33.ゲームオーバー
弘晃の腕の中でひとしきり泣いた後は、長年のつき物が落ちたような気分だった。弘晃の肩にもたれながら、紫乃は、ポツリポツリと話し始めた。
「中学のときは、怖くても逃げられなかった。でも、今だって、そうだわ。お父さまは、自分の野心のために、私たち娘を最大限に利用するでしょう。6人もいるのよ。全員逃げられるわけがないじゃない?」
弘晃は、答えない。でも、彼がちゃんと聞いてくれているのはわかる。
「お見合いのことだって、馬鹿なことしているという自覚はあったわ。でも、明子はしっかりしているようでも打たれ弱いし、橘乃はお調子もので夢みたいなことばっかり言っているし、紅子はおっとり優雅なのは見せ掛けだけでドジなことばっかりしているし、夕紀は、あれだけ人見知りなのに、お嫁にいったら紅子とさえ離れ離れになってしまうし、月子は頭が良すぎて言わなくてもいいことを言って人の反感を買うし……」
悪態とも愚痴ともつかぬ紫乃の妹評が面白かったのか、弘晃が小さく肩を震わせる。紫乃の頬を通して伝わってくるその振動が、妙に心地いい。
「結婚したら、みんなバラバラになってしまう。だから、少しでも……」
「だから、自分にできるせめてものことをしようとしたんですね?」
弘晃の問いかけに、紫乃はうなずいた。
「こんなことしたって、何にもならないかもしれないけど……」
「そんなことはないですよ。感心できるやり方ではないけれど、手段としては有効だと思います」
紫乃をさんざん馬鹿者呼ばわりした弘晃が意外なことを言い出した。
「本当?」
紫乃は、もたれかかっていた弘晃の肩から身体を起こした。
「う~ん。紫乃さんが妹さんの嫁ぎ先に直接関わる手段がない以上、貴女の立場でできることといったら、それがせいぜいでしょう? 僕はただ、そのために紫乃さんが犠牲になるのが嫌なだけです」
「犠牲になんかならないかもしれない。 もしも……」
紫乃は、恥ずかしさを押し殺し、この場の雰囲気に飲まれたフリをして、再び弘晃の肩にもたれかかると、思い切って弘晃の彼の膝の上に乗っていた彼の手に自分の手を重ねようとした。「もしも、あなたが……」
『わたくしと仲直りしていいと思ってくださるのなら……』
もっと直接的で色っぽい台詞のほうがいいのかもしれないが、初心な紫乃には、こんな回りくどい言い方が精一杯。だが、一世一代の愛の告白なるもの(?)をしようと密かに意気込んでいたにも関わらず、彼女は、弘晃の手に触れた途端、驚いたように自分の手を引っ込めた。その手を、自分の唇や頬に押し当てる。それから、彼女は、両手で引き寄せた弘晃の手に頬を摺り寄せた。ついで、彼女は立ち上がり、その手を弘晃の頬や首に滑らせ、更に、思い切って、弘晃の顔に自分の顔を近づけると、彼の頭を抱くようにして彼の額や頬に自分のこめかみを密着させた。
「……。紫乃さん。いきなり人の理性を吹き飛ばすような行為に及ぶのは、やめていただけませんか?」
されるがままになっていた弘晃が、控えめに紫乃に抗議した。
「なにふざけたことを言っているのよ!」
紫乃は、弘晃を叱りつけた。
「なんで、こんなに熱いの?! 熱があるじゃない!!」
「え~と……貴女を、想うがゆえ、の、熱さ……でしょうか?」
そんな台詞を今まで口にしたことがないのだろう。舌を噛みそうな口調で、弘晃が言い訳する。
「誤魔化さないの! いつから?」
「いつから熱が高くなったか、ですか?」
「違います! いつから熱があったかって聞いているんです!」
「いつから? う~ん。最近計ってないからなあ」
弘晃は腕を組むと上を見上げながら口をへの字に曲げた。「熱っぽいと思ったのは、4日前? いや、先週の火曜??」
「一週間前から具合が悪いのに、なんでこんなところを平気な顔してウロウロしているんですか!!」
ひ弱そうな外見はともかく、さっきまでの弘晃は、特に具合が悪いようには見えなかった。ひょっとしたら、一緒にいた弘晃の父も気がついてないのではないだろうか? そうでなければ、こんな場所に彼を連れてくるとは思えない。紫乃の問いかけに対して、弘晃から 「えーと、慣れ?」などという、ふざけた答えが返ってきた。
「弘晃さん。真面目に答えてください!」
「いや……だって、それほど、珍しいことでもないし……。あ、でも、クスリはちゃんと飲んでいましたよ」
のらりくらりと紫乃の追求をかわそうとしていた弘晃であったが、紫乃の気迫に恐れをなしたのであろう。慌てて言葉を足した。
「整腸剤とか言うんじゃないでしょうね?」
「馬鹿な。ちゃんとした風邪薬ですよ」
弘晃が具体的に市販薬の名前を挙げた。総合感冒薬がひとつと解熱剤が2つ。
「で、そのうちの、実際に、飲んでいるのは、どれ?」
「え?」
問われた弘晃が、一瞬、言葉に詰まる。
「まさか……」
