40.暗転
「私のことがきっかけで、父がそちらの会社に甚大なご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
騒ぎがひと段落し、それぞれが、弘晃が横になっているベッドの周りに椅子を持ち寄って腰を落ち着けると、紫乃は、まず弘晃の父の弘幸に深く頭をさげた。だが、この乗っ取り騒ぎの発端を考えると、紫乃が、他人事のように、全ての責任を父源一郎に押し付けていいわけもない。
「私も、弘晃さんのお体が弱いことを何も知らなくて…… 本当に、すみません」
「あら。 紫乃ちゃんは、謝ることはないのよ」
弘晃の母の静江が、ニコニコしながら首を振った。
「そうそう。必死になって隠していたのは、兄さんのほうだからね。 紫乃さん。この人、いろいろとあなたに迷惑をかけたのではありませんか?」
正弘が、兄を指差しながらたずねた。「なにせ、これまで、会社と病院以外、一度も外に出たことのない人だったからね」
「正弘。 そんな話をしなくても……」
弘晃が困ったように弟の軽口を諌めたが、彼の家族は、彼の制止の言葉など意にも介さず、驚いた紫乃が発した「え? 嘘??」という言葉のほうに、より大きく反応した。
「本当ですよ。 紫乃さんとお見合いする前の兄さんがひとりで出歩く範囲と言えば、せいぜい家の庭の中までで……」
だが、行動範囲がそれだけ狭いにも関わらず、弘晃がいるべき場所にいないと、家中の者が彼を探して大騒ぎになるらしい。
「お見合いの後、弘晃が最初に紫乃さんに会いに行った日は、本当にびっくりしてしまったわ。何も言わずにいなくなってしまうのですもの」
「そうそう、お母さんは、どこかで弘晃が倒れているんじゃないかって、半狂乱で会社に電話を掛けてきたんだよね?」
「六条さんの秘書の葛笠さん……でしたっけ? あの人が兄さんが六条家にいることを知らせてくれるのがあと30分遅かったら、警察に捜索願いを出すところでした」
弘晃は外に出たのが初めてなら、路上で自らタクシーを止めて乗ったのも、もちろん始めてだったそうだ。手を上げてもタクシーがなかなか止まってくれず、路上に出すぎて、危うく車に轢かれそうになったということである。その上、仕事では何億と言う金額を右から左へ動かしているくせに、彼が病院の売店以外の場所で貨幣を使ったのは、その日が始めてであったそうだ。
「そう、だったんですか?」
紫乃は、問いかけるように弘晃を見た。弘晃は、紫乃に聞かせたくないことを次々にばらされて居た堪れないのか、それよりも紫乃に追求されると困るのか、枕に顔の半分を押し付けるようにして寝たふりをしていた。
ちなみに、紫乃に会いに行くときにスーツを着ていたのは、弘晃が仕事をしていることを彼女にアピールするためではなく、単に、彼の持ち服の中でまともな外出着(特に上着)と呼べるものがタキシード以外にはスーツしかなかったからだそうだ。海に行くときは、さすがに背広はまずいだろうということで、街に買い物に行ったが、正弘が弘晃と外出したのは、それが初めてだということだった。出かけたついでに、喫茶店に入る予行演習もしたという。
「女性とのデートの際。なにゆえ男性はチョコレートパフェ (弘晃の好物なのではなく見たことがなかった)を頼むべきではないのかを、兄さんにわからせるのに苦労しましたよ」
真面目くさった顔で説明する正弘を見て、紫乃は思わず笑い声をあげてしまった。だが、うっかり笑ってしまったものの、本当は笑い事にはすべきではない話である。紫乃は、笑いを収めると弘晃に目を向けた。
寝たふりをしていた弘晃は、いつの間にか、規則正しい寝息をたてていた。
「ああ、やっと寝たね」
弘幸が息子の寝顔を見て微笑んだ。
