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水面に映るは  作者: 風花てい(koharu)
水面に映るは・・・ 
41/89

41.恐れと不安

 明け方になって、弘晃は、ようやく持ち直した。


 だが、それはあくまで追加した点滴のおかげでしかないと、主治医は顔を曇らせたままだ。弘晃自身は、一晩中苦しんで休めなかったせいだろう、今は疲れきったような顔で眠っている。


 正弘と弘幸は、いったん家に戻った後、いつも通りに会社に出かけるようだった。弘晃の容態が極めて悪いことは、しばらくの間は一部を除いて社内でも内密にしておかれるということである。

 それはそうだろう。会社が乗っ取られかけているところに実質のトップである弘晃までもが倒れたとわかったら、いくら彼の体が弱いことを社員たちが了解していたとしても、やはり激しく動揺するに違いないからだ。

 経営者の健康不良は、会社にとって、マイナスにしか働かない。 社内の人間や取引相手を不安にさせる。ライバル会社に漬け込まれる原因になる。 だからこそ、弘晃は、普段から表に出ずに影の存在に徹していたのだろう。


「それに、兄さんが六条さんに会いに行くためにパーティーに行って倒れた…… なんてことがわかったら、頭に血が上った社員が六条に殴りこみに行きかねないし……」

「すみません」

 紫乃が謝ると、正弘が 「ごめん! 今のは、紫乃さんへの当てつけじゃないんだよ。ただ、皆、連日のハードワークで気が立っているんだ」と首をブンブンと振りながら謝った。


「明日は休日だから、兄さんは疲れて家で寝ているということにしておけば、とりあえず2、3日は誤魔化せると思う。それまでに、心配がないぐらいにまで回復してくれるといいんだけど……」

 正弘が、心配そうに弘晃のほうに顔を向けた。

「ところで紫乃さん、学校は? いや、それよりも、いったん家に帰って休んだほうがいいんじゃないかな? なんなら送っていくけれど?」

「ここにいさせてください。いてもいいですよね?」

 紫乃は、確認を取るように、弘晃の手を握り締めながら周囲にいる者たちを見渡した。彼の傍から離れることなど、今は考えられなかった。


 紫乃と目が合った弘幸がゆっくりと歩み寄り、彼女の前に膝をついた。

「ありがとう。紫乃さんが弘晃の傍にいてくれたら心強いよ。六条さんには私から連絡しておこうね」

「連絡なんてしなくてもいいです、あんな人」

 紫乃は憎憎しげに吐き捨てた。父のことなど思い出したくもなかった。

 娘には優しいけれども、貪欲で冷酷な紫乃の父親の源一郎。弘晃が倒れたのは、源一郎が強引な手を使って中村物産を潰そうとしたことが一番の原因だろう。もしかしたら、乗っ取りは見せ掛けで、中村物産の屋台骨である弘晃を過労で殺すことが父の一番の目的だったのかもしれない。

 今だって、父は、弘晃が死に掛けているのを喜んでいるかもしれない。弘晃が早く死んでしまえばいいと思っているかもしれない。 

「父は……人でなしです。お金儲けのためならなんだってする。弘晃さんに、こんな酷いことをして……」

「紫乃さん。それは言いすぎだよ」

 弘幸が紫乃をなだめるように穏やかな笑みを見せた。

「六条さんは、僕にとっては恐ろしい人だし、いろいろと黒い噂のある人だけど、きっと根っからの悪人ではないよ。僕は、紫乃さんが見ている通りの……少々親馬鹿な優しいお父さんというのが六条さんの本当の姿だと思う。だって、紫乃さんのお父さんなんだから、悪い人のわけがないよ」

「……」

 紫乃は弘幸の言葉に耳をふさぐように下を向いた。そんな紫乃を扱いかねたように、弘幸が苦笑まじりのため息をついた。


「本当の人でなしっていうのはね、紫乃さん」

 弘幸が静かに紫乃に話しかける。声だけを聞いていると、弘幸の声は弘晃の声とそっくりだった。 

「もっと卑怯で、ずる賢くて、自分は安全なところから動かずに旨い汁だけ吸おうって輩のことをいうんです。でも、君のお父さんは違う。君のお父さんは、人の恨みを買うようなことを幾つもしているだろうけど、批判も恨みも、すべて自分で引き受ける覚悟をしておられる。だから、君は、六条さんを信じてあげようね?」

「……」

 紫乃は下を向いたまま首を振った。

 少なくとも弘晃が元気になるまでは、父を許せそうにない。いや、絶対に許さない。


「そうか。今はまだ、そんな気分にはなれないか」

 弘幸は、紫乃に手を伸ばすと、まる小さい子供にするように彼女の頭を撫でた。そして、正弘と共に静かに病室を出て行った。


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 弘幸と正弘が出て行っただけで、紫乃には、この病室が、やけに広く静かに感じられた。


「弘晃が落ち着いている間に、交代で少し休んでおいたほうがよいわね」

 弘晃の母の静江が、紫乃に笑顔を向けた。

「いいえ、わたくしは……」

「だめだめ。 少しは眠っておかないと、紫乃さんのほうが参ってしまうわよ。このまま良くなってくれればいいけど、今までの経験から言わせてもらえば、弘晃は、まだ2、3日は、こんな状態が続くわ」

 弘晃の傍から離れようとしない紫乃に静江が忠告した。 

「良くなったり悪くなったり。でも、だんだん、良くなる。少しずつ。少~しずつ。時間を掛けて、ゆっくり、ゆ~っくり」 

 小さな声で呪文のように歌いながら、静江が、家から持ち込んだ急須や湯のみを使ってお茶を入れ始めた。紫乃は、冷めた視線を静江に向けた。静江は、昨晩、病室に入ってから、まったく様子が変わらない。弘晃の容態がどんなに悪くなっても、常と変わらない穏やかで上品な微笑を浮かべながら息子の傍らに付き添っている。


 静江だけではない。弘幸にしても、正弘にしても、弘晃が辛い思いをしているのに、悲壮感がまるでない。弘晃の傍で、めそめそしていたのは紫乃だけだ。

 生来がお気楽な人たちなのか、それとも、こういった状況に慣れきってしまっているのか。あるいは、静江は、弘晃の看病に、とっくの昔に飽いているのではないか? 弘晃のことをほったらかしにして会社に行ってしまった弘幸も正弘も、家族だからではなく会社にとって有益な人物だから、弘晃のことを必要としているだけなのでは?


