29.会いたくて
だが、いざ弘晃に会おうと思ってみても、これがなかなか困難だった。中村家は留守であるらしく、何回電話を掛けても、呼び出し音を繰り返すばかりである。
次に彼がいそうな中村物産本社は、電話も受付も対応は全く同じ。
「中村相談役は、ただいま外出しております。本日はお戻りになる予定はございません。お見えになった(お電話があった)ことだけは、必ずお伝えしておきます」
どこまでも礼儀正しく、だが、どことなく冷ややかな態度をもって、紫乃を門前払いする。
「どうしよう……」
紫乃は途方にくれながら、高さが同じ2つのビルが2つの渡り廊下で結ばれている中村物産の本社ビルを見上げた。
受付嬢の口ぶりからして、弘晃が出社していることは確かなようではある。だが、今は出かけてきて、今日のうちに帰ってくる予定はないという。
本当にここにはいないのだろうか? このまま帰って、明日また出直したところで、あの受付譲たちは今日と同じことを紫乃に告げるのではないのだろうか? 彼女たちは、相手が紫乃だから意地悪をしているのではないだろうか? もし、そうだとすれば、それは、紫乃の父親がこの会社に意地悪していることが原因に違いないから、尚のこと、弘晃に早く会わなければならない……紫乃は焦った。
いっそ受付を強行突破するか?
それとも、誰か見知った顔が来るまで、あるいは誰かが紫乃に気がついてくれるまで、ここでひたすら待つか?
「そうだ。 そんなことをするより……」
紫乃は、今朝の父親との会話を思い出した。父は今日、弘晃がどこかのパーティーに現れるようなことを話していたではないか? その会場の前で待つほうが、確実に彼に会えるのではないだろうか?
「主催者は喜多嶋さんとどこって言っていたかしら? 喜多嶋社長って言えば、喜多嶋紡績のことよね?」
ぶつぶつ言いながら、紫乃は首を廻らして公衆電話を探した。葛笠にたずねれば、会場ぐらいは教えてくれるだろう。
「それとも、繭美あたりに頼んだほうが早いかしら? 喜多嶋の御曹司なら、たぶん彼女の近い親戚よね?」
葛笠と中学校時代からの友人のどちらを選ぶか迷いながら、紫乃が電話を求めて地下鉄の駅の入り口に向かっていると、背後から「紫乃さん? 紫乃さんではありませんか?」と、声をかけてきた者がいた。
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「ひろっ……」
弘晃だと思い込んでふりかえった紫乃は、声を掛けてきた人物の顔を見た途端にがっかりした。それと同時に、ここ数ヶ月間の自分のボケぶりを再認識する。さわやかな笑顔を浮かべながら紫乃に近づいてきたのは、紫乃の5人目の見合い相手の男だった。だが、つい数日前に会ったばかりであるのに、彼の名前がどうしても思い出せない。
「どうしてたんです。こんなところで?」
「あなたこそ……、って愚問でしたわね。お仕事ですか?」
「ええ。でも、あなたに会えたことだし、今日はこれで店じまいをしたくなってきたな。どうですか? そのあたりでお茶でも?」
5人目は、誘うように紫乃に流し目をくれた。
整った顔立ちにスマートな身のこなし、そして、甘い言葉。普通の娘なら、これだけ揃っていれば、あっという間に彼に恋してしまうのかもしれないが、普段から父を見慣れている紫乃には何の感慨も沸かない。ただ、服の着こなしだけは、なかなかのものだと彼女は認めた。普通のビジネスマンが着ているスーツをほんの少しラフに着崩しているだけなのに、だらしないどころか、とてもおしゃれに見える。
(おしゃれといえば…… そうだった、この人も喜多嶋関係者ではないの!)
男の名前は忘れたくせに、この男の勤めている彼の父親が社長を務める会社のことだけは、紫乃はしっかりと記憶していた。たしか、喜多嶋紡績の系列子会社で、化学繊維などを主に扱っているところだ。 喜多嶋紡績といえば、今どき珍しいガチガチの同族会社であるから、この男も間違いなく喜多嶋の親族であるに違いない。
(だったら、今日のパーティーにも行くかしら?)
