34.あの日
(あの日……)
今から7年ほど前。弘晃が紫乃の存在を始めて知ったその日は、朝からずっと、今にも雨が降ってきそうな空模様だった。用事を片付けるために蔵の鍵を持って庭に下りた弘晃は、隣との境界線にあたる赤レンガの塀に沿うように何本も植えられている萩の木の細かい枝の中に引っかかっているあるものを見つけた。
それは、コイル状の針金で綴じられた英語のノートだった。
「1年D組 六条紫乃……か」
ノートを拾い上げた弘晃は、何気なく表紙に書かれていた持ち主の名前を読み上げ、萩の茂みの向こう側にある赤レンガの塀を見た。
塀の向こう側にあるのは、私立の女子校である。塀の向こう側にいるのは、教師を除けば、うら若い女性ばかり。覗き見られるのを警戒してか、塀の高さは、弘晃の背丈をかなり上回っている。風で飛ばされてくるには、いささか重過ぎるような気もするのだが、このノートはやはり、この塀の向こう側にある女学校から飛んできたものなのだろうか? 弘晃が、ノートを手にしたまま、そんなことを考えていると、今度は辞書らしき物が塀の向こうから飛んできた。ノートよりも重たい辞書は、塀を超えてすぐに落下を始め、いくら沢山あっても細くてしなやかな萩の枝では受け止め切れずに地面まで落ちていった。
「な……?」
突然のことに、弘晃は唖然とした。なんだってこんなものが塀の向こう側から飛んでくるのだろう? うちに悪意があっての所業だろうか? わけがわからぬまま、とにかく新たに飛んできたものを拾おうと萩の茂みの中に分け入った弘晃は、下を見てぎょっとした。ハンカチや鉛筆など、植え込みの陰や枝の中には、まだまだ細かいものが沢山落ちていた。
「これはいったい……?」
これらの物もすべて、『六条紫乃』の持ち物なのだろうか? 拾い上げた英語の辞書の名前を確認しようと、赤い革に模した表紙をめくった弘晃の顔が険しくなった。表紙の内側に書かれた名前も、『六条紫乃』であった。だが、その名前の上に……というよりも、表紙の裏側全体に、持ち主に向けて書かれたと思われる悪口が、マジックやボールペンで無数に書き込まれている。筆記具と筆跡の違いから、少なくとも5人以上が、これらを書いたのだと思われた。『ブス』や『馬鹿』など、独創性のない悪口のなかに、彼は、『妾の子』という言葉を見つけた。
「そんなことは、本人の責任ではないだろうに……」
それだけの理由で、この『六条紫乃』という少女は、級友たちに、このようなあからさまな嫌がらせを受けているのであろうか? 本人の努力ではどうにもならないことで理不尽な目に合わされる……同じような経験をもつ弘晃は、この『六条紫乃』という少女を気の毒に思い、こんな悪戯書きをした者たちに憤りを覚えた。だが、弘晃が呑気に腹を立てている暇もなく、塀の向こうから、また何かが飛んできた。今度は、プラスチック製の筆入れだった。落下の衝撃で、筆入れは割れ、中身が四方に飛び散った。
「こら!! 何をやっているんだ!」
弘晃は、塀の向こう側にいる誰かを、力いっぱい怒鳴りつけた。
「やだっ?! 誰かいるよ?」
「誰よ? ここなら、誰にも見つからないって言ったの!」
「とにかく逃げるわよ!」
パタパタと足音を立てながら、少女たちのキンキンとした甘ったるい声が遠ざかっていく。彼女たちと入れ替わるように、中村家の母屋から、弘晃の母親がこちらに向かって歩いてきた。
「弘晃さん? 今の声は、弘晃さん?」
声を荒げる息子など見たことがない母が、半信半疑といった表情を浮かべながら弘晃にたずねた。弘晃は、悪戯書きで満載の辞書を証拠に、母親に事情を説明した。
「こんな酷いことをするなんて、なんて恥知らずな生徒なのかしら」
話を聞いた母は、彼女自身が隣の学校の卒業生であることも手伝って、弘晃以上にショックを受けていたようだった。
それから30分近くかけて、弘晃と母は、中村家に投げ入れられていた紫乃の物をひとつ残らず拾い集めた。落し物は、萩の植え込みの中よりも、蔵と塀の間にできた暗がりの中に、より多く落ちていた。
「なるほど、ここに落ちていても、うちの人間は当分気が付かないだろうな。だから、彼女たちは『ここなら見つからない』って言ったんだな……」
蔵から持ち出した懐中電灯で暗がりを照らしながら、弘晃が言った。
「弘晃。感心している場合じゃないでしょう? それに、見つからなければ何をしてもよいというわけではありません」
