4.本日はお日柄もよく
壁の振り子時計が10時を告げるのを合図に、娘たちはそれぞれの部屋に帰るために立ち上がった。
「姉さん」
階段の踊り場にさしかかった紫乃を、和臣が背後から呼び止める。紫乃はその場に立ち止まると、「おやすみなさい」の挨拶を交わしながら、弟とともに妹たちを見送った。
妹たちの姿が見えなくなくなると、紫乃は和臣に顔を向けた。
「姉さん。あの……」
口の減らない弟にしては珍しく何度か口ごもったあと、彼は彼女にたずねた。
「姉さん、この家、嫌いですか?」
「え?」
「とぼけたって駄目です。葛笠が言っていました。姉さんは、見合い相手に全く興味がないのに、嫁に行く気は満々だって。未来の夫が誰でもいいだなんて、そんなのおかしいでしょう? 確かに、ここ10年ばかり、我が家の家庭環境は、女たらしの父親のせいで複雑怪奇な状態になっていますが、僕は気にしてなかった。それは、たぶん姉さんのおかげです。姉さんは、最初に僕たちに言ったじゃないですか。大人の事情で自分たちまで角突き合わせて暮らすことはないから、兄弟で仲良くしようって。死んだ母さんには申し訳ないんですが、僕は、この半分だけ血が繋がった兄弟関係を結構楽しんでいました。みんなもそうだと思ってた。でも姉さんは違ったんですか。姉さんにとって、この家は、さっさと出て行きたくなるほど嫌な場所だったんですか。姉さんは、僕たちが……」
嫌いですか?
紫乃には、不意に押し黙った和臣が、その言葉を無理やり呑み込んだ気がした。
「嫌いなんかじゃないわ」
紫乃は微笑んだ。
「本当に?」
「本当よ。あなたたちが大好きよ」
年相応に不安そうな顔をする和臣に、紫乃は微笑んでみせた。
嘘は言っていない。紫乃にとって、弟と妹たちが一番大切なもの。何よりも守りたいものだ。
「でもね。それとこれとは別なのよ」
人は大人になる。いつまでも、ここで兄弟仲良く暮らすわけにはいかない。和臣がこの六条家を継ぐ時になってもなお、この家に先代の愛人や愛人の娘たちが我がもの顔で居座っているようではいけないのだ。
和臣のためにも、そして、紫乃を始めとした娘たちのためにも……
「じゃあ、約束してください。お見合いしてみて、相手が気に入らなかったら、ちゃんと断るって」
「わかったわ。約束ね。そんなに心配なら『ゆびきりげんまん』でもしましょうか?」
納得しきれていない様子の和臣をからかうように、紫乃は小指を差し出して笑った。
数週間後。見合いをする日がやってきた。
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その日の空は、うんざりするほど晴れ渡っていた。おまけに、朝食後に出されたお茶には茶柱が立っていて、母をひどく喜ばせた。空々しいほどの幸先のよさに、紫乃は出だしからやる気を無くしたが、母と使用人たちは、この家の娘たちの始めての縁談に向けて大いに張り切っていた。
彼らは、紫乃を大きな鏡の前に立たせると、段取りよく彼女を着飾らせていった。
着せ掛けられた振袖の地色は赤…といっても、派手な赤ではなく小豆色に近いほど落ち着いた赤なので、かえって地味なほどである。だが、その色は、紫乃の大人びた美貌を最もよく引き立てていた。
髪飾りを幾つか試した後、ようやく母が満足気にうなずき、着付けを手伝っていた使用人に父を呼びに行かせた。
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「すばらしい!!」
紫乃に吟味するような視線をたっぷりと向けた後、父親が言った。
「美しすぎる。今を盛りと咲き誇る大輪の花さえ、君を見たとたんに己の慢心を恥じてうつむくに違いない。恋を知らない若者にとっては、いっそ毒。君を目にしたが最後、体の自由を失い、息をするのさえ苦しくなることだろう。やれやれ、今日の見合い相手は、この世で一番の果報者なのか。それとも、気の毒な犠牲者なのか」
父は、娘に向かって背中がこそばゆくなるような美辞麗句を惜しみなく並べ立てたあと、母の腰に手を回し、ささやくように彼女の耳元に口を寄せた。
「本当に、紫乃が自分の娘でよかったよ。そうでなければ、私は、また恋に落ちているところだ。だって、ねえ、紫乃は、出会ったころの君そっくりじゃないか。年を重ねれば、更に美しさに磨きがかかるに違いないよ。そして私を夢中にさせて離さない」
「まあまあ、いったい何人の方に、そうおっしゃっていらっしゃるのやら」
さりげない当てこすりを口にしつつ、母が上品に笑った。
「あ、また、そうやって私を苛める。本音だよ。気高さで君に適うものはいない。君が一番だ」
「はいはい。信じていますからね」
甘えるように懐いてきた父を母が軽くいなした。このふたり、ここで喧嘩にならないのが、紫乃には、いつも不思議でならない。だから、彼女は、よく考える。このふたりは、一種の恋愛ゲームを楽しんでいるだけなのではなかろうか。母は、父のことを実はそれほど好きではなくて、ただ、他の女たちに負けたくないから、ここに居座っているだけなのかもしれない。あるいは逆に、母は本当に父が好きで、彼に捨てられるぐらいだったら、どんな我慢も厭わないと思っているのだろうか。
そして、父は、口先だけの真心を口にして、女たちを弄んでいるだけなのだろうか。
(それとも、彼が言うように、本気で全員愛しているのかしら。そんなことって、本当にあるの?)
どこまで本当で、どこまでが嘘なのか。
(イヤだ、イヤだ。そんな面倒くさい想いをして生きるのは、まっぴら)
紫乃は、自分の考えを追い払うように頭を振った。
自分は恋なんかしない。
自分にとって、結婚はひとつの契約でしかない。あちらの望む『妻』という役割をきちんと果たす代わりに、生活する手段と自由と力を手に入れる。結婚とは、そういう契約なのだ。
愛する人と幸せな家庭を築く。そんなのは、ただの、おとぎ話だ。
(でも、まずは、相手から合格点をもらわないとね。少なくともあちらは、結婚生活に夢も希望もあるだろうから)
紫乃は、気合を入れるように、帯をポンと叩いた。