35.ずっと見ていたから
数日後、学校帰りに華江が中村家に立ち寄った。
この遠縁の娘に対する弘晃の第一印象は、楚々とした美人。学校では、茶道部の部長をしているそうである。学校のクラブ活動とはいえ、こんな大人しそうな娘に代表など勤まるのだろうかと、弘晃はつい失礼なことを考えてしまった。
「私、友人と手分けして、中等部に紫乃ちゃんが入学してから、どんな目にあってきたのか徹底的に調べましたの」
華江の報告は校長のそれよりもずっと詳細で、紫乃に対するいじめは耳を覆いたくなるほど悲惨なものだった。
「こんなことが今まで野放しになっていたなんて、ゆゆしきことですわ。監督すべき立場である最上級生としては、お恥ずかしい限りです。生徒会長なんか、もうカンカンで……」
紫乃のことは、高等部の上級生の間で大問題になっているらしい。
「でも、もう大丈夫です。手は打ちましたから」
「手?」
「私、紫乃ちゃんを茶道部にスカウトしようと思いますの」
華江は、たずねた弘晃ではなく、母に言った。
「まあ、それは、いい考えね」
母が嬉しげに手を叩く。
「でも、園芸部の部長も紫乃ちゃんのことをいたく気に入ってしまいましてね。争奪戦になりそうなんです」
「紫乃ちゃんって、可愛い子ですものね。でも茶道部の部長さんのあなたには悪いけど、園芸部なら申し分ないわね(ちなみに、その当時の園芸部の部長は、パーティーの時に紫乃に抱きついて喜んでいた女性である)」
「そうなんですよ。ですから、ここは園芸部に譲って、私は、私のお手前のときに彼女を呼ぶだけで我慢しようかな……と思うんです。その席には、各部の部長や生徒会の方々もお招きして……」
「まあ、それは素敵。ぜひ、そうしてあげてちょうだい」
「すみません。話が見えないんですが……」
盛り上がっている女性たちの話に全くついていけずに、弘晃は、説明を求めて口を挟んだ。
「強力な後ろ盾がつくということですよ」
母が説明する。
「つまり、紫乃さんを苛めることは、彼女が所属するクラブに喧嘩を売っているのと同じということですか?」
「ええ。私の茶道部もそれなりに大きいのですけど、園芸部に喧嘩を売るのは相当な覚悟がいりますわ。下手をすれば学校に居場所がなくなるもの」
それも一種のイジメじゃないのか? と、弘晃は思ったが、言わないだけの分別はあった。なによりも、今は、紫乃の安全を確保し、学校に彼女の居場所を作ることのほうが大切だろう。
「茶道部の部長さんのお手前の席に招かれるというのも、生徒にとっては大変な名誉なのですよ。 中等部の1年生などは、まず呼ばれないの」
母が捕捉説明する。見た目の印象とは違い、どうやら華江も、あの学校では相当な権力者であるらしかった。
「それから、各部の部長を通して、中等部の生徒に圧力をかけてもらいました。『中等部で、酷いいじめが行われているようだけど、まさか、あなた方は参加していないわよね?』と」
「つまり、紫乃さんへのいじめに参加する、あるいは見過ごしにした場合、『よくもあたしの顔に泥を塗ってくれたわね』と、クラブの先輩に睨まれることになるわけですね?」
弘晃は華江の言葉を自分なりに翻訳してみせた。だが、まだまだ言葉が足りなかったようだ。
「そんな生易しいものではありませんわ、『そんなイジメをするような生徒も、そんな下級生と仲良くするような生徒も、うちの部にはいらなくってよ』ってことになります。先生方に掛け合って、中等部の新入生の仮入部の開始時期を早めていただきましたから、来週あたりには、誰ひとり紫乃ちゃんに手を出そうとは思わなくなっていることでしょう」
華江が自信たっぷりに微笑む。
「念のため確認してもいいですか? 校長先生と先輩のお姉さま方って、生徒にとってどちらが偉いんですか?」
首を捻りながら弘晃がたずねると、母と華江から、当たり前のように「もちろん、上級生」という、弘晃が予想したのとは反対の答えが返ってきた。
「へえ…… そうなんですか?」
男性であるうえ学校という場所にほとんど縁のない弘晃には、到底理解しえない世界である。でも、とにかく、隣のお嬢様学校が、とても怖い所だという事だけはよくわかった。
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華江が確約したとおり、紫乃へのイジメは、その後、すぐにやんだ。
「まさか、こんなふうに解決するなんて……」
弘晃は、なんとも、複雑な気分だった。
これは、紫乃の望んだ解決とは違う。紫乃は、誰かに強制されるのではなく、彼女をいじめている生徒たちが自ら過ちを認め、その上で彼女に心を開いてくれることを望んでいたはずだ。
「確かに、手っ取り早いというだけで、紫乃ちゃんの理想からは程遠い解決方法ですけどね」
母も華江も、それは認めている。弘晃も、感心できないまでも、華江たちのやり方が、紫乃を窮地から救ったことを認めざるを得なかった(結婚するにあたって紫乃が目論んでいたことを彼が頭から否定できなかったのも、この時のことを彼が良く覚えていたからであった)。
だが、しかし、こんな解決で、『めでたし、めでたし』にしてしまっても、本当に良いものなのだろうか?
