36.それでもいいの?
学校に通ったことがない。仕事も、常勤は無理なので、比較的制約の少ない非常勤の相談役につけてもらっている。それでも、仕事のほうが家に来てくれるので、ようやく続けていられる状態である。
「今日は、熱が出ていないそうですね。 良かった」
弘晃が倒れてから、紫乃は、一日のうちの多くの時間を彼の傍で過ごしている。責任感が強くて、何事にも一生懸命な紫乃は、弘晃の世話にも熱心だった。
病人の傍らに侍っているだけなど退屈極まりないだろうに、彼女は嫌な顔ひとつしない。ひたすら弘晃の体調を気遣い、彼が少しでも快適に過ごせるように、細やかな心配りをしてくれる。少し肌寒さを感じればガウン代わりに使っているカーディガンを着せ掛けてくれるし、喉の渇きを覚える前に、熱からず温からずのお茶 が供され、少し休もうか思っただけで、眩しくないようにカーテンを引いてくれる。弘晃が頼む前に紫乃が何でもやってくれるので、『兄さんは、そのうちに『ありがとう』以外の言葉を忘れてしまうのではないか?』と正弘が冗談を言うほど、彼女はとても気が利いた。
面倒見のいい女性の場合、心配が高じて弘晃にあれこれ規制を加えそうなものだが、紫乃は、そのあたりのことも良くわきまえていた。多少口うるさくなるのは、弘晃の体調を考えれば仕方のないことではあるが、彼女は、彼が少しずつ再開している仕事や、仕事がらみで 人と会うことについては、なるべく彼のしたいようにさせてくれている。
初めは、恐縮していた母も、今では紫乃が家にいるときは弘晃の世話を任せている。弘晃の傍にいないときの紫乃は、母と茶飲み話などして、うまくやっているようである。
『華江ちゃんと紫乃ちゃん……ふたりともとってもいい子で、お母さんほどの幸せ者はいないわね』
……と、どちらもまだ嫁に来てはいないのに、母は、すでに姑気分を満喫している。
要するに、紫乃は、弘晃のために、彼にとって申し分のない状況を、そつなく作り上げてくれていた。
だから、弘晃が文句をいう筋合いはどこにもない。文句などいったら、罰が当たるに違いない。だが、弘晃は、どうしても素直にこの状況を受け入れることができずにいた。
美人で気立てがよくて、頭がよい上に思慮深く、そのうえ実家は大金持ち。愛人の娘であることで紫乃を卑しむ者がいるようだが、逆に、愛人である彼女の母親の実家である元華族の血筋をありがたがる者もいるものだ。紫乃を嫁にやると言われて、本気で嫌がる家は、そう多くはないかもしれない。嫁入り後にひと悶着ぐらいはあるかもしれないが、 紫乃ほど『できた』女性なら、どこに行ったとしても、皆に大切にされ、幸せになることができるだろう。
だから、紫乃さえその気になれば(実際、当初の紫乃は『その気』だった)、結婚相手にどんな高望みだってできる。それだけの資質が紫乃には十分備わっている。そして、その資質は、中学の時に酷く辛い思いをし、それを乗り越えたからこそ備わったものだ。あれだけ苦労したのだから、紫乃は誰よりも幸せになってしかるべきだろうと弘晃は思う。否。幸せにならなくてはおかしい。だから、なにも自ら進んで、こんなに手間ばかりかかる男に嫁ぐことはあるまいと、弘晃は思わずにはいられないのである。
また、入院中に紫乃に話したとおり、中村本家は、紫乃が結婚相手の家に望んだ条件……大きくて古くて格式があるという条件は確かに満たしてはいるものの、いわくがありすぎる。妙な宗教に入れ込んで、身代を潰しかけている中村本家…… 今なお、多くの者がそう思っていることだろう。
中村の分家である華江でさえ、正弘と婚約したときには、頭を冷やして考え直すように何人もの人間から忠告されたのだ。こんなところに嫁いで、どんなに努力したところで、紫乃の世間的な評判など上がりはしない。弘晃の妻という立場では、『妹たちを守ってやりたい』という紫乃の希望はかなわないかもしれない。
本当に、弘晃にとってはいいこと尽くめでも、紫乃にとっては何のメリットもない結婚なのだ。紫乃のことを思えば、こんな結婚は、やめたほうが絶対にいいはずだ。
だからこそ、弘晃は紫乃を説得しようと思うわけだが……
「あのね、紫乃さん」
「いやです。わたくし、絶対に考え直しません」
紫乃は、弘晃の説得に応じるつもりは全くないようであった。
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「……。まだ、なんにも話していないんですけど」
「でも、また、そういうお話なのでしょう?」
紫乃は、桜色の唇を尖らした。弘晃は、日に一度は、この話を蒸し返さねば気がすまないらしい。
「ずっと、傍にいてもいいっておっしゃったくせに…… ずるいです」
「それは……文字通り、熱に浮かされていたというかですね……」
ため息混じりに弘晃が言う。確かに、彼がその言葉を言ったのは、入院中でも一番熱が高くて病状が重いときであった。
「とにかく、この件について話し合うのは、弘晃さんがもう少し元気になるまでやめましょうって約束したでしょう?」
「もう少しって、どれぐらいですか?」
「そうねえ……。 また海まで出かけられるようになるぐらい?」
「そんなの、いつになるかわかりませんよ」
弘晃が、拗ねたようにベッドの上で膝を抱えた。
「じゃあ、明日も明後日も熱が出なかったら、明後日ね」
