38.あと三年?
「え? 今、なんて? さん……ねん?」
声を震わせながら、目を一杯に見開いて、紫乃がこちらを……弘晃のほうを見ていた。
ベッドに押し戻そうとする主治医の腕を払いのけると、弘晃は起き上がった。
「ええと……、その……。 『あと3年』といってもですね。生まれたときから『あと3年』『あと3年』と言われ続けて、ずるずると27年も生き延びてしまったわけで…… しぶといというか、間が抜けているというか…… なんか、笑っちゃいますよね?」
弘晃は、とりあえず、誤魔化しめいた言葉を口にしながら、笑ってみた。だが、一緒に笑ってくれたのは幼馴染の主治医だけ。聡い彼女に、口先だけの言い訳が通じるわけがない。
「それでも、やっぱり『あと3年』、なの?」
どこか焦点のあっていない眼差しを弘晃に向けたまま、紫乃は正確に、誤魔化しの言葉の中に混ざりこんだ事実を拾い上げた。
弘晃は否定できずに、助けを求めるように主治医を見た。彼のその動作を肯定と受け取ったのだろう。いきなり、紫乃の体が前のめりにぐらりと傾いだ。
「紫乃さん?!」
紫乃の傍に駆け寄りたくても、熱っぽい体は、全く弘晃の思うとおりに動いてくれない。彼の代わりに、主治医が、椅子から転げ落ちかけた紫乃を、とっさに支えてくれた。
「……。ごめんなさい。ちょっと驚いただけ。 大丈夫ですから……」
紫乃は、つかまっていた主治医の腕から手を離すと、うつむいたまま目を閉じ、胸に手を添えながら呼吸を整えるように何度か大きく息を吸った。ゆっくりと顔を上げた紫乃の顔は血の気が失せように真っ白で、具合の悪い弘晃よりも、更に具合が悪そうに見えた。
「取り乱してすみませんでした。 もう大丈夫ですから、お話を続けてください」
紫乃は、主治医に視線を据えると、しっかりとした口調で言った。
「私のほうこそ、いきなり驚かすようなことを言って申し訳ない。 最初にお断りしておききたいのは、彼は余命を宣告されるような進行性の病を抱えているわけではないということです。 内臓に疾患を抱えているわけでもないし、他に持病と呼べるものもありません。 ただ、彼は、とても弱いんです」
(ごめんね)
主治医の話を真剣な表情で聞き入っている紫乃の青ざめた横顔を見つめながら、弘晃は心の中で彼女に詫びた。
こんなことになることを、弘晃は、初めから予想していたわけではない。
見合いの後、弘晃が紫乃に結婚を前提とした交際を申し込んだのは、紫乃が自分に好意を持ってくれることなどありえないだろうと高をくくっていたからだった。
大嫌いな弘晃との交際に懲りた後なら、いくら紫乃でも、次の見合いからは、『条件さえ合えば結婚相手など誰でもいい』とは思わなくなるに違いない。紫乃が、結婚相手を利用しがいのある人間としてではなく、共に人生を歩んでいく大事なパートナーとして真面目に選ぶ気になったら、彼は、嫌われ者のまま、彼女の前からさっさと退散するつもりでいた。
あるいは、あくまでも紫乃が条件にこだわるというのであれば、彼は、喜んで『中村家の長男の妻』という立場を、彼女に提供するつもりだった。もともと、弘晃には妻を持つ意思がなかったし、家族も彼が結婚することを、はなから諦めている。妻としての表向きの体裁さえ保ってくれたら、あとは紫乃の好きにしてくれて構わない。どうせ自分は長くは生きないだろうから、自分の死後も、紫乃には人生をやり直す時間が、まだたっぷりと残っていることだろう。そのときこそ、自分の好きな男のところに嫁ぐなり、未亡人として誰にも縛られずに自由気ままに生きるなり、本当に紫乃のしたいようにすればいい。
嫌われてふられても、嫌われたまま結婚しても、どちらに転んでも問題のない計画のはずだった。
だが、算段づくで始めた紫乃との交際は、弘晃の予想を大きく裏切って順調に進んだ。非常に間抜けな話だが、付き合い始めてようやく、弘晃は、この計画の結末には彼が想定した以外の可能性……、つまり、紫乃が弘晃に好意を持っているがゆえに結婚を望んでくれる可能性があるということに気が付いた。
ありえないはずの結末が、一番ありそうことになってしまった原因は、弘晃にある。