「お店で売っているのは効き目が薄いの……かな? なんてね。 一応、説明書で、含まれている成分が重複していないかどうかは、チェックしましたが……」
紫乃の追求から逃れるように身体を反らしながら、へらっと弘晃が笑う。紫乃の目が釣りあがった。
「その説明書には、似たような薬を一緒に飲んだらいけないとも書いてあったはずよ! それよりも、そんなに飲んでも、こんなに熱が高いんじゃ……」
紫乃は、弘晃の手をとった。
「今すぐに病院に行きましょう」
「病院は……今は、ちょっと、困るのですが……」
「そんなことを言っている場合じゃないでしょう! ここからタクシーに乗って……、ああ、それとも、坂口さんの車で来たんですか? その前に、弘晃さんのお父さまを呼んできますね。ここで待っていてください」
紫乃は、弘晃にそう言い置くと、いまだにゲームで盛り上がっている会場に走って戻ろうとした。
「あっ! 紫乃さん、待ってください!!」
紫乃を引きとめようと、弘晃が立ち上がった。だが、急に立ち上がった上、走って彼女を追いかけようとしたのがいけなかったのであろう。数歩走ったところで、彼は、眩暈を起こしたようにその場にしゃがみこんだ。
「弘晃さん?!」
「紫乃さん。お願いだから……」
慌てて戻ってきた紫乃の手首を、思いのほか強い力で弘晃が掴んだ。彼の手を振りほどこうと、紫乃は掴まれた腕を引っ張ったが、ビクともしない。
「父はともかく、ここでの騒ぎは困ります。せめて、あと一週間。六条さんとの話し合いが終わるまで…… そうすれば、僕の役割も終わる。お願いです。だから……」
弘晃は、荒い息を吐きながら、紫乃に懇願した。
「『終わる』って……」
紫乃に訴える弘晃の真剣な眼差しと、『終わる』という言葉の不吉さに、紫乃は青ざめた。
そのときである。
「終わられては困るんだよなあ」
紫乃の頭上から、間延びした声が聞こえた。
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「お父さま?!」
振り返った紫乃は、軽い足取りで石段を降りてくる彼女の父親を見て、声を上げた。
「六条さん」
紫乃の隣で、弘晃が、まるで手負いの獣が牙をむくかのように源一郎に対して身構える気配がした。紫乃は、弘晃をかばうように、とっさに父の前に立ちふさがった。
「安心しなさい。何もしやしないよ」
父が愛娘を安心させると、弘晃の前にひざまずいた。
「君は、そんなことを考えていたのか、道理で……」などど、ぶつぶつ言いながら、父が弘晃の額に手を当てた。
「ずいぶんと熱いな」
弘晃の額から手を離した父は、彼の手のひらに移った熱を冷ますように、手首を振りながら言った。「よくもまあ、こんな状態で頑張っていたな」
「誰のせいだと思っているんです?」
皮肉をこめて弘晃が言い返す。
「俺のせいだろうな。だが、やせ我慢にも程ってものがあるだろう? だいだいだな、君が素直でないのがいけない。おかげで、仕掛けたこちらは引くに引けなくなってしまった……」
「そちらの都合なんて、こちらがわかるわけがないじゃないですか」
「だな?」
父はニヤリと笑うと、弘晃の頭に手を置き、まるで小さい子供にするように彼の髪をクシャクシャにした。
「君に無理をさせすぎてしまったことは、謝るよ。とにかく、うちとの交渉は延期だ。君の体調が戻り次第ということにしよう。まずは、この子に付き添ってもらって、病院に行きなさい。君のお父さんには、私から話しておく」
「でも……」
「四の五の言うな」
厳しい口調で父が弘晃に命じた。「これ以上、ゴチャゴチャ言うなら、うちのものになり次第、お前の会社の社員だった奴らを全員解雇してやるからな」
「やれるものなら……」
弘晃が気力を振り絞るようにして父を睨み付ける。
「できるさ。やろうと思えば、できないことではない」
父が、人を食ったような笑みを浮かべた。
「全員解雇……って」
男たちのやり取りを息を詰めて聞き入っていた紫乃は、とうとう我慢できずに話に割って入った。
「お父さまは、やっぱり、弘晃さんの会社を乗っ取ろうとしてらしたのね?! そんなこと、わたくしが許さないんだから!」
「紫乃。だから、それはね」
「お父さまが、そのおつもりなら。わたくしにだって考えがあります」
説明しようとする父の言い分など聞かず、紫乃は、父を押しのけると弘晃にしがみ付いた。
「わたくし、弘晃さんのお嫁さんになりますから」
弘晃の意向もたずねずに、キッと父親を睨み付けると、紫乃は宣言した。
「は?」
父と弘晃が、びっくりしたように紫乃を見る。より驚いた顔をしていたのは、父よりも弘晃であった。
「紫乃さん? い、いきなり何を……」
「いいの! 最初は、そのつもりで、このパーティーに来たんだから!」
弘晃の動揺などお構いなしに、紫乃は弘晃にしがみ付いたまま、父を睨み付けた。父は、驚いてはいるのだろうが、全く動じていないように見えた。