「まあまあ、弘晃。そんなに頭の固いこと、言わないで、ね?」
「そうよ、弘晃おにいさま。あれをご覧になれば、きっとお気持ちも変わりますわ」
母と華江は、弘晃を宥めながら、蔵の2階の小さな窓の前まで引っ張っていった。
その窓からは、わずかだが隣の学校を垣間見ることができる。たが、見えるといっても、女学校側に植えられた杉の木と図書館の壁の一部とその脇を通っている舗装されていない小道の一部が見えるだけである。だが、その日は、普段は殺風景な風景をパステルカラーで彩るかのように、中等部の制服にエプロンをつけた娘たちが15人ばかり集まっていた。
「なにを始めるつもりなんだろう?」
少女たちは、図書館と小道の間の地面を帯状に掘り返していた。大きなシャベルなど、これまで使ったことなどないのだろう。道具と人員が充実している割には、作業は、はかどっていないようである。
「あそこに花壇を造るんですって。 ベンチも置いて、おしゃべりが楽しめるような場所にするらしいの」
母が弘晃に説明した。
「あの場所は、学校側からは人目につかないこともあって、紫乃ちゃんの物が捨てられる以前から、隠れて悪さをする生徒が多かったんです」
「だから、あそこに花を植え、憩える場所に変えることで常に人の目があるようにするということですか。なるほど、あの場所の役割そのものを変えてしまおうというわけだ」
「紫乃ちゃんの発案なんですよ」
華江が微笑んだ。「部長と先生方を説得したの。ついこの間まで、あれだけ辛い目に合わされていたというのに、大した行動力というか、たくましいというか……」
「あ、あの真ん中にいる子が、紫乃ちゃんよ」
母が弘晃の顔を無理矢理左に向けた。
「へえ、あの子が……」
頭のてっぺんを水色のリボンで飾った姿勢のよい少女が、ふたりの少女の間で笑っている。
「友達ができたんですね。よかった」
弘晃の顔にも笑みが浮かんだ。手段はどうあれ、彼女が笑顔を取り戻しているのなら、それで良いということにしておこう。
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「ちなみに、紫乃ちゃんいじめの首謀者は、左隣の子なのですけど」
ホッとしたのもつかの間、華江が信じられないことを言い出した。
「は? あんなに、仲が良さそうなのに?」
弘晃は耳を疑った。
ちなみに、弘晃は、その後もこのふたりが一緒にいるところを何度となく見かけている。直近は、弘晃が紫乃と再会したパーティーの日である。弘晃をひどく驚かせたこの時と同じように、森沢と離れた後の紫乃は、この女性と仲良く肩を寄せ合って、大きな皿の中に綺麗に行儀よくならんだデザートのケーキを物色していた。
「紫乃ちゃんがいじめられなくなったら、今度は、あの子が孤立してしまったんです。私なんか、自業自得だからいい気味だとしか思わなかった。だけど紫乃ちゃんが、あの子を花壇作りに誘ったんです」
「本当にいい子よねえ」
母が感心しきりに言う。
「いい子かもしれないけど、馬鹿ですね」
めったなことでは人の批判などしないように日頃から気をつけているにも関わらず、弘晃の口から勝手に言葉が飛び出した。
「この機会を最大限に利用して、いじめっ子たちをウンと困らせてやればよかったのに。いじめた子と和解しようという彼女は立派だし、先のことまで考えれば賢い選択だとも思うけど、なんだか、いい子すぎて可哀想になりますね」
紫乃を貶しながら、弘晃は、数ヶ月前に、あの場所で声を殺して泣いていた彼女を思い出していた。
あれから、まだ数ヶ月しかたっていない。あれだけいじめられたのに、あっさり許してしまうなんて、紫乃という娘は、賢いというよりも、優しすぎるだけのお人好しなのかもしれない。
「弘晃、そういう意地悪を言わないの」
憎まれ口を叩かずにいられなかった弘晃を母親が叱る。「よいではないの。あの子が望んだとおり、あの子が上級生になったときには、紫乃ちゃんと同じ理由でいじめられる子はいませんよ。彼女が学校を今よりももっと良くしてくれるに違いありません。本当に先の楽しみな子だこと」