そうはいっても、弘晃は、彼女に好かれようと思って見栄を張ったり格好を付けたりした訳ではない。ただ、彼は、紫乃の前では、そこにいるだけで周りに気を使わせてしまうような存在ではなく、どこにでもいるような、あたりまえで健康な生活を送っている男性としていたかっただけなのだ。
しかしながら、その程度の些細な誤魔化しをするために、彼は、かなり必死で自分を繕わなければいけなかった。 体が弱いということ以外は、紫乃に対して、なるべく嘘のないように、できる限り誠実にいようと心がけていたにも関わらず、隠し事は、どんどん増えていった。
引き際を間違えたという自覚は、弘晃にもあった。それでも、弘晃が、ずるずると紫乃との交際を続けてしまったのは、ただ、紫乃に会いたかったから。でも、自分の想いが深くなればなるほど、彼女との距離が短くなればなるほど、彼は苦しかった。
どんなに自分を繕ってみたところで、このまま交際が続き、結婚するとなれば、いつか本当のことを話さなければいけなくなる。
本当のことを知ったとき、紫乃はどうするだろう?
紫乃が彼に腹を立てて愛想を尽かして弘晃から離れていくというのなら、初めに予定していたことでもある。 弘晃にも、その結末を受け入れる覚悟はできていた。
だけど、もしも、紫乃が、それでもいいと言ってくれたら? 弘晃のことも、中村家が抱えている特殊な事情も、何もかも受け入れる。そう言ってくれたなら?
あるいは、律儀で責任感の強い彼女のこと。 弘晃に同情して、自分の気持ちなどお構いなしに、彼のところに嫁ぐ決心をしないとも限らない。
紫乃に迷惑をかけたくない、彼女に幸せになってほしいと願いながらも、弘晃の心の片隅には、彼女を誰にも渡したくないと思っている酷く身勝手な自分が巣くっている。
(今だって、そうだ)
あんなに……見るからに辛そうな顔を紫乃にさせている原因は弘晃であるというのに、紫乃があんな顔をするのも、彼女が彼のことを本気で心配してくれているせいだと思うと、申し訳ないと思うと同時に嬉しいとも思ってしまう。
(僕って、どこまでも最低な奴……)
体がだるい上に気分もすっかり落ち込んだ弘晃がベッドに横になってぐったりとしていると、紫乃が、主治医から視線をはずして弘晃を見た。気遣わしげな紫乃の視線が、弘晃の罪悪感をチクチクと刺激する。
「ごめんね」
弘晃は、弱々しい声でつぶやいた。
君に会いに行ったりしてゴメンね。
僕なんかが、中途半端に、君の人生に関わっちゃいけなかったんだ……
その呟きが紫乃の耳に届いたかどうかはわからない。それでも、紫乃は、まるで『心配しなくても、私は大丈夫よ』とでも言うかのように、彼に微笑んでみせてくれた。
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弘晃の主治医は、『3年』という言葉にひどく動揺している紫乃でも理解できるように、弘晃の健康状態について丁寧に説明してくれた。
これだけ弱ければ3年も生きてはいないだろうと、弘晃の前の主治医でもあった岡崎の父親を始めとした多くの者に見切りをつけられるほど、彼は、生まれたときから体がひどく弱かったこと。弱いけれども、弘晃には継続して治療が必要な持病があるわけではないこと。だから、風邪をひいたり熱が出ていたりする時以外は医者の出る幕はないのはずなのだが、弘晃の場合、一年の半分近くは調子を崩して寝込んでいるので、年がら年中医者の世話になっていること。
「とりあえず元気なときでも、半日程度の外出でへたばって、次の日は、一日中寝込むような奴なんですよ。 だから、あなたとのデートにも時間制限を設けさせていただきました」
「余計なことを言わなくてもいいよ」という弘晃の抗議を聞き流し、主治医は、紫乃と一緒に動物園でデートしたあと、彼が熱を出して3日間寝込んだことまで暴露した。
「そんなわけなので、彼は、ちょっとの無理もきかないし、他の人には『ただの風邪』でも、こいつにとっては一大事になってしまうんですよ」
「だから、『3年』なんですか?」
