32.自分のためではなく
「あなたの話には、矛盾があります」
うちが立派な家かどうかとか、いや、それよりも、うちの母は紫乃さんのことが大好きだから嫁いびりなどしやしないだろうとか、そのあたりのことは、とりあえず置いておくとして……
弘晃は、長々と前置きした後、紫乃にたずねた。
「紫乃さんは、いじめられるのが嫌だから貴女をいじめそうな……つまり、人を人柄でなく家柄で判断するような人たちが帰属している家よりも、さらに大きくて立派な由緒のある家に嫁ぎたいと言いました。でもね。そういう家こそ閉鎖的で、外から入ってくる者に対して風当たりが強いものですよ。時代遅れの特権階級意識に基づく偏見に凝り固まった親戚も大勢いるし、親戚の数だって半端じゃない。遠い親縁まで含めれば、紫乃さんが通っていた中学の生徒数など、軽く超えるのではないでしょうか? そんな家に嫁いだら、それこそ、無茶苦茶いじめられますよ。それは構わないんですか?」
「それは……」
紫乃が弘晃の追求を言い逃れるための言葉を考えつく間もなく、「いや、そんなことよりも」と、彼が次の質問をぶつけてくる。
「そもそも、いじめられるのが嫌なら、なぜ逃げないんです?」
「え? 逃げる?」
「ほら。そんな簡単なことさえ、貴女は思いついてない」
思いがけないことを問われてきょとんとしている紫乃を、弘晃が笑った。
「ここから逃げ出したい。どこか遠くへ行ってしまいたい。いっそ消えてしまいたい。本当に嫌なことがあったら、普通一度は考えることでしょう? 学生ならともかく、結婚したら家を出られるんです。今の日本は比較的階級意識の低い国ですから、あなたのおっしゃるようないじめや差別を受けずに生きていける環境ならいくらでもある。いや、国内といわず海外で生活することだってできる」
「だって、逃げたって……」
「何の解決にもならない? なりますよ。少なくとも貴女ひとりは幸せになれます。自分たちは上流だって信じている人たちの輪の中から抜け出したからといって恥になるわけじゃないことぐらい紫乃さんはわかっているはずだ。でも、紫乃さんにしてみれば、それは……敵の中に大勢の味方を置いて、一人で逃げちゃう裏切り者みたいな感じ……ですか?」
弘晃が、紫乃が思ったことを、さらりと言い当てた。
「でも、それは、たまたま、思いつかなかっただけで」
紫乃は、弘晃から目を逸らすと、ふて腐れたように言い返した。
「たまたま、ねえ……」
弘晃は、紫乃の言い訳さえ面白がっているようである。
「いいえ。たまたま思いつかなかったわけではありません。貴女には、はじめから『逃げる』という発想がないんです。貴女自身は、いじめなんか、とっくに克服しているんだ。再びいじめられることになっても、難なく切り抜けられる自信がある。わざわざ逃げたりしなくても、貴女は、どこでも、どうやってでも生きていける。そういう自負がある。だから、逃げる必要なんて感じていないんです。しかしながら、皆が皆、貴女のようにたくましくはなれない。だからこそ、貴女はその場に踏みとどまって頑張ってしまう。貴女って人は、人の知らないところで苦労と責任を平気で背負い込みたがるところや、なんでもかんでも誰にも頼らずに解決してしまおうとするところは、中学生の頃から、全然変わっていませんね。その全然変わっていない貴女の性格を軸にして、貴女が企てていた計画を考え直してみると……」
「ちょっ! ちょっと、待って!!」
紫乃が手を振り回して、弘晃の話を止めた。まじまじと弘晃を見る。
「なんで、そんなこと言うの? まるで……」
まるで、昔から紫乃のことを良く知っているようではないか。
弘晃は目を伏せると、紫乃の問いに答える代わりに、こうたずねた。
「あなたが通っていた学校の図書館の裏手には、なにがありますか?」
「え……と、花壇?」
図書館の裏手には、狭い道があり学校の裏門へと出られるようになっている。図書館は南向きの本校舎と対面になるように正面を北に向けて建てられているため、裏といっても、この場所は日当たりが良い。図書館の壁にそって造られた花壇は、四季を通じて花の絶えることのないよう、園芸部が丹精こめて世話をしている。
「そう、花壇ですね。 あれは、あなたが中学に入ったときにはなかった。では、その花壇の向こうには?」
「え? 花壇の向こう? 花壇の向こうには何も……」
紫乃が眉根を寄せる。花壇の向こうには何もない。背丈よりもずっと高い赤レンガの塀があるだけである。