母は、まるで彼女が自分の娘であるかのように、誇らしげな微笑を浮かべた。
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それから数年。
華江は、高校を卒業した後も、紫乃のこと心配する母のために、友人や後輩から情報を仕入れては、報告しがてら中村家に遊びにきた(もっとも、華江の目的は、母とこの家で供される美味しいお茶だけではなかったようで、それから更に数年後、彼女は弘晃の弟の正弘と婚約することになる)。
学年が上がるにつれ、紫乃は校内で大きな影響力を持つようになっていった。自分に厳しい分だけ他人に厳しいところもあるので、少しばかり恐れられてはいたものの、彼女は同級生からも下級生からも非常に慕われている。
図書館の裏庭では、紫乃の発案で作った花壇の花々が生徒たちの目を楽しませ、休み時間には生徒たちの笑い声が、中村家のほうにも風にのって聞こえてくるようになった。
華江が持ってきてくれた写真 (なぜか、そのほとんどが隠し撮りである。見合いの時に弘晃が紫乃に見せたものだ。うっかり紫乃のことをよく知っているような口ぶりをしてしまったときの用心のために何枚か持っていった。 実際、役に立った)の中の紫乃は、いつも笑顔で、とても幸せそうである。
「紫乃ちゃんが、私の娘だったらよかったのに……」
いつしか、それが母の口癖になっていた。
だが、弘晃は、母のように単純に紫乃の成功を喜ぶことができずにいた。
容姿端麗で成績優秀、そのうえ品行方正。すべてにおいて完璧で、どこにもケチのつけようがなく、誰からも好かれている紫乃。もちろん、それがいけないというわけではない。だが、弘晃の目からみれば、紫乃のありようは、どこか不自然だった。
ひょっとして、紫乃は、ひどく無理をしているのではないだろうか? もう2度と自分が傷付けられることがないように、彼女の大切な妹たちが傷つくことがないように、自分と妹たちを守るために、『完璧』という鎧を何枚も重ね着して、必要以上に周囲に気を使って、無理に無理を重ねていたりはしないだろうか? 負けん気の強い彼女のことだ。誰にも相談できず、弱音のひとつも吐けずに、意固地に頑張っているのではないだろうか。
「また、隠れて泣いてなきゃいいけど……」
紫乃の写真を眺めながら、弘晃は不機嫌な声でつぶやいた。
人からの話を聞くばかりで、一度も会ったことがない少女であるにも関わらず、どうしてか、彼は、紫乃のことが気になって仕方がなかった。しかも、自分勝手に彼女の心情まで想像し、しなくてもいい取り越し苦労までしてイライラしてしまう。それは、普段の弘晃には、まったく馴染みのない感情だった。
なぜ、紫乃のことに関してのみ、こんなにも心が揺れるのか、彼は自分でも不思議に思っていた。だから、紫乃が高校を卒業し、少し離れた場所にある系列の大学に通い始めたときには、彼女との距離が離れたことに少しばかりホッとしたのだ。
遠くから見ていただけの少女だ。もっと遠くに行ってしまえば、彼女の噂を聞く機会も減るだろう。弘晃が彼女のことを考えることも、そのうちに、なくなる。紫乃にせよ、数年のうちには、あの学校に通っている他の生徒と同じように結婚することになるのだろう。この学校での良い思い出も悪い思い出も、彼女にとって、すべて過去のことになる。
弘晃のことは…… 彼女は、彼のことなど、もともと知らないのだ。
弘晃が紫乃の記憶に残ることもない。寂しくないわけではないけれど、初めからわかっていたことだ。
(……と、思っていたのに……)
「え??? 見合いですか? 僕が? 紫乃さんと?」
紫乃が卒業して寂しいと弘晃が実感する暇もなく、父が彼女との縁談を弘晃にもってきた。
「無茶言わないでくださいよ」
「やっぱり駄目かな?」
「駄目に決まっているでしょう。断ってください」
弘晃に関する噂は真偽の区別なく言わせたい放題にしてあるので世間的な評判は最低最悪の彼ではあったが、それでも、娘を人身御供にして大企業中村物産との縁を深めようという不届き者が、これまでも、いないわけではなかった。 いくら父が優柔不断でも、いつもならば、弘晃に断るまでもなく、さっさと先方に断りを入れているはずである。