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その後も、眠っている弘晃を眺めながら、おしゃべりは続いた。声は抑えめではあるのものの病人のことを考えると良いことではないような気がして、紫乃は控えめに意見してみた。
「あの…… 静かにしていないと、弘晃さんを起こしてしまうのではないでしょうか?」
「それがね。 静か過ぎるとかえって目が覚めてしまうようなのよ。変でしょう?」
静江の言葉に正弘もうなずく。
「この人、人の声が聞こえているほうが安心するようなんです」
だが、「そういえば会議の時なんて、沢山の人の声が聞こえるのに、本当によく眠れるよね?」という弘幸の能天気な発言は、正弘の「それは、お父さんだけです」という冷たい一言で退けられた。
息子にやりこまれる夫を見て、静江がクスクスと笑い出す。 静江につられて紫乃も笑った。
なるほど、具合の悪いときには心細くなるもの。この暖かな家族の笑い声が聞こえていたほうが弘晃も気持ちが休まるのだろう。その時の紫乃は、彼らの言葉の裏に隠されているものに気がつかないまま、深くは考えずに納得した。
「でも、弘晃さんは、そこまで安静にしていなくちゃいけなかったんですね……」
弘晃を見つめながら、紫乃は、ため息と共につぶやいた。弘晃は大丈夫だと言ってくれたけど、彼の体のことを考えると、出かける約束など安易にしてはいけなかったのかもしれない。
「あ、違うのよ」
落ち込んでいる紫乃を見て、静江が慌てて訂正した。
「弘晃が、小さい頃から家の外に出たことがなかったのは、この子の体が弱いせいではあるのだけど、他の事情があって…… ねえ、あなた?」
静江が弘晃のベッドを挟んで向かい側に座っていた夫に助け舟を求めた。
「そうなんだよ。私の父……つまり弘晃の祖父が、いささか心配性が過ぎた人でね。彼が弘晃を外に出すのを極端に嫌がったんだ。父が亡くなって、弘晃がようやく自由に外に出られるようになった頃には、もう遊びに連れて行ってやれるような年齢じゃなかったというか…… ねえ、正弘?」
「いずれにせよ。もう過去の話です」
父から話を振られた正弘は、機嫌が悪そうに肩をすくめた。
「それに、紫乃さんのせいで兄さんがどうにかなったとしても、僕は恨みませんよ」
「うん。惚れた相手のためなら、弘晃だって本望だろうしねえ」
「そんな……」
「あなたたち! 紫乃ちゃんを不安にさせるようなことを言うのはおよしなさい!」
結婚の口約束しかしないうちから寡婦になるようなことを言われて青ざめる紫乃を見て、静江が男たちを叱り付けた。これだけ騒いでも、弘晃は身じろぎひとつせずにぐっすりと眠っていた。多少騒がしいほうが良く寝られるというのは事実であるようだ。
「すみません。軽はずみなことを言いました」
叱られた正弘が、神妙な顔で紫乃に頭を下げた。気詰まりなのか「ところで、ふたりが結婚するとなると、うちの会社は、この先どうなるんでしょうか? お父さん、六条さんから何か聞いていますか?」と、強引に話題を変える。
「僕には、『親戚同士になるわけですから、我々の関係も見直さなければならなくなりますね』と、言ってたけど……」
弘幸が不安げな顔で、弘晃に目を向けた。だが、彼が一番頼りにしている息子は、現在就寝中である。
思い余った弘幸は紫乃に助けを求めた。
「六条さんは弘晃に何か言ってなかったかい? 紫乃さんは、何か聞いていないかい?」
「いいえ。 特には」
紫乃は首を振った。
「父は、弘晃さんに元気になったら、話し合おうとは言っていました。それまでは、ひとまず『休戦』だとか。休戦中は、そちらに、これ以上のご迷惑を掛けないように、父の秘書の葛笠が調整役をするというようなことを申しておりましたが……」