「あなたに限らず、学生さんというのは面白いものですね。学校の敷地の向こうには何もない……そんなふうにとらえているようだ」
弘晃が笑った。
「え? 学校の外?」
紫乃は改めて記憶の糸を手繰り寄せた。
(学校の外……塀の向こうに見えるものといえば……)
「あ」
「そうです。 図書館の裏は、ちょうど我が家の裏手にあたります。学校側から、うちの蔵の屋根がみえるのではないですか?」
弘晃が言った。
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「貴女が入学してきた年の春から夏にかけて、うちの敷地めがけて、何度も不法投棄がありました」
「は? ゴミですか? うちの学校の生徒が?」
「ええ。捨てた人たちもきっと、学校の外には何もないから捨てても咎められることはあるまいと高をくくっていたのでしょう。いろいろな物が学校のほうから投げ込まれていたんですよ。ノートや鉛筆、ハンカチに上履き、それから、体操服や靴や鞄や……」
弘晃が、次々に学用品の品目を挙げ始めた。
「……。 それはゴミじゃないと思うんですけど?」
紫乃が口を挟むと、「そうでしょうね」と、弘晃がうなずいた。
「捨てられた物の持ち主にとっては、大事なものでしょうね。ひとつひとつの物に、丁寧な字で名前も書かれていました。『1年D組 六条紫乃』と……」
「え?」
紫乃は目を見開いた。 「私の物?」
「そうです。貴女の持ち物ばかりでした」
弘晃がうなずく。
「いまさら謝っても遅いのですが、蔵や庭木の陰になっていたので見つけるのが遅くなって申し訳ありませんでした。こちらに捨てられたものは、母が、貴女に届けたはずですが?」
「おかあさまが?」
「ええ。あなたを問いただして、いじめをしている子を明らかにする。その上で、学校の先生に、こういったいじめは許されないから学校を挙げて取り締まるべきだと厳重に注意してくれる。そう言って、母は、あの日、拾った物を抱えて勇んで家を出てゆきました。でも、貴女は、母に言ったんですよね? 『いじめを受けていることは、どうか、先生に内緒にしておいてほしい』と……」
「ええ」
紫乃は言った。思い出した。
なくなったものを探して図書館の裏をうろうろしていたときに、紫乃に声を掛けてきてくれた上品そうな女性がたしかにいた。一回だけ。それも短い間のことだったから、紫乃は、その人の顔を覚えていない。てっきり他の生徒の保護者だとばかり思っていた。
(まさか、おかあさまだったなんて……)
「あのとき、貴女は、『内緒にしていてほしい』以外に、母に、なんていったか覚えていますか?」
弘晃が、静かにたずねた。紫乃は、無言でうなずいた。覚えている。あのとき、紫乃は、弘晃の母に向かって、こう言ったのだ。
『先生に叱られたら、私へのいじめはなくなるかもしれませんけど、でも、それでは駄目なんです。 私には、5人の妹がいます。あの子たちが、この学校に入学してきたときに、今の私と同じような目に合うのは嫌なんです。 だから、そんなことにならないために、みんなの……学校全体の意識を変えないといけないと思うんです』
「家柄で差別していじめをしている人のほうが、いじめられている人よりもずっと人品が劣るのだと、皆にわかってもらいたい。みんなの意識が変われば、自分と同じような理由でいじめられる生徒はいなくなるはず。『実際に、私の味方になってくれる人たちも現れ始めました。私なら大丈夫。妹たちのためだと思えば、まだまだ頑張れます。お願いです。先生には言わないでください。どうか、もう少しの間だけ、静かに見守っていてください』」
弘晃の口が、かつて紫乃が言った言葉を静かにつむぎ出す。
「……、す、すみません!」
紫乃は、恥ずかしくなって、スカートを覆っている薄物に赤くなった顔を埋めた。まだまだ子供だったとはいえ、見ず知らずの女性に向かって、すいぶんと生意気な口をきいたものである。
「おかあさまには偉そうな啖呵を切ってしまいましたが、そこまで素晴らしいことは成し遂げられませんでした」
「実現するには高すぎる理想ではありますからねえ……。でも、いい線まで行っていたとは思いますよ」
弘晃が苦笑しつつ、恥じ入っている紫乃を慰めた。
「でも、貴女が頑張ったおかげで 妹さんたちを守るという、貴女の一番の目的は果たせましたよね? 明子さんも橘乃さんも、多少の嫌味は言われたようだけど、仲間はずれにされるようなことはなかった。紅子ちゃんたちは、紫乃さんの妹であることを羨ましがられこそすれ、あなたと同じように成り上がりの男の娘であるとか、愛人の娘であるとか……六条家の娘であるという理由で肩身の狭い思いなどしたことがない」