「そう。 あと10年も20年も生きられる可能性よりも、あと数年……という可能性が常に高い状態ですね。実際に、3年に1度ぐらいの周期で、三途の川の手前まで行って戻ってくる、そんな調子です。虚弱な体質の場合、成長するにつれて丈夫になるケースもありますが、こいつの場合は強くも弱くもなっていない。いや、これ以上弱くならないように、彼が自己管理を徹底しているからこそ、なんとか今の健康状態を保っていられるというのが本当です。さて、彼の今の状態ですが……」
主治医は、弘晃を診察しながら書き込んでいた書類を引き寄せた。
「彼がかかっているのは、いわゆる風邪です。まだ検査結果があがってきていないので、断言はできませんが、肺炎も併発している可能性があります」
「あの……治るんですよね?」
紫乃がたずねると、弘晃に背中を向けている主治医は、顔の表情だけで、「楽観はしないように」と告げた。
「厳しいことを言うようだけど、過労で抵抗力が著しく弱っているところに、肺炎だからね。 だから……」
「だから、つまり……」
つまり、今の弘晃は、ずっと先延ばしにしてきた『3年目』がいつ来てもおかしくないという状態だということなのだろう。また眩暈を感じた紫乃は、滑り落ちないように、とっさに椅子の縁を握り締めて、かろうじて自分を保った。
主治医は、弘晃を気にするように彼のほうに視線を向けたあと、紫乃のほうに更に椅子を寄せ、声をひそめた。
「もちろん、弘晃本人も、これまでの経験からして、今の自分が結構危うい状態であることはわかっているはずです。いつでも覚悟を決めているような奴だから、いまさら動揺したりはしないでしょう。でも、あなたは違う。いきなりこんなことを聞かされて驚いたでしょう? 普通は驚きますよね? ひょっとして彼との結婚をやめたくなっちゃいました?」
「え?」
ぼんやりと紫乃は問い返した。 やはり、自分は、かなり動揺しているようだ。いまさら、そんなことを紫乃にたずねる主治医の真意がわからない。眉をひそめる紫乃に、主治医は、更に椅子を寄せ、彼女の耳元でヒソヒソと訴える。
「結婚をやめたくなる気持ちは、わからないでもありません。 僕は、あなたを責める気はない。ただ…… ここからは彼の友人としてお願いしたいのですが、せめて彼の病状が落ち着くまで、フリでもいいから、彼と恋人同士でいてやってくれないでしょうか?」
「先生……?」
「酷なことを頼んでいるのはわかっています。でも、どうか、お願いします」
肝心なところで紫乃に対する誤解があるようだが、主治医の目は真剣だった。
「別に、先生にお願いされなくてもですね……」
言いかけた紫乃は、ふと視線を感じて、横になっている弘晃に目を向けた。こちらの話は、はっきりとは聞こえていないだろうが、弘晃は、叱られた子供のような顔で紫乃を見つめている。
(そんなに申し訳なさそうな顔なんてしなくていいのに……)
ふいに、彼に対する愛おしさがこみ上げてくる。
紫乃は、『大丈夫だよ』と言うように弘晃に微笑んで見せた。
「安心してくださいな。先生。わたくしは、先生に頼まれなくても、彼の傍を離れるつもりはありませんから……」
弘晃に目を向けたまま、彼女は、主治医に言った。
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「すみません、紫乃さん。いきなり、こんな面倒に巻き込んでしまって……」
病室の用意ができて、そちらに移された後も、弘晃は、まだ紫乃に謝っていた。
「弘晃さん。しつこいです」
紫乃はムッとした。弘晃が病弱であることがわかったとたんに、紫乃の彼への愛情が目減りすると、彼が考えているとしたら、かなり心外である。
「そんなこと心配しなくてもいいから、とにかくゆっくり休んで、体を治してくださいね」
紫乃は、弘晃をあやすように、彼がかけている布団をポンポンと叩きながら微笑んだ。
しかしながら、この時の紫乃は、弘晃と主治医のふたりが何を心配し、なぜ、彼女に対して、そんなに気を使ってくれていたのか、本当の意味でわかっていなかった。