「でもね。今回のお見合いについては、いつもと様子が違うみたいなんだよ」
父が弘晃に食い下がった。
「六条さんには下心がないというか……。 弘晃のことをよく知った上で、ただ純粋に気に入っているみたいでね。だから、是非とも君と娘さんを添わせたいと言っているんだよ。君の身体のことも、知らないでもないニュアンスだったし……」
「知っているなら、尚更です。断ってください。娘に苦労させることがわかっていて、僕に娘をやりたがる父親なんておかしいでしょう? だいたい、どうして僕なんです? 他にも……」
弘晃が弟の正弘に目を向ける。中村家の息子だったら、弘晃よりも将来有望な正弘がいるではないか? 年齢も正弘のほうが紫乃に近い。
「あら、正弘は駄目よ。ねえ、華江ちゃん?」
母が華江に微笑みかける。 弘晃が目を向けたとたん、華江は、『これは売約済みだ』と主張するかのように正弘の腕にしがみついた。
「ごめんね、華江ちゃん。今の僕の発言は、聞かなかったことにしてほしい」
弘晃は華江に謝った。
「気にしてないですよ。でも、どうしても駄目なんですか?」
華江が、控えめに弘晃に意見する。「私には、それほど悪い話だとは思えないのですけど……」
「じゃあ、華江ちゃん。もしも、この縁談が、君にきたものだったら、どう思う? 君なら、親に言われるまま、僕と結婚しようと思うかい?」
「え? それは……」
「ほらね。答えられないだろう?」
自分のためにYESと言えない。だが、弘晃に気兼ねしてNOとも言えない。そういうことだ。自分は結婚に向いてない。
「でも、私、弘晃おにいさまのことは、とても尊敬していますわ。お優しいし、いろいろと大変なのに、いつだってニコニコしてらっしゃるし。お仕事だって、普通の人よりも、ずっと立派にこなして……」
華江が、助けを求めるように正弘のほうをちらちらと見ながら、弘晃に嫌な思いをさせまいと一生懸命に言い繕った。
「もう、いいよ。ごめんね。変なことを聞いて」
「いいえ、やめません。おにいさまは、ご自分のことを低く見すぎていらっしゃるんです。弘晃おにいさまは、会社の皆さんに、とても信頼されていらっしゃるし、お顔立ちだって整っていらっしゃるし、それに……それから、弘晃おにいさまなら、紫乃ちゃんのことを、大切にしてくれると思し……」
「そうよ。弘晃だけじゃなくて、私も華江ちゃんも、紫乃ちゃんのことを大切にするから、ね?」
紫乃の姑になるせっかくの機会を逃すまいと、母が華江に加勢する。
「お母さんまで、何を言い出すんですか? 僕が皆にどれだけ厄介をかけているか、お母さんが一番知っているはずでしょう?」
コト……ン
カタ
カサ
コト
夢の中で家族を説得しようとしていた弘晃を現実に引き戻したのは、小さな物音だった。
片目を開けると、まず目に入ってきたのは、見慣れた自分の部屋の天井である。
天井から窓のほうに目を向けると、弘晃が枕元に散らかした本や書類を、紫乃が、彼を起こさぬように気を使いながら、腰高の窓の下に置かれた棚の上に積み上げ直しているのが見えた。
今日の紫乃は、見合いをしたときの彼女が身にまとっていた振袖の色とよく似た牡丹のような暗紅色の暖かそうなカーディガンを羽織っていた。
「外は、もう随分寒いんですか?」
弘晃に話しかけられた紫乃が、驚いたようにこちらを向いた。
「ごめんなさい。起こしちゃいましたね」
彼女は花が咲いたように優しく静かに、そして艶やかに微笑んだ。弘晃が起き上がると、彼女は、彼の居心地がいいように 背中に大きめのクッションをあてがってくれた。
紫乃と再会したパーティーから、ほとんど一ヶ月が経過していた。
入院期間が約3週間。自宅に戻ってから1週間。無理を重ねたぶんだけ治りは悪いのか、それとも別の風邪にでもかかったのか、弘晃は、いまだに一日のほとんどの時間をベッドの上で過ごしている。
……というよりも、これが、生まれたときからの弘晃の日常であった。




