42.からめとられる
紫乃は、突然現れた老婆を警戒するように後ずさった。
だが、後ろに下がってすぐに、ついさっきまで自分を励ますために使っていた窓ガラスに背中が当たる。逃げ場のない紫乃を追い詰めるように、老婆が彼女の前に立ちふさがった。
「おまえさん、海で弘晃と一緒にいたオナゴじゃな?」
老婆がたずねた。質問というよりも確認に近い言い方だった。「そして、弘晃を慕うておる」
「な、なにを……」
「隠さずともよい。わしの目は特別じゃ。わしの目には、そなたと弘晃を結ぶ縁の糸が、はっきりと見えるのよ。そなたたちは出会うべくして出会い、互いを伴侶と認め合った。だが、今生で出会えたのもつかの間、再び別れなければならぬとは、なんと残酷な運命なのであろうなあ」
老婆は目を伏せると、さも悲しそうに小さく首をふった。
「別れって……」
弘晃の死が動かしようのない未来でもあるかのように言われて思わずカッとなった紫乃は、老婆を睨みつけた。
「どうして、そんなことをおっしゃるんですか? 弘晃さんは……」
「死ぬさ! このままではな」
老婆は目を見開くと、紫乃の両腕を掴んだ。そして、精一杯伸び上がり、紫乃の鼻先まで顔を近づけた。
「弘晃は、もう長くはもたん。何日も熱に浮かされ、苦しみもだえ、やせ衰えて、やがて死……」
「やめて! 」
紫乃は老婆の話を遮った。聞きたくない。
だが、耳をふさごうとしても、できない。老婆の骨ばった手が紫乃の腕を離してくれない。
「いいから聞け。弘晃が死んでもよいのか?」
紫乃のすぐ耳元で、早口で老婆が囁く。
「わしなら、弘晃を助けられるぞ。弘晃を助けられるのは、わしだけじゃ。今なら、まだ間に合う!」
「……え?」
紫乃は目を見開いて、老婆を見た。
「もちろん、薬や治療は弘晃の病を治すのには必要じゃろう。だが、医者のやっていることは、その場しのぎに過ぎぬ。医者だけでは弘晃は助けられぬ。医術は生者の為のもの。この世のどこに、亡者に効く薬があるというのか? どんな医術が、中村の家に取り付いた呪いを払うことができるというのか?」
「のろい? もうじゃ?」
紫乃の普段の生活には全く馴染みのない言葉である。
「そうじゃ」
老婆が、重々しくうなずいた。
「中村の家を……血筋を根絶やしにせんとする悪霊どもじゃ。きゃつらは弘晃を狙っておる。あやつは中村の家を百年の繁栄に導く光の子。それゆえ、弘晃を邪魔に思うておるのよ。弘晃が次々に病に見舞われるのは悪霊の仕業じゃ。弘晃さえおらぬようになれば、きゃつらの満願は成就し、中村の家は遠からぬ未来に滅びるゆえ」
この老婆は頭がおかしいに違いない。紫乃は思った。
呪いなどと……そんな馬鹿馬鹿しい話があるわけがない。こんな人と係わり合いになってはいけない。話など聞かずに、さっさと弘晃のいる病室に戻ったほうがいい。
頭では、紫乃もわかっていた。だが、紫乃の目も耳も老婆に向けられたまま。足も動かない。ひょっとしたら弘晃を助けられるかもしれない……そんな微かな希望が紫乃の足を止めさせていた。
「わしならば、弘晃を守ってやることならばできる。生まれてすぐに贄に取られるはずだった弘晃を今まで生かしてきたのは、このわしじゃからな。わしの神通力をもってすれば、弘晃を生かしておくことは可能じゃ。いつまでもな」
「……生かして?」
「きゃつらは強力じゃ、残念ながら人の力では払うことも滅することもできぬ。わしの力をもってしても、神のお力を借り、きゃつらを押さえつけておくので精一杯じゃ」
(でも、死ぬことはない……)
ぼんやりと紫乃は思った。この老婆の言っていることが本当ならば、少なくとも弘晃は死なない。紫乃の傍にずっといてくれる。
「数年前、わしを弘晃から遠ざけたことで、やつらは力を増しておる。わしは、弘晃の無事を遠くから祈って追ったが、もはや祈りの言葉が届かぬ。即刻本格的な祈祷を行わねば、弘晃は死ぬ」
「……。 今、すぐ?」
「そうじゃ、今すぐにじゃ! さ、早うっ! わしを弘晃のもとに連れて行け!」
老婆は急かすように紫乃の手を引っ張った。
(こんな現実感のない話、嘘に決まっている)
(でも、ひょっとしたら……)
紫乃は逡巡した。老婆の話のなかに、紫乃の常識では受け入れきれない真実があるのかもしれない。老婆の言うことを聞けば、弘晃が病に苦しむこともなくなるのかもしれない。
(もう少し詳しく話を聞くだけなら……)
(とりあえず弘晃さんか弘晃さんのおかあさまに会わせるぐらいなら……)
紫乃の気持ちが揺らぎかけた、その時である。
「そこで、なにをしているの?! 」
凛とした声が、病院の廊下に響いた。
「ちっ! もう現れたか」
紫乃と向き合っていた老婆が、舌打ちをしながら声のしたほうを振り返る。
「今すぐに、その子から離れなさい!!」
老婆の後方…… 紫乃の視線の先で、弘晃の母の静江がモップを長刀のように構えながら老婆を睨みつけていた。