 皆、本当は、弘晃の生死など、どうでもいいと思っているのではないのか……?


(やだ! 私ったら、なんてことを考えているの?)

 紫乃は慌てて首を横に振った。


「紫乃さん? どうかした?」

 おっとりと静江が首を傾げた。

「あの、その……、そうだ。この服着替えないといけませんね!!」

 紫乃は、椅子から勢いよく立ち上がると、昨晩から着たままでいた豪華な夜会用のドレスのスカートの裾をつまみあげた。荷物をクロークに預けたまま弘晃と病院に来てしまったので、紫乃は着替えを持っていなかった。


「家に電話して、誰かに届けてもらいます」

「紫乃さん? 電話なら、この部屋にも……」

 静江が引き止める声を無視して、紫乃は、財布の入った小さなバックも持たずに病室を飛び出していった。


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 病室から逃げ出した紫乃は、ほの暗い病院の廊下を闇雲に走り抜けた。だが、パーティー用のハイヒールは全力疾走には向いていない。廊下の角を曲がったところで、紫乃は右足を捻って転んだ。


 起き上がる気力のないまま廊下に座り込んだ紫乃は、両手で顔を覆った。

「わたくしったら、どうかしている。弘晃さんのおかあさまたちが、そんなこと考えているわけがないじゃない?」

 些細なことでイライラする。ちょっとした言動に悪意を感じる。

 おかしいのは弘晃の家族ではない。紫乃のほうだ。あのまま一緒の部屋にいたら、紫乃は、感情に任せて、弘晃の母親を傷つけてしまうような言葉を言っていたに違いない。


「自分が辛いから他人に八つ当たりなんて……最低だわ」

 つくづく自分が情けなくなった紫乃は、顔を覆ったまま気持ちが落ち着くのを待った。心が凪いでくると、すぐに弘晃のことが気になり始めた。


「戻ろう」

 紫乃はポツリとつぶやいた。


 病室に戻るのは、実は気が進まなかった。病室に戻れば、苦しそうな弘晃を彼の傍で見守ることになる。

 傍にいても何もしてあげられないのは辛い。今にも死んでしまいそうな弘晃を見ているのは怖い。でも、怖くても辛くても、逃げ出すのはもっと嫌だ。どこに逃げたところで、弘晃の具合が良くなるわけでもないし、彼のことを忘れられるわけでもない。彼の姿が見えない分だけ、不安と恐れが増すばかりである。

 立ち上がると、足首に痛みが走った。紫乃はハイヒールと脱ぐと、素足で弘晃の病室に向かって歩き始めた。まだ日中の活動を始めていない病院の廊下は暗く、真夜中と変わらいほど、ひっそりと静まりかえっている。


「いま……何時なのかしら?」

 紫乃は、明り取りの役目もしている廊下の突き当たりの窓に顔を向けた。

 窓の外の景色は雨降り。暗い窓ガラスに、紫乃の姿がぼんやりと映っていた。ドレスはヨレヨレ。髪はグシャグシャ。顔はハッキリとは映っていないが、化粧をしてないほうがどれだけマシか……というような状態になっていることだろう。

「我ながら、ひどいわね」

 紫乃は苦笑した。

「ほら、元気を出して!」

 とりあえずドレスのシワを伸ばし手櫛で髪を整えると、紫乃は窓ガラスの中の自分に向かって笑いかけた。


(でも、弘晃さんが、このまま死んじゃったら、どうしよう……)

 不安が、紫乃の心の中で鎌首をもたげる。

(そんなことは絶対にないから。大丈夫) 

 自分の心に言い聞かせようとすればするほど、不安が増大していく。ガラスの中に一瞬だけ現れた満面の笑みが、今にも泣き出しそうな顔にゆがんだ。


「ああっ! もうっ!! そんな顔していたら、弘晃さんが心配するじゃないの!」

 紫乃は、せっかく整えた頭を一振りすると、ガラスの中の自分を叱咤した。

「悪いことばっかり考えないの。弘晃さんは、絶対に元気になるんだから」

 何度も何度も、紫乃は自分に言い聞かせた。 


「そんなに心配しなくても大丈夫なんだから、絶対。ぜ~ったい、大丈夫なんだから……」

「そうかのう?」


 自分を励ますのに夢中になっていた紫乃の背後で、いきなり、くぐもった声がした。声にならない悲鳴を上げながら、紫乃は、慌てて後ろを振り向いた。

 黄ばんだ白装束にザンバラ髪、首に玉の大きな数珠を掛け棒切れのような腕をした小柄な老婆が、紫乃を見上げていた。


「あなたは……」

 紫乃は、この老婆を見たことがあった。

 弘晃と海に行ったときに、彼女たちに話しかけてきた老婆だ。


「弘晃は、死ぬぞ」

 老婆が、欠けた歯を見せてニイと笑った。  


「このままではな」


 





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