43.疑い
(おかあさま…… モップなんて、どこから?)
……という紫乃のぼんやりとした疑問はさておき。
「その子から、離れなさい!」
静江は、そう叫ぶなり、老婆に向かって問答無用でモップを突き出した。
老婆が、大きく体をそらして、ギリギリのところでモップをかわす。間髪をいれずに、静江のモップが空気を切り裂くような勢いで老婆の足元をなぎ払う。モップは直接当たらなかったものの、老婆は、バランスを崩して尻餅をついた。それでも、静江は攻撃をやめない。がむしゃらにモップを振り回し、紫乃の前から老婆を追い払った。
「ま、待て! 静江! 息子の命が惜しくはないのか? さては、そなた、悪霊に操られておるな? わしを弘晃から引き離してなんとする?!」
モップに追い回され、こけつまろびつしながら、老婆が喚く。だが、老婆の言葉は、余計に静江の怒りを買っただけであったようだ。
「おだまりなさい! 今度、弘晃の前に現れたら、ただじゃおかないって言ったはずよ!」
静江は、老婆を威嚇するように、モップを振り上げた。髪を振り乱して丸腰の老人をモップで追い回す熟年婦人……悪霊に憑かれたのだと言われれば信じてしまいそうなほど、静江の剣幕は凄まじかった。
紫乃が呆然としていると、騒ぎを聞きつけた女性の看護師たちが数人、ナースステーションから駆けつけてきた。
「あ! また! いったいどこから入り込んだの!」
看護師のひとりが叫ぶのが聞こえた。どうやら、看護師たちも、この老婆には迷惑しているらしかった。多勢に無勢……自分に勝ち目がないとわかった途端に、老婆は、降参だというように両手を挙げ、「わかった。今日のところは帰る!」と宣言した。
「まったく。わしは弘晃の身を案ずるがこそ、わざわざここまで訪ねてきてやったというのに、罰当たりめらが……」
老婆は、拗ねたように口の中でブツブツいいながら、のそのそと立ち上がった。
先刻までのオドロオドロしい雰囲気はどこへやら、今、紫乃たちの前にいるのは、ただの小さなおばあさんにしか見えなかった。さすがにか弱そうに見える老人に危害を加える気にはなれないのか、静江も看護師たちも、敵意のこもった眼差しを向けながらも老婆が立ち去るのを待っている。
しかしながら、おとなしく帰るかに見えた老婆は、おもむろに両手を天に差し上げると、甲高い声を上げはじめた。以前、老婆と海で会った時に、彼女が弘晃の前で喚いていた祈りの言葉と同じだということに紫乃も気が付いた。
「これでよし」
30秒足らずの謎の祈祷を終えると、重々しく老婆がうなずいた。
「これで亡者たちも少しの間はおとなしくしておるだろう。だが、前々から申しておるように、一刻も早く弘晃に本格的なわしの祈祷をうけさせることじゃ、さもないと……」
「弘晃の命はないぞ」と、老婆は言いたかったのだろうが、静江がさせなかった。
「病気と闘っているのは、弘晃よ! 絶対にあなたじゃないっ!!」
静江は、老婆のいる場所をめがけて、力いっぱいモップを振り下ろした。
今度こそ直撃だと思った紫乃は、とっさに目を瞑った。だが、老婆は、ひらりと身をかわすと、紫乃のほうを見て、にやりと笑った。それから、静江たちに背中を見せると、一目散に逃げていった。
「病院の外まで出て行くのを確認して!」
いかにもベテランといった感じの年配の女性の看護師の指示で、若い女性の看護師ふたりが老婆を追いかけていった。
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病室に戻り、紫乃が弘晃のベッドの側で年配の女性の看護師から捻った足の手当て受けていると、弘晃の主治医の岡崎医師が入ってきた。
岡崎は、まずは眠っている弘晃の状態を確認した。岡崎が弘晃の胸の辺りに聴診器を当てていると、弘晃が顔をしかめ、微かに目を開けた。
「……壮太?」
「良く頑張った。もう少しの辛抱だからな」
岡崎が、弘晃の視界に入るように体を傾け、彼に笑いかけた。
「みんな、お前の傍にいるよ。紫乃さんも。だから、ゆっくり休め」
岡崎の言葉を受けて、紫乃は弘晃の名前を呼びながら彼の手をそっと撫でた。弘晃は、紫乃のほうに視線だけを動かし彼女の姿を確認すると、安心したような顔でまぶたを閉じた。
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弘晃が眠ったのを見届けると、岡崎は聴診器を外しながら、紫乃の手当てをしている看護師を短く言葉を交わした。
岡崎と看護師の口調も表情も、数時間前と比べると、だいぶ和んでいる。見た目にはそれほど変化はないように思えるが、弘晃は先刻よりも回復しているのかもしれない。紫乃の期待を裏付けるように、岡崎は、『もう大丈夫とは、まだ言えないけど、確実に良くなってきてはいるよ』と、彼女に笑いかけた。
もしかして、あの老婆の祈祷の効果なのだろうか? そんな考えが紫乃の頭をちらりとよぎった。
「ところで、ばーさんが来たって?」
「そうなんですよ。こんなに腫らしちゃって可哀想に……。あの婆さん、ろくなことしないんだから。」
岡崎の問いかけに、看護師が、まるで紫乃の捻挫までが老婆の責任であるかのような口ぶりで答えた。
「あの人、ここに、よく来るの?」
静江が岡崎にたずねた。彼女は、老婆が姿を消すと同時に、いつもの上品な奥さまに戻っていた。
「たまにね。弘晃が目当てというわけではないようだけど」
「どこからともなく潜り込んでは、入院患者やその家族に妙なことを吹き込むものだから困っているんですよ。病院内に注意を促す張り紙もしているし、警備員さんたちも私たちも見つけ次第、放り出すようにはしているんですけど」
看護師が紫乃の足に湿布を張りながら、憎々しげに言った。
「あの……」と、控えめに紫乃が口を挟んだ。
「追い返してしまって、よかったのでしょうか?」
「当たり前じゃない!」
3人が同時に声を揃えた。
「でも……」
「大丈夫よ。呪いなんてないから」
紫乃の不安を察したのだろう、静江が、両手で紫乃の手を包んだ。
「ずうっと前に、あの人を家から追い出した時、あの人は盛大に呪いの言葉を吐いていったわ。『三日以内に、家族全員が苦しみ悶えて死ぬ』ってね。でも、誰も……弘晃さえも無事だった。あの人には、なんの力もないの」
「小母さん。紫乃さんには、ちゃんと話しておいたほうがいいんじゃないかな? 婆さんに唆されて、うっかりこの病室に入れるようなことがあっても困るから」
岡崎が、弘晃の母に声を掛けた。
「そうね。そんなことになったら、弘晃が可哀想ですものね」
あまり気が進まないようすではあるが、静江は岡崎医師にうなずいてみせると、紫乃に話しかけた。
「聞いてもらえる? もう昔の話だし、聞いても、楽しい話ではないのだけど……」
紫乃がうなずくと、静江はためらいがちに話し始めた。