「みんなから聞きだしたの……?」
紫乃は、ぼんやりと顔を上げて弘晃を見た。弘晃は肯定するように微笑んだ。
「つまり、あなたは、『大きくて立派な名家』に嫁ぐことで、学校で成したことと同じことをしようとしていたんでしょう? 誰もが一目置くような大きな家に嫁いで、そこで、どんなに侮られてもいじめられても、耐え抜くつもりだった。そして、なるべく早い時期に、その家の人間たちにあなたを認めさせ、六条家から来た嫁は『いい嫁』だというお墨付きと得て、世間的に良い評判を獲得する。そんな評判を聞けば、そののち、あなたの妹さんたちを嫁として迎え入れることになる家だって、(「その家もきっと、源一郎さんの大好きな『名家』ですよね」と弘晃は笑った)妹さんたちを、すんなりと受け入れてくれるかもしれない。貴女を認めている貴女の婚家への気兼ねや遠慮も働くから、少なくとも、人目のあるところで、おおっぴらに自分の家の嫁…すなわち、貴女の妹さんたちを見下すような真似はしないでしょう。あるいは、紫乃さんを通じで、あなたの婚家と縁続きになることを喜んで、妹さんを大切にしてくれるかもしれない。もしも、嫁いだ先で妹さんたちが自分たちの氏素性のことでいじめられていることがわかれば、そのときは、貴女は、婚家の力を借りて介入するつもりだったのではありませんか?」
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弘晃の話が終わった後も、紫乃は下を向いたままだった。数メートル先の植え込みの中から、コオロギがひときわ高らかな声で鳴いている。
「馬鹿みたいだと思っていらっしゃるんでしょうね?」
虫の声のするほうを睨み付けたまま、紫乃は弘晃に言った。
「男の人からみたら、わたくしのやろうとしていることは、滑稽で、馬鹿みたいにみえますよね?」
「思っています。『馬鹿みたい』じゃない。貴女は馬鹿です」
「……どうせ、そうでしょうよ」
紫乃はムッとして顔を上げた。だが、紫乃は、弘晃の顔を見て、言おうとしていたケンカ腰の言葉を引っ込めた。弘晃は、慈しむような、哀れむような、でもどこか怒っているような、なんとも表現しがたい表情を浮かべて紫乃を見ていた。
「弘晃さん?」
戸惑いながら弘晃を見つめ返す紫乃の髪に、弘晃の指がそっと触れた。
「体操着を切られたり、机に『死ね』って書かれたり、理科準備室に閉じ込められたり……そこまでされても、反撃もせず先生にも言いつけず、泣き言も言えずに、たった一人で頑張りきった貴女は、馬鹿以外の何者でもありません」
「弘晃さん、なんでそこまで……」
知っているの? ……と言う前に、弘晃が紫乃を引き寄せた。ベンチに腰を下ろしたまま、弘晃の身体にぶつかるようにして、紫乃は弘晃の腕の中に収まった。
「そのうえ、あなたは、まだ凝りもせずに同じことをしようとしている。どこまで馬鹿なんですか? あれだけ怖い思いをしたくせに」
すぐ真上で、叱るような弘晃の声が聞こえた。
「怖い思いなんて……」
「強がっていただけで、初めから怖くなかったわけじゃないでしょう? 『黙って見守ってほしい』と言われた手前、僕は見ているだけにしましたが、中学生なんてものは、中途半端に子供だから、やることが半端じゃないというか、残酷というか……」
弘晃は、酷く怒っているようだった。
「でもね。それは……」
弘晃に何か言い返そうとした途端。 不意に、あの頃押し殺していた感情が生々しくよみがえって来た。
いわれのない悪意。
敵意のこもった同級生たちの視線。
そんなものに毎日毎日さらされて、あの頃の紫乃は、気が狂いそうだった。
いつも逃げ出したくて……それでも、逃げるわけにはいかなかった。
紫乃が逃げたら、次の犠牲者は明子になる。
明子が逃げたら、橘乃。
橘乃が逃げたら……。
きりがない。
(だから、感情を殺して、なるべく怖いと思わないようにして……)
「そうよ。怖かったわよ。とっても怖かったんだから。」
紫乃の目に涙が溢れた。
「だから、あの子たちには、絶対に、あんな思いさせない。……そう思って……」
「うん。よく我慢した。頑張っていたね」
弘晃が、まるで中学生の紫乃に対するような口調で、彼女の髪を撫で、腕の中に包み込んでくれる。
その暖かさに甘えるように、紫乃は、彼の胸に涙に濡れた顔を押し付けた。




