31.打算のつけ
「中でゲームが始まるそうですよ。戻らなくてもいいんですか?」
階段の手すりに寄りかかるようにわずかに身を傾げながら、弘晃が、ゆっくりと石段を下ってくる。
「いいんです」
紫乃は答えた。
「ビンゴでしょう? 今、あんまりしたい気分じゃないし……」
「へえ、あれがビンゴというものですか」
「ご存じなかったの?」
「噂でしか。あの数字が沢山書かれたカードでどうやって遊ぶんです? くじ引きみたいなものですか?」
「くじ引きと五目並べが一緒になったようなものですよ。当たった数字が5個1列に並んだら上がりです」
「なるほど、ただのくじ引きよりも、ずっと面白そうですね。せっかくだから挑戦してみればよかった」
弘晃が名残惜しそうに後ろを振り返る。それを見た紫乃は、なんだか、とても安心した。ここに居るのは、紫乃の良く知っている弘晃に違いなかった。物知りなくせして、どうでもいいような知識に限ってすっぽ抜けている。
「戻りますか? 参加するだけなら、今からでも十分間に合うと思いますけど?」
紫乃が勧めると、弘晃は「いいえ」と首を振った。彼は、彼女が先ほど座ろうとしていたベンチを見つけて腰をおろすと、ほっとしたように息を吐いた。
「ちょっと休憩したくて抜け出してきたんです。 初対面の人と次から次へと話したせいで、もう、くたくたで……」
「人気者は大変ね」
「珍しがられているだけですよ。今度来日するパンダみたいなものです」
紫乃がからかうと、弘晃は顔をしかめた。コリを解すように首を回している弘晃は、酷く疲れて見える。やつれているようにさえ見えるのは、青白く仄かな月の光の下にいるからだろうか。
「あの……大丈夫ですか?」
「ええ、ちょっと疲れているだけです」
紫乃が声を掛けると、弘晃は耳になじみのある優しい声で朗らかに笑った。
「最近、なにかと忙しくてね。それより……」
弘晃が紫乃に目を向け、しんみりとした口調で言った。
「貴女に、『おめでとうございます』って、言うべきなんでしょうね」
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「え? どうして?」
驚いたように目を瞬くせる紫乃を見て、弘晃も驚いたような顔をする。
「どうして……って、ああ、そうか。まだ、そこまで本決まりになっていないのかな? 森沢さんとのことです」
「森沢って……、あ、そうよ。森沢さんだわっ!!」
紫乃は、手を打った。
そうだ、森沢だ。5人目の名前は森沢英俊さんだった。やっと思い出せた。ああ、すっきりした。
紫乃は、胸の前で小さく手を叩いた。しかしながら、紫乃は、すっきり気分を暢気に満喫している場合ではなかった。弘晃は、森沢との仲を、完全に誤解しているようである。
「でも、いい人そうで、良かったですね。紫乃さんは、目的のためならどこに嫁に行くのも厭わない覚悟でいるようだったから、心配していたのですよ。森沢さんなら、年もそれほど離れてないし、なにより、あの喜多嶋紡績グループ一族の一員になれるわけで……」
弘晃は、紫乃と森沢の結婚を心から祝福するつもりであるようだった。聞いているうちに、紫乃は、だんだん腹が立ってきた。それは、恋を自覚した乙女なら、ごく自然な感情であろう。好いた男にこの手の祝いの言葉を述べられて喜べる女など、世界のどこを探したっているわけがない。
「森沢さんと結婚なんてしません」
紫乃は口を尖らせた。
「え? どうして」
弘晃が、心底驚いたように目を見開く。
「何が気に入らないんですか? そりゃあ喜多嶋ケミカルは、今でこそ喜多嶋紡績グループのお荷物ですが、あそこなら、近いうちに業績アップ間違いなしです。森沢さんの奥さんになった紫乃さんが肩身の狭い思いをすることはないですよ」
「そういうことじゃありません。そもそも結婚する気がないんです。わたくしにも、それから、森沢さんにも!」
「森沢さんも? 彼、好きな人でもいるんですか?」
「そんなこと知りません。でも、森沢さんがわたくしを選ばない理由は、きっと、弘晃さんと同じなんでしょうよ」
やや投げやりに答え、紫乃は、彼の反論を受けてたつために、弘晃を見据えた。だが、弘晃は、なにも言わない。ベンチに座ったまま、話の続きを促すように、紫乃を見ている。こんなことまで言わなければよかった……紫乃は、少しだけ後悔した。でも、ここまで話したら、止めることもできない。
「弘晃さんのことですもの。もう、とっくにわかっていらっしゃるんでしょう?」
森沢にもらったドレスのスカートを覆う紗のような生地を夜風に大きく翻すと、紫乃は拗ねたように、弘晃の隣に腰を下ろした。そして、おぼろに霞んだ半月を見上げながら、話し始める。
「わたくしね。中学校に入ってしばらく、酷いいじめにあったんです」
紫乃が嫌われた理由は、登校2日目に黒板に大書きされていたので明らかだった。
「わたくしが、成り上がりの男の愛人の娘だから」
生まれたときからなんの不自由もなく、自分たちは『特別だ』と思って育った紫乃の同級生たちは、成り上がりの男の愛人の娘という存在を、何の疑問もなく『汚らわしい存在』だと認識した。後に友人になった同級生の涙ながらの告白によると、あの頃の彼女たちは、紫乃をいじめることについて、何の罪悪感も持たなかったという。
悪いのは、いじめている自分たちではない。