話しながら、紫乃は後ろめたさを感じていた。
本当のことを言えば、紫乃は、父が弘晃に『乗っ取りはしない』と明言しているのを横で聞いていた。それを知れば、正弘たちは喜ぶだろう。仕事も一息つけるに違いない。だが、少なくとも弘晃の体調が回復して確実に父との話し合いができる状態になるまでは彼らに話さないほうがいい。
病院に弘晃をつれていくために紫乃がタクシーに乗り込もうとしたとき、葛笠は、彼女に、こう耳打ちしたのだ。
『社長が中村物産を諦めるのは、 弘晃氏がいることが絶対の条件です』
つまり、父が言うところの『引き分け』は、弘晃がいてこそ成立するものだということ。もしも弘晃に万が一のことがあれば、父は相変わらず力ずくで中村物産を乗っ取るつもりでいるということである。
(万が一なんて、絶対にあってはいけないけれど……)
紫乃は、布団の脇から中に手を入れると、安心を求めるように、熱のこもる弘晃の手にそっと触れた。
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そう。
弘晃が死ぬなど、あるはずのないこと。
医者から脅かされても、紫乃とようやく想いが通じた弘晃が素直に喜ぶどころか辛そうな顔をしていても、紫乃は、どこか楽観的に考えていた。
それなのに、明日は弘晃の分まで働かねばならないからと、弘幸と正弘が家に帰ってからしばらくすると、弘晃の容態はどんどん悪くなった。
始めは息をするのが少々辛そうに見えた程度だったのが、酸素マスクを付けて1時間も立たないうちに、彼は、更に辛そうになった。まるで全力疾走でもしてきた後のように、苦しげに顔をしかめた弘晃の胸が空気を求めて大きく上下する。高熱は下がらないのに唇の色からは急速に赤みが失われていった。種類の違う点滴が追加され、ベッドの側に運び込まれた心拍などをモニターするための機材と弘晃の体が何本もの線で繋がれていった。
それだけ辛くても、弘晃の意識は、ハッキリしているようだった。
「弘晃さん、しっかりして」
紫乃が声を掛けると、弘晃は彼女のほうをみて微かに笑ってくれた。だが、その笑みが痛々しくて、紫乃はどうしても笑い返せなかった。今にも泣きそうな紫乃の顔を見て、「ごめんね。 驚かせちゃって……」と、苦しい呼吸の間から、弘晃が言葉を紡ぐ。
「そんなこと、気にしなくてもいいから……」
紫乃は、弘晃に、そう言ってあげたかったが、うまく声がでなかった。声を出したら、そのまま泣き出してしまいそうだった。だが、紫乃が泣けば弘晃が更に辛くなる。
紫乃は、無言で首を振りながら、紫乃の弘晃の手を握り締めた。紫乃に視線を向けていた弘晃が、目元に笑みを浮かべたまま目を閉じた。
その晩、言葉がやりとりできたのは、その時が最後だった。 その後は、紫乃が呼びかけても、弘晃は、わずかな反応しか返さなくなった。
一向に状態が回復しない弘晃を見て、主治医は家に戻った正弘と弘幸を呼び戻すことを静江に勧めた。たとえ意識がハッキリしていなくても、弘晃には聞かせたくないと思ったのだろう。病室内にも電話があるにも関わらず、静江は財布だけを持って部屋を飛び出していった。
ぼんやりとした表情で静江を見送っていた紫乃に、弘晃の主治医が「大丈夫ですか?」と心配そうに声を掛けてきた。
「大丈夫です」
紫乃は機械的にうなずいたものの、本当は、全然大丈夫ではなかった。
紫乃は、いままで、深刻な状態の病人と間近に接する機会が一度もなかった。それなのに、彼女の前に横たわる重病人は、これから一緒に幸せになれるとばかり思っていた最愛の男性である。
怖くて怖くて、どうしようもない。
まるで、悪夢の中に放り込まれた気分だった。