すっかり腹を立てている母は、落ち着き払っている息子にまで怒りの矛先を向けた。
「わかっていますよ。これはもう、悪ふざけというには度が過ぎています。明らかに犯罪です」
生真面目な顔で母に同意すると、弘晃は懐中電灯を片付けに蔵の中に入った。ふと思い立って、蔵の2階に上がる。学校側を向いた小さな窓から塀の向こう側を覗くと、塀の向こう側にある細い道の真ん中に黒い学生鞄が落ちているのが確認できた。
「これから、その鞄を拾いがてら学校に文句を言ってくるわ。こんな悪戯をする子を見つけ出して厳重に処罰してくださるようにお願いしてきます」
紫乃の持ち物で一杯になった紙袋を両手に提げると、母は、その足で勇んで学校に出かけていった。
「大丈夫なのかなあ……」
普段は祖父の機嫌を損じないように、ひたすら小さくなって暮らしている母である。そんな気弱な母が、果たして抗議などできるのだろうか? 不安に思いながらも母を見送った弘晃は、母屋に戻る前に、蔵を見上げた。重厚感のある黒漆喰の蔵は、江戸時代からの大店であった中村家のかつての面影を、今もなお遺している。弘晃は、蔵を訪れようと思った元々の理由を思い出した。
「今日のところは……、やめておくか……」
弘晃が蔵に背を向けて母屋に戻ろうとしたときである。塀の向こう側から、『あったぁ~っ!! よかった~! やっと見つけた』という少女の声が聞こえた。
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(ひょっとして、六条紫乃さん、なのかな?)
振り返った弘晃は、視線を再び赤レンガの塀のほうに戻した。
『あ~っっ! でも、中身が、ほとんど入ってない~……』
途方にくれた声が、弘晃の耳にもハッキリと聞こえてくる。
『なんで? どこにいっちゃったんだろう?』
姿は見えないながら、塀の向こうの少女は困り果てているようだった。
(心配しなくても大丈夫。 うちの母が、君の荷物をもって、そちらに向かっているところだから)
そう一言告げて、六条紫乃らしき娘を安心させてやろうと、弘晃は塀のすぐ側まで近づいた。だが、声をかける直前で、彼は思いとどまった。
聞こえてきたのは、嗚咽だった。塀のあちら側で、紫乃が声を殺してむせび泣いている。
『やあねえ、泣くことないじゃない?』
無理に元気を出そうとしているのか、六条紫乃は、意識して明るい声を出そうとしているようだった。
『私は全然っ……悪くないんだから』
『泣いたら、あの子たちの思う壺じゃない?』
『絶対、ぜええったい、負けないんだから』
言っていることは威勢がいい。だが、声と声の合間に鼻をすする音が混じっていた。
弘晃は、聞いてはいけないもの聞いてしまったような気がした。だが、そうかといって、泣いている紫乃を放っておくこともできない。塀に片手をついたまま、弘晃がその場に立ちつくしていると、『紫乃さん? あなた、六条紫乃さんよね? そうでしょう?』と、塀の向こう側から、紫乃に話しかける母の声が聞こえてきた。
弘晃は、静かに、その場から立ち去った。
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「え? 言いつけないでくれって、本人が言ったんですか?」
「そうなのよ。それは、それは、しっかりとした礼儀正しい娘さんでね。そのうえ、とっても綺麗な子で……」
それから30分ほど後に学校から戻ってきた母は、すっかり六条紫乃のファンになっていた。彼女は、興奮冷めやらぬまま、紫乃とのやりとりを詳細に弘晃に語って聞かせた。
「しかし、本当に見守るだけでいいのでしょうか?」
母が話してくれた通り、六条紫乃は、とてもしっかりとした考えの持ち主だと思うし、彼女が望むとおり、彼女が踏ん張れるところまで 見守ってやるのが大人の対応というものだろう……とは、思う。だが、今のままでは、彼女はまた、あんな風に、誰も見ていないところで声を殺して泣くことになるのだ。そう考えただけで、弘晃は胃の辺りが締め付けられるような感じがした。
歯がゆいのは、母も同じだったようだ。
「だって、『見守る』って、紫乃ちゃんと約束してしまったのだもの。だから我慢するしかないじゃない」
母が拗ねたように口を尖らせた。