紫乃は、そう約束して、この話を打ち切った。弘晃がいくら説得したところで、紫乃は彼との結婚を諦めるつもりはない。弘晃の体力をいたずらに消耗させるだけの言い争いは、不毛なだけである。
「そうそう、お外が寒いかって話でしたよね? ええ。朝晩は随分と冷え込むようになりましたわ。それで……ほら」
紫乃は、まだ何か言いたげな弘晃を無視して、本や書類を片付けたあと窓辺に置こうとしていた花瓶を床から持ち上げて見せた。
「あ、白い」
乾いた土の色をした素朴な味わいの花器に無造作に活けられた萩の花の色を見て、弘晃が嬉しそうな顔をする。
「ええ。昨日、お庭に出たときに、白い萩は見たことがないっておっしゃていたでしょう?」
「それで、わざわざ? でも、珍しいものなのではないのですか? 手に入れるのは大変だったんじゃあ……?」
「まあ」
申し訳なさそうな顔をする弘晃に紫乃はコロコロと笑いながら首を振った。「いいえ。珍しくはないですよ。この白萩も、家の近くで沢山咲かせているお家の方にお願いして、分けていただいただけです」
紫乃は、説明しながら、花瓶を、窓辺の棚の上に乗せた。ついでに、空気を入れ替えようと、かすかに窓を開けると、入り込んできた秋風が、萩の小さな花や葉を小刻みに揺らした。
「『秋風に みだれてものは思えども 秋の下葉の色は変わらず』」
紫乃は、つぶやいた。
「え?」
「新古今和歌集の歌です。 華江先輩とお茶を飲んだときに教えていただいたの」
紫乃は振り向くと、はにかんだように弘晃に微笑んだ。
「華江ちゃんが? へえ……。あの学校の女の子のやることは、なんとも風流ですねえ」
弘晃が素直に感心した。「でも、萩が読み込まれた歌っていうのは秋の歌ではないのですか? 華江ちゃんが貴女をお手前に呼んだのは、確か、一学期の……?」
「ええ。夏休み前が最初です」
(やっぱり、そうだった)
弘晃に話しながら、紫乃は確信する。
紫乃が、まだ中学1年生で、彼女へのいじめがピークに達していたある日。
それまで全く面識がなかった当時高校3年生だった華江に、帰りがけに突然『お茶しませんか?』と誘われて連れ込まれた先は、なぜか茶道部の部室……というよりも、床の間があり床に釜が切ってあるれっきとした8畳の茶室だった。
華江に招かれた客は、全部で10人ばかり。紫乃以外はすべて高校生だった。お茶席だから、ひたすら礼儀正しくしてなけければいけないのだろうと緊張しきっている紫乃に、誰もが優しく親しげに話しかけてくれた。あんなふうに優しくされたのは、紫乃が学校に入学して以来初めてだった。あの時は、涙が出るほど嬉しかった。ここにいても良いのだと思った。
お茶の後、紫乃は、そのまま園芸部の部長に部室まで引っ張っていかれて、ほとんど強制的に入部の手続きをさせられた。そして、次の日から、紫乃へのいじめはピタリと止んだ。
紫乃の運命を変えたあの日のことについて、 華江も弘晃の母の静江も曖昧に話をぼかすばかりだが、やはり、弘晃と静江のふたりが、いじめられている紫乃のことを心配して、彼らの親戚の華江に相談してくれたに違いない。
(おかあさまと弘晃さんが、私のことを、ずっと見守っていてくれた……)
それが嬉しい。
「ありがとう」
「うん? なにが?」
「いいえ、なんでもありません」
怪訝な顔をしている弘晃に紫乃は微笑んだ。それから、いたずら心を起こして弘晃に問いかける。
「でもね。実は、華江先輩にこの歌を教わったのは、3日前、この家でお茶していたときです」
お茶はお茶でも、抹茶ではなく紅茶である。華江は、紫乃にあれこれと情報を流されると困るという理由で、弘晃が紫乃と頻繁にデートしていた頃は、彼に紫乃と接触するのを止められていたらしい。最近の華江は、毎日のように中村家に遊びにくる。
「ね。 この歌の意味。おわかりになりますか?」
この質問は、弘晃に対しては愚問であった。紫乃は、先ほど片付けた本の山に目をやった。その中にも、彼の先祖が残した数百年前の和綴じの日記が一冊混じっている。弘晃は、ああいう本も、寝ている間の暇つぶしの読み物として普通に読んでしまうような男であった。
「歌の意味? え~と、何って言ったのでしたっけ? 『秋風に みだれて……」
口の中で聞かされたばかりの歌を反芻していた弘晃が、突然顔を赤くした。「これって……ひょっとして僕のことですか?」
「あら、どうして、自分のことだってお思いになるんですの」
「それは……」
にこにこしながら紫乃が追求すると、弘晃の顔は更に赤くなった。
「ふふ……。 『色が変わりました』ね?」
「からかうのはやめてください」
弘晃がムッとした顔をした。 だが、彼は、いきなり開き直ると、厳しい顔を紫乃に向けた。
「ええ、そうです。この歌は、きっと、僕のことを歌っているに違いありません。それもこれも、紫乃さんが、秋風どころか台風並みに無茶なことばっかりして、青ざめるほど僕の心をかき乱しているからです。ねえ、お願いですから、せめてお父さんと仲直りして、家に帰ってあげてください」
「いやです。わたくし、まだ当分は、ここにいますから」
紫乃が六条家を出て中村家に滞在し始めてから、今日で25日が経過していた。
※ 『秋風に みだれてものは思えども 秋の下葉の色は変わらず』 古今和歌集 藤原高光
(秋風に乱れるように、貴女への想いで心がかき乱されておりますけど、下の葉っぱが黄葉していないように、その想いは、まだ顔には出てませんよ……というような意味のお歌です)