「紫乃。『時間切れ』って、今朝言わなかったかな?」
父が、いつも娘に向けているような笑みとは明らかに質の異なる酷薄な笑みを浮かべつつ、紫乃にたずねた。
「君を介して中村グループの経営の中枢に入り込む。当初の予定では、そのつもりだったがね。しかしながら、中村物産は、いまや我が手に入ったも同然。君が質になって中村から私に手を引かせるには、もう遅すぎるとは思わないかね?」
「ただの脅しだとお思いになるのなら、それでもいいわ」
紫乃は言った。「わたくしは、最後の最後まで弘晃さんと運命を共にしますから。弘晃さんの会社を潰すというのなら、わたくしごと潰せばいいわ!」
やれるものならやってみろ……と言わんばかりに、紫乃が父親に啖呵を切った。さすがの父も、この発言にはショックを受けたらしい。呆然としている。
「紫乃さん。お願いだから冷静になってください」
弘晃が紫乃の耳元で抗議した。
「潰れる予定の家に嫁いでどうする気ですか? それこそ、妹さんたちを守れませんよ。僕の妻になるメリットなんて、どこにも……」
「それでも、いいの!」
「よくありません」
言い張る紫乃に困り果てたように、弘晃はため息をつきながら、熱っぽい体を起こして石畳に正座すると、紫乃の父親の存在など忘れたかのように彼に背を向け、紫乃の両肩に手を添えて説教を始めた。
「『自分をもっと大切にしてください』って、さっき、注意したばかりでしょう? なんでわからないんですか? 縁談が破談になったのは単なるきっかけです。うちが潰れるのは、紫乃さんのせいではありません。責任を感じて、自分を犠牲にして、僕たちを庇おうとしてくださらなくてもいいんです。 僕たちのことは放っておいてください。ちゃんと自分の幸せを探してください」
「あなたこそ、なんで、こんなときに、そんなに冷静なのよ! わたくしのことがそんなに嫌いなの!」
紫乃がわめいた。
「……いえ」
「好きか嫌いか、はっきり言って!」
どこまでも煮え切らない弘晃に紫乃がイラつく。
「好きです……けど」
「だったら、文句を言わない!」
「いや、でも……」
「君たち」
仲間はずれにされて寂しくなったのだろう。 父が、紫乃たちに声をかけた。
「紫乃の気持ちは良くわかった。だけど、実は……」
父は、石畳の上に正座している弘晃をと紫乃を見下ろしつつ、首の後ろのあたりをホリホリと掻きながら苦笑する。
「実のところ、乗っ取られそうなのは、むしろ、こっちのほうなんです、けど」
「え? そうなの?」
紫乃は、びっくりしながら、父と弘晃の顔を見比べた。
「いや。今のところ潰れそうなのは、確かに中村物産の方だがね」
父が弘晃を見る。父の言葉に同意するように、弘晃が紫乃に肯いてみせた。
「どういうことなんですか?」
困惑しながら、紫乃が弘晃にたずねた。弘晃は、彼女の問いに答える代わりに、父を見上げると言った。
「ですが、そちらを乗っ取る意思など、僕たちにはありません。僕が……僕たちが望んでいるのは、うちの会社の社員全員を、今と同じ条件で雇い続けていただくこと。それだけです」
「だが、君にそのつもりがなくても、君の社員たちは、やる気満々のようだよ。いつの日にか俺を追い落として、君をトップに挿げ替える……」
「そんなこと、たとえできたとしても、しやしませんよ」
「でも、やってできないことでもないよね?」
父の問いかけを、弘晃は否定しなかった。
「だが、君が仕組んだとおり、俺は、他の会社を手に入れたときのように、いらない奴を片っ端から解雇することもできない。それより、当面の問題だ。俺のせいで君に万が一のことでもあったら、それこそ、君のところの社員に何をされるかわからない。いや、その前に紫乃に殺される。困ったね」
タキシードのズボンのポケットに両手を突っ込みながら、父が月を見上げて大きく息を吐いた。
「だから、今回は、引き分け……ということにしようじゃないか?」
父が弘晃に持ちかけた。
「このままじゃ、俺と君、どちらの会社にとっても、全くいいことがない。その上……ここが一番問題なんだか、紫乃までが不幸になる。だから、提案がある」
「提案?」
「それについては、また日を改めて」
続きを聞きたそうな顔をしている弘晃をなだめるように、父が弘晃に笑いかける。
「とにかく、しばらく休め。君が休んでいる間、そちらの会社の経営に支障が出ないよう。この男が万事よろしくやっておく」
父が後ろを振り向いた。暗がりから街灯の灯りの下に、父の秘書の葛笠が進み出て頭を下げた。
「お宅の会社の社員は他の誰の言うことを聞かなくても、君の言うことなら素直に聞くんだろう? だから交渉相手は、君でないと困る。さて、他に病院に行けない理由があるか?」
「いえ、どうか、よろしくお願いします」
弘晃は、気力が尽きたのだろう。
父に頭を下げるついでのように、そのまま、紫乃の腕の中に倒れこんだ。




