家当主のすることを疑ったり、ましてや彼に意見したりすることは最大のタブーである。だが、この時期の幸三郎のありようは、身内だからといって庇いようがないほど異常であった。
そうはいっても、当時の中村家当主の権威は絶対的なものであった。大げさではなく、当主は、彼らの生殺与奪の権利を握っている。幸三郎の時代までは、当主の命令一つで、他の分家の当主の首を挿げ替えることもできたのである。
本家筋の親戚や分家の当主たちは、幸三郎に気取られないように、本家の内情を調べ始めた。
あの老巫女は何者なのか? 幸三郎が息子や孫を探しだしたい気持ちはわからないでもないが、どうして、彼は、彼が期待をかけていた正弘以上に、病弱なばかりで役にも立たないと言っていた弘晃に執着しているのか?
いろいろ調べてようやく、彼らは、ここ3年の間に本家内で起こっていたことを知るにいたった。
『いかがわしい巫女さんのいうことを鵜呑みにして、病気がちな弘晃を親から引き離すとは……ご本家さまも、どうかしている』
『当主の座に、このまま幸三郎さまを据えておくのは、一族全体にとって良い事なのだろうか?』
一族の間では、幸三郎の当主としての器を疑問視する声が日増しに大きくなっていった。それらの声は、廻り廻って幸三郎の耳にも入ってきた。
「どいつもこいつも、わしを破滅させようとしている」
幸三郎は、そう思い込んだ。
これも、きっと呪いのせいに違いない。 怨霊が皆を操り、幸三郎を不当に貶め、当主の座から引き摺り下ろそうとしているのだ。
幸三郎は、もはや誰も信じられなくなっていた。信じられるのは、自分自身と、そして彼を守る老婆だけだ。
弘晃発見の一報が届いたのは、そんな時。見つかることになった原因は、やはり弘晃だった。風邪をこじらせて、大きな病院に担ぎ込まれたところを見つかったのだ。
弘晃たち一家は、とうとう本家に連れ戻された。
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「出て行きたいのであれば、お前らだけ出て行くがいい! 弘晃は渡さん。正弘はわしが育てる」
幸三郎は、子供たちを手元に残して弘幸夫婦を本家から追い出すことに決めた。
だが、今回ばかりは、一族の者が黙ってはいなかった。弘幸夫婦や弘晃への幸三郎の処置は、あまりにも情けに欠けている。中村家の当主の非情ぶりが世間に知られることになったら外聞が悪すぎると彼らは口を揃えて弘幸たちをかばってくれた。
特に怒っていたのは、壮太の父親……弘晃が生まれたときにも立会った岡崎医師であった。
岡崎家もまた中村の傍流であり、長年にわたり中村家の医師としての役割を担ってきた家である。医者という職業柄、人の命が掛かっている以上、岡崎家の人間は、当主だろうがなんだろうが遠慮することはない。
「弘晃くんには私よりもいい医者が見つかった。だから私は不要。そう仰ったのは、嘘だったわけですか?!」
「不要だから不要だと言ったんだ。実際に医者なんかいらなかったじゃないか!!」
「あのふざけた巫女さんのお祈りのおかげだっていうんですか? ペテンに決まってます!」
「だったら、おまえが『呪いじゃない』って証明してみせろ!!」
「そういうあんたこそ、『呪い』だって証明してみせなさいよっ!!」
「うるさい! これは呪いだ!」
「じゃあ、呪いじゃなかったら、どうするんですよ? 弘晃くんには、医者も家族も適度な運動も必要なんだよっ!」
まるで子供同士の喧嘩だが、どちらも譲らなかった。すべてのカラクリを知っていそうな男たち……老婆と一緒に中村家に入った3人の男は、弘晃が姿を消してまもなく、いつの間にかいなくなっていた。
老婆は、『これは呪いじゃ!!』としか言わない。この人に限っていえば、彼女を操っていた男たちの思惑とは関係なしに、本当に『呪い』を信じているようだ。結局、『呪い』だとも『呪いでない』とも、どちらも証明することができぬまま、双方が少しづつ折れることになった。
岡崎と一族は、老婆を本家に置くことと、幸三郎をこれまで通り中村本家の当主とすることを容認し、幸三郎は、弘幸夫婦を中村本家から追い出さないこと、弘晃に岡崎が必要だと認めたときには彼の診察も受けさせること、そして、弘晃にも人並みの教育を与えることや、弘晃を1日中部屋に閉じ込めるようなことはせずに具合の良いときには時間を決めて外に出すことなどを、いちいち約束させられた。
弘晃が閉じ込められていた離れも、取り壊されることが決められた。弘晃の部屋と弘幸たち夫婦と正弘の部屋は離され、自由な行き来も祖父によって制限されたものの、それでも、弘晃は同じ屋根の下で両親と暮らせるようになった。
弘晃の具合が悪くなると、老婆が彼の部屋の前に陣取って祈祷三昧になるために、両親が弘晃の部屋に近づくことはできなくなるが、具合さえ良くなれば弘晃にも少しの自由は与えられる。庭に出ることもできるようになる。そうすれば、弘晃も老婆の目を盗んで両親に会うこともできる。弟の正弘とだって遊ぶことができるはずである。
(それに……)
あと小一時間も我慢すれば、岡崎が弘晃を診察に来てくれるついでに、一時的に老婆を部屋の前から追い払ってくれるはずだし、退屈しのぎの新しい本も大量に持ってきてくれるはすだ。
(だから、もうちょっとの我慢)
布団に包まった弘晃は、辛抱強く自分に言い聞かせた。
我ながら我慢強い奴だとは思うが、我慢するよりしかたがない。
『ここから出して! 皆と一緒にいたい!』
中村家に連れ戻されたあと、弘晃とて、そのようなことを言って泣き喚いたこともあった。
だが、そのたびに弘晃は熱を出し、祖父幸三郎は逆上し、両親は家から追い出されそうになり、両親を庇って……というよりも幸三郎の被害が拡大するのを恐れて……一族挙げての大騒ぎになる。余計な波風を立てない一番の方法は、とりあえず弘晃がおとなしくしていることであると、聡明な彼は早いうちに諦めてしまった。
(我慢、がまん……)
老婆の独特の祈祷の抑揚に合わせて、弘晃は心の中で呟いた。
それにしても、今日の祈祷の声は、いつも以上にけたたましい。
(いっそ、僕も怨霊ならよかったのにな)
弘晃は思った。そうしたら、オババさまのご祈祷で、自分も、ここから追っ払ってもらえる……かもしれない(無理だと思うけど)。
(岡崎先生が僕を病院に入院させてくれればいいのにな。そしたら、壮太と遊べるし……)
だが入院も、余程のことがないかぎり、祖父が許さない。
(本当に、うるさいな)
弘晃は、寝返りを打つと、老婆の声を遮断するために両手で耳を塞ごうとした。すると、耳に当てようとした弘晃の手を誰かが押さえつけた。
「耳を塞ぐぐらい、構わないだろう?」
半分眠ったまま、手をふり払おうともがきながら、弘晃が喚いた。文句を言ったとたん、彼を押さえ込んでいた手は、すんなりとはずれた。そればかりではない、その手は、彼に代わって彼の耳を塞ぐことまでしてくれた。
(でも、この手って、誰の手だ? )
彼の耳を包むように添えられた手の優しく柔らかな感触に、寝ぼけていた弘晃の意識が急速に覚醒する。
弘晃がようやく目を開けると、彼を心配そうに見つめている紫乃の顔が目の前にあった。




