39.春になったら
弘晃が入院することになった7階の特別室は、個室でなければ10人部屋として使っていただろうと思えるほどのスペースがあった。
病院らしいものといえば、弘晃の腕に繋がっている点滴を吊るすためのアルミ製のスタンドと、枕元のナースコール用のボタンを始めとした医療用の設備、それと部屋の隅に畳んだ状態で置かれた車椅子ぐらい。この部屋にはバスもトイレも付いているばかりではなく、患者用のベッドも、必要なときには背もたれを倒してベッドとしても使えるソファーも、その他の備品も、機能性よりも快適さを重視したような物で揃えられている。
紫乃が座っている付き添い用の椅子にしても木製で、背もたれと肘掛がついた座り心地の良いものだった。
しかしながら、ホテル並みの内装でも、やはり病院は病院。部屋全体の空気は、ホテルのそれとは明らかに異なっていた。
弘晃がようやく目を瞑ったのを確認すると、紫乃は、そっと立ち上がり窓辺に歩み寄った。
窓からは東京タワーが良く見えた。病院のすぐ脇の道路から東京タワーに向かって、車のライトが筋を作っている。
「ここからが一番良く見えるんです」
もう眠ったとばかり思っていた弘晃が、紫乃に話しかけてきた。
「東京タワーが?」
「ええ。うちの会社の社長室からも見えるし、距離的には、家が一番近いんですけど……」
「あ、そうか。 うちの学校が邪魔しているんですね?」
学校と中村家の位置関係を思い出しながら紫乃が言った。彼女が通っていた学校からは、窓をそのまま額縁をした絵であるかのように、東京タワーが良く見える。
そういえば、弘晃と東京タワーに上ったとき、彼が眩暈のようなものを起こしたので、紫乃が介抱したことがあった。紫乃は、弘晃の傍に戻ると、枕元近くに置いておいた椅子に座る前に、彼の額に手を置いた。薬は点滴で入れているけれど、熱はほとんど下がっていないように思われた。
「知らなかったとはいえ、わたくし、弘晃さんに、随分無理をさせていたのではないですか?」
「あれは本当に、下を覗き込みすぎて気持ちが悪くなっただけですよ。あんな高いところに行ったのは初めてだったものですから、つい調子に乗りすぎました」
顔を曇らせながらたずねる紫乃に、弘晃が苦笑いを返す。
「本当に? でも、他にも……いろいろと出かけたでしょう? 帰ってきてから具合を悪くしたこともあったって……」
「微熱なんて、外に出ようが出まいが、年中出しているんですよ。それを気にしていたら、僕は何もできなくなってしまう。それに、東京タワーも上野の動物園も浅草も映画も、僕がずっと行きたいと思っていた所です。僕の我侭で紫乃さんを連れ回したのだから、貴女が気に病むことはありません」
「でも……」
「大丈夫ですよ。あれぐらいの時間の外出なら、それほど苦にはなっていません。本格的に寝込んでしまうと、次から家族が心配して出してくれなくなると困ると思って、大事をとって寝ていただけです」
「本当に?」
「本当に」
疑わしげな紫乃に、弘晃がきっぱりと念を押す。「だから気にしないでください。それよりも、いつもいきなり押しかけて悪かったですね。熱があるかないかは、本人にも当日にならないとわからないので、事前に約束というのもできなくて……」
「あ、いいえ。でも、今度からは、出かけるときには前もって約束しておきましょうね? せっかくいらしてくれても留守にしているかもしれませんし、わたくしはキャンセルされる分には困りませんから」
紫乃の言葉に、弘晃が驚いたように目を見開いた。
「この先も、僕と一緒に出かけてくれるんですか? 嫌じゃないの?」
「もちろん、具合が悪いときは駄目ですよ。それから、お天気が悪いときは出かけないほうがいいと思うし、寒すぎるときや暑すぎるときの外出も避けたほうがいいし、風邪が流行っている時期の人ごみも駄目だし……、 あ、それから、行き先が遠すぎても、行くだけで疲れちゃうからやめたほうがいいですよね? でも、ところどころで休憩を入れながらなら、なんとかなりそう?」
指を折りながら思いつく限りの釘を刺す紫乃を、弘晃が驚いたというより呆れたような顔で見つめている。 それから、何を思ったのか、彼は突然笑い出した。
「なんで、そこで笑うのよ?」
「いや、すごいなあ……と思って」
ムッとする紫乃に弘晃が横になったまま手を伸ばす。艶やかな紫乃の髪のひと房が彼の指に絡んだ。
「貴女の、その前向きさがね。 僕には、とても眩しいです」
「だって……だって、体を大事にしなきゃいけないのはわかるけど、ずっとお家にいたのでは、弘晃さんだって気がめいるでしょう?」
あけすけな言葉を投げながら目を細めて優しく紫乃を見つめている弘晃のほうが、彼女にとっては余程眩しい。紫乃は、おたおたしながら、弘晃から目を逸らした。「だ、大丈夫ですよ。今度は、私も気をつけてあげられるから。あの、他にも行ってみたかったところはありますか?」
弘晃は、少し考えたあと、空港と港と言った。
「船と、飛行機?」
「ええ。 うちの会社の仕事って、他所の国といろいろな物を取引しているではないですか。それを陸路や空路を使って運ぶわけですけど、飛行機とかタンカーとか荷揚げに使う機械とかの大きさがね、写真を見せてもらっても実感できないんです」