悪いのは、身の程もわきまえずに自分たちの中に紛れ込んだ『紫乃』という異物のほう。
異物は、存在していてはいけない。
排除しなければいけない。
彼女たちは、紫乃を受け入れないことこそが自分たちにとって正しいことだと本気で信じていた。
だからこそ、紫乃へのいじめは苛烈を極めた。
クラスの誰ひとり、紫乃と口を利いてくれなかった。
持ち物は、次々になくなった。
やっと見つかった体操着がズタズタに切り裂かれていたこともあった。
教室に入ったら、紫乃の席が机ごと消えていたこともある。
その机は、中庭の池に放り込まれていた。
「わたくし、いじめられっぱなしは嫌でした」
とはいえ、同級生たちに受け入れてもらうために、いじめていた相手に媚びへつらって機嫌をとるようなこともしたくない。
「悪いのは、いじめているほうだもの」
絶対に頭を下げるような真似はしたくなかった。
「だから、頑張ったんですね?」
弘晃が問いかける声は優しかった。
「あなたをいじめている相手を見返すために。いいえ、相手があなたに一目置かずにはいられないほど、あなたは頑張った」
紫乃は、無言でうなずいた。
「誰にもケチがつけられないような、完璧なレディーを目指そうと思ったの。そこまでやっても、わたくしを認めないようなら、そんな学校、こちらから見限ってやろうと思った」
せめて一年。 すぐ下の明子が入学してくるまでは、頑張ろう。そう心に決めて、紫乃は、自分を高めるために必死で努力した。目的ができたら、些細な嫌がらせなど気にしている暇がなくなった。
どうせ、いじめの中心人物であった少女たちは、彼女たちの言うところの血統の正しさしか誇るべきことがないような中身の薄い人たちなのだ。嫌がらせ以外、彼女たちにできることなど何もない。あんな人たち、相手にするのも馬鹿らしい。だから、放っておけばいい。紫乃は、すぐに、そう思えるようになった。
何があっても凛としている紫乃は、とりあえずいじめる側についた、又は係わり合いになるまいと思って紫乃といじめっ子の双方に距離を置いていた生徒たちの目には、非常に格好良く見えたらしい。紫乃を慕って、次第に彼女の周りに人が集まるようになった。学年が終わる頃には、 紫乃苛めの中心にいた少女たちのほうが肩身の狭い思いをすることになった。
「学校は…… うまくいったわ。でも、大学生になって、友達に縁談が舞い込むようになって、急に不安になったの」
あの父のことだ、きっと伝統と格式を誇り、なおかつ現在も隆盛を極めているような旧家に、有無を言わせずに紫乃を嫁がせるに違いない。嫁いだら、また新しい人間関係が生まれる。婚家の嫁として、社交の場に出なければいけない場面も出てくるだろう。そういった場所で、また『愛人の娘』だと侮りを受け、いじめられることになったら? そのときに彼女が相手にしなければいけなくなるのは、紫乃と同年の若い娘たちばかりではない。長い年月をかけて自分なりの価値観に凝り固まった、言っては悪いが、非常に頭の固い融通の利かないオバサン(オジサン)たちばかり……
「また1からやり直すのか……と思ったらうんざりした。だから、どうせ嫁ぐのだったら、上流階級にいる人たちでさえ羨むような名家に嫁いでやろうと思ったの。その家の人たちが、私を認めてくれれば、他の人たちだって、私が嫁いだ家に遠慮して、わたくしに、うかつなことを言ったりしたりできなくなるでしょう? だから……」
紫乃は弘晃の反応を伺うように彼に視線を向けた。だが、紫乃の話に耳を傾けている弘晃の表情からは何も読み取れない。
「だから、500年の歴史を誇る元大財閥の弘晃さんのお家なんて、わたくしにとってはうってつけの条件だったの。弘晃さんが見抜いたとおり、家が立派でさえあれば、お見合いの相手の男性なんて、どうだって良かった。そんな打算的なことばかり考えて、あなたと結婚しようとしていたの。愛情なんて2の次。そんな女と結婚するなんて、弘晃さんだって、ごめんだわよね? 呆れて当然……」
「どうして貴女は……」
不意に、弘晃が、ため息と共に紫乃の話に割って入った。
「どうして貴女は、いつだって、そうやって自分ばかり泥をかぶろうとするんだろう?」
「え?」
弘晃は、紫乃のほうを向くように座り直すと、射抜くような目で紫乃を見た。
「今の話、肝心なところが違っていますね?」
「いいえ。違いませんわ」
紫乃は恥じ入るように下を向いた。「全部本当のことです。ごめんなさい」
「そんなに申し訳なさそうな顔をしなくてもいいですよ」
弘晃は笑った。
「確かに、僕は貴女が計画していることに薄々気がついてはいました。それを承知の上で、貴女とのお付き合いを続けさせてもらっていたのだから、僕に謝る必要はありません。そして、貴女が話してくれたことは、ほぼ、僕の想像通りでした。でも、ただ一点だけ、肝心なところが違っている」
「それは、弘晃さんの想像のほうが違っているんですよ。きっと」
「いいえ」
紫乃の言葉を、静かに、しかし頑なに弘晃が否定する。
「そんなことはないはずです。違っているのは、動機ですね? 自分が、いじめられるのが嫌だったからというのは、嘘です。あなたが、そんなことを計画したのは、けっして自分が楽になるためじゃないでしょう? 全ては妹さんたちのため。 妹さんたちを守りたくて、あなたは、自分の結婚を、こんな馬鹿げた計画に利用しようとした。違いますか?」