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しかしながら、母の我慢は、あっという間に限界を超えた。それから数日後。今度は、切り裂かれた紫乃の体操着が弘晃の家に投げ込まれていたからだ。
「……で、いきなり校長先生に直談判……しちゃったんですか?」
母の行動力に、弘晃は驚いていた。
「だって、このまま放っておいて、あの子が怪我してからでは遅いと思ったのだもの。でも、紫乃ちゃんとの約束を破ってしまったわ……」
2度と紫乃に合わす顔がないと、母は、すっかりしょげていた。
「先生に告げ口したのがお母さんだとわかっても、彼女は恨んだりしないと思いますけどね」
弘晃は母を慰めた。
残念なことに、校長のやることは、紫乃と同じで、至極真っ当な正攻法だった。中等部の全校生徒に向かって、いじめはあってはならないことだと諭したところで、たいした成果が上がるわけもなかった。ごく一部の生徒は改心したようだが、一部の生徒は、かえって残忍さを増したようである。教師たちが、紫乃から目を離さないようにどんなに気をつけてくれても、彼らの目をかいくぐるようにして、紫乃へのいじめは続いた。彼女が理科準備室に閉じ込められたのも、この頃である。そういった報告は、律儀な校長によって母にもたらされた。校長によれば、いじめの首謀者をたずねても、紫乃は、がんとして口を割らないのだという。これでは解決のしようがないと、校長は首を振るばかりだったそうだ。
「なんとかならないものかしら」
母は、紫乃のことを心配するあまり、心休まる暇がないようであった。しかしながら、いくら紫乃が可哀想だとはいえ、一度しか会ったことのない娘のために、そこまで一生懸命になる母は、弘晃の目には奇妙に映った。
「弘晃さまのせいですよ」
長年、中村家に仕えている料理人の女性 (紫乃が中村家を訪ねたときに、母と一緒に歓迎した女性だ)は、そう分析した。
「僕の? どうして?」
「ご自分の息子であるにも関わらず、弘晃さまには、何もして差し上げられなかったでしょう? だから、無意識のうちに、せめて弘晃さまの代わりに、あの紫乃という少女を守って差し上げたいと思っているのではないでしょうか?」
「気にすることはないのに」
祖父に逆らえるものなど誰もいないのだから、彼女だけが気に病むことでもない。苦く微笑みながら、弘晃は、一ヶ月ほど前から祖父が臥せっている部屋の方角に目を向けた。かすかではあるが、そちらの方角から、祖父の快癒を願う祈祷を続ける女のヒステリックな声が聞こえてくる。
「僕も、もう少しだけ頑張ってみるか」
弘晃は、誰に言うでもなくつぶやいた。隣の学校では、中学生の小娘が、どんなに辛い目にあっても負けずに、ひとりで乗り切ろうと頑張っているのだ。大の大人の弘晃が、一度や二度の挫折に打ちひしがれて、いつまでも不貞腐れているわけにもいくまい?
いつの間にか、母ばかりではなく弘晃までも、すっかり紫乃に感化されていた。
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7月になると、思いあぐねた母は、当時、隣の学校の高等部に通っていた華江という娘と連絡を取った。
華江は、中村の分家の娘である。分家の当主である彼女の父は、戦後の財閥解体政策をうけて内容別に4分割された事業のうちのひとつ、重工業部門のみを独立させた会社を経営している。
華江の父と弘晃の祖父は非常に仲が悪かった。いや、華江の父ばかりではない。分家の当主たち皆、本家の当主である祖父を疎んじていた。本家の人間でさえなかったら、弘晃の父も弘晃ら家族を引き連れて家を出ていたに違いないから、分家の人々が祖父を嫌う気持ちは弘晃にも母にもよくわかった。そんな事情もあって、全く交流のなかった華江の家に電話するということは、母にとっては、よほど勇気のいったことに違いなかった。
当時の紫乃は学校全体を敵に回したように感じていたに違いないが、高校生の華江は、中等部で陰湿ないじめが行われていることなど全く知らなかった。 華江は、下級生がそのような悪事を行っていることに気が付かず、それを卒業生とはいえ部外者である母に教えられたことを恥ずかしいと感じたようであった。
華江は、母と同じぐらい、否、母以上に、この問題を深刻に受け止めた。
『早速、調べてみますわ』
華江は、母に約束した。