知らないうちに社員たちに無茶な要求をしているのではあるまいか……そんなことを考えて時々不安になるのだと弘晃が告白する。
「わかりました。じゃあ、次は、空港か港ね」
「紫乃さんには面白くないかもしれませんよ?」
「そんなことは、行ってみなくてはわからないでしょう?」
暖かくして行きましょうね? と、紫乃は、肩が冷えないように弘晃を布団で包みながら微笑んだ。
「他に、行きたいところは?」
「それより、紫乃さんは? 行きたいところはありますか?」
弘晃がたずねた。
「わたくし? わたくしは、ひとりでも、身軽に出かけられるから……」
……と、遠慮しかけた紫乃の頭の中に、満開を迎えた桜の木がある風景が浮かんだ。
「どうしました?」
「桜の…… いえ、いいです。なんでもありません。別に、たいした所じゃありませんし……」
紫乃は首を振った。
本当にたいした場所ではない。細い坂道の両側に桜が植わっているだけのところだ。
でも、どうしてだろう。めったに出かけないらしい弘晃を感心させるような気のきいた場所を思いつけばいいものを、行きたいところと聞かれて、真っ先にその場所が頭に浮かんでしまった。
正確にいえば、その風景の中に身を置いている、紫乃と弘晃のふたりが頭に浮かんだ。
「桜の……トンネルがあるんです」
ためらいがちに紫乃は言った。
「六条家に来る前に暮らしていた母親の実家近くの坂道が花の時期は桜のトンネルみたいになるんです。小さい頃は、その下をくぐるのが嬉しくて……いいえ、今でも嬉しいので、春になると一人でこっそり出かけていって、くぐって満足して帰ってくるんですけど。……どうせ、子供っぽいって笑うんでしょうね」
恥ずかしさのあまり、紫乃は顔を紅くしながら、ケンカを売るような口調で話をくくった。
だが、弘晃は笑わなかった。
「行きたいな。そこ」
「え? でも、お花見なら、あんな所よりも、もっと別のいい所が……」
「でも、 ガイドブックには載っていない、紫乃さんが自分で見つけた取って置きの桜なのでしょう? だから、見てみたい」
連れて行ってくれますかと、たずねる弘晃に、紫乃は「春になったら」と、はにかみながらうなずいた。彼と一緒に行けることになったことが、なんだか無性に嬉しかった。
「あの…… それから、バラもね。毎年、見に行かずにはいられないところがあって……小さいバラ園なのですけど……」
「じゃあ、そこも」
弘晃が言いかけたとき、軽いノックの音がした。
こちらの応えを待たずに、旅行に使うような大きな黒いナイロンバックを両脇に抱えた弘晃の弟と母親が病室に入ってきた。
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「まあ! 弘晃を病院に連れてきてくださった親切な方って、紫乃さんだったの?!」
病室の中に紫乃を見つけた弘晃の母の静江は、重病人の息子になど目もくれず、迷わず彼女に近づいた。
「壮太くんたら、『病院にきたら、小母さん、きっとビックリされますよ』としか言わないのだもの。でも、本当にビックリしちゃった」
「そ、壮太くん……?」
「弘晃の主治医の先生よ。それより、なんて素敵なドレスなのかしら! ねえ、ちょっと、こちらに来てみて。 そこで回って」
「あ? はい、こうですか?」
紫乃は、言われるがまま、惚れ惚れと彼女を見つめている静江の前で、クルリとターンしてみせた。
「素敵よ、紫乃さん。本当に良くお似合いだこと」
(今って、こんなことをしている場合なのだろうか?)
紫乃が困惑しながら弘晃のほうに目を向けると、彼は、正弘に叱られている真っ最中だった。
「『過労』ってなんなんですよ! 兄さん!!」
「だから、過労じゃないってば」
弘晃が言い返す。
「毎日車で送り迎えしてもらって、就業中の昼寝も含めて1日10時間以上の睡眠とっていて、その上、3日に一度は会社を休ませてもらっていたのに過労だなんて…… 日本全国の勤勉な会社員に対して失礼じゃないか」
「そういう問題じゃないんです! 体が辛いなら、なんで、そう言ってくれなかったんですか! 僕は……僕もお父さんも、兄さんが大丈夫だって言っていたから、いつものように、それを信じて……それなのに……」
「正弘? なにも泣かなくてもいいじゃないか。ごめんね。僕が悪かった。こんなことは、もう二度としないから……」
大騒ぎになっているところに、今度は、「弘晃! 弘晃と紫乃さんが結婚することになったって六条さんから聞いたんだけど、本当なのかい?」と、言いながら、弘晃の父の弘幸が病室に飛び込んできた。
「すごい! どうして、そんな急展開に?」
「本当なの、弘晃?」
弘晃の家族の視線が、いっせいに紫乃たちに向いた。紫乃は、先ほど主治医に対してしたような先手を取るようなことは言わずに、弘晃に発言を譲るように、彼のほうを見た。
弘晃は熱のある顔をさらに赤くして、「その件については、まだ、ちゃんとは……ね?」と、紫乃に確認を取るように彼女を見た。
紫乃は何も言わず、やはり頬を染めながら弘晃に微笑みかけた。
「まあ。 じゃあ、本当なのね?」
静江が感極まったように、両手を組み合わせた。
病室内は、一時、お祭り騒ぎのようになった。