「まあ。でもご迷惑なのでは?」
紫乃は、微笑みに僅かな媚態を滲ませ、あえて5人目の誘いに乗ってみることにした。
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車寄せから色とりどりの花で飾られたホテルのエントランスに、吸い込まれていくように消えていく男女…… 背広姿の男性も多いが、女性の衣装はどれも華やかだ。
「本当によろしいんですの?」
数時間後。
紫乃と父と弘晃が出席を予定しているというパーティー会場の入り口に立つことに成功した紫乃は、彼女の傍らに立つ5人目の見合い相手の男性にたずねた。
彼女が申し訳なさそうな顔を彼にしてみせているのは、決して演技ではなかった。このパーティーに出席したくて、この男に気のある素振りなどしてみたものの、まさか彼がここに来るために必要な一切合財のもの……ドレスから靴、宝飾品まで、すべてプレゼントしてくれるとは思ってもみなかった。しかも、彼にこんなにしてもらっているにも関わらず、紫乃は、いまだにこの5人目の男の名前すら思い出せないのであるから、罪悪感は増すばかりである。
(喜多嶋ではなかったはずなのよね。たしか、森本? 森下? 森……村??? 俊夫? 俊英? いや英俊だったかも???)
一生懸命思い出そうとするものの、考えれば考えるほど、それらしい名前の候補が増えるばかりである。
「気にすることはありませんよ。見栄っ張りの伯父は、今日のパーティーにありったけの知り合いを招待したのです。出席者が増えれば大喜びですよ。それに、そのドレス……とてもお似合いです」
やはり正装している5人目は、ドレスをまとった紫乃を、美しい作品として鑑賞するかのように目を細めた。
「野暮なことを言うようですが、それを着た貴女が会場をうろつきまわってくれれば、大きな宣伝効果を期待できる」
「まあ、じゃあこれは……」
紫乃は自分が着ているドレスを見た。細身のワンピースを軸にして、半透明な布地が幾重にも覆っている。触り心地が良く適度なハリを持つその布地は、非常に薄くて軽いため、何枚も重なっていても、全く厚ぼったい感じがしない。
「うちの会社の技術の粋です」
5人目が誇らしげに笑った。その笑顔は、先刻まで紫乃に見せていたとりすました気障な笑顔とは明らかに異なるもので、絶対にこんな『いかにも遊び人』になびくはずがないと高をくくっていた紫乃でさえ、少しばかりときめかずにはいられなかった。
パーティーは2階にある大きな宴会場で行われるということだった。5人目が言っていた通り、相当な人数が招かれているようである。夜は少し肌寒さを感じるようになったとはいえ、夏は終わったばかり。 会場の外側に向かって大きく開け放たれた窓の向こうに続く庭にも、招待客が溢れている。
「ご挨拶しなくていいんですの?」
「いいんじゃないんですか。いわゆる政略結婚ですからね。お祝いを言ったところで、当人たちが喜ぶとも思えない。喜んでいるのは伯父だけです」
5人目は、そう言いながら、祝福の言葉を愛想よく受けている本日の主役たちを尻目に、紫乃を連れて会場をひと巡りする。『宣伝効果』を期待されているようなので、紫乃は、着ているドレスがなるべく美しく見えるように、堂々と優雅に歩くように心がけた。連れだって歩く伊達男と美女のカップルは、このパーティーの主役よりも、遥かに人目を引いていた。
5人目と並んで歩きながら、紫乃は、油断なく招待客の顔ぶれをチェックした。弘晃も彼女の父親もまだ到着していないようだが、いかにも仕事で来ていますといった感じのスーツ姿の男性がそこかしこにいて、そこかしこで小さな輪を作って話し込んでいる。なるほど、彼らにとって、ここは、祝いの席ではなく、セレモニーという名の仕事の場なのだろうと紫乃は認識した。
一方、ビジネスとは無縁の出席者も数多くいた。紫乃の学校関係の知り合いも、多い。下級生からは、「こんなところで、紫乃さまにお会いできるなんて、嬉しい!」と無邪気に懐かれ、上級生からは、「まあ、紫乃ちゃん。久しぶり。元気だった?」と背中から抱きつかれ、そして、最初に紫乃が頼ろうとした今も同じ大学に通っている昔からの友人には、「紫乃! あなた、今日、学校サボったでしょう? しかも、そんな女たらしと行動を共にしているだなんて……」と叱られた。どうやら、5人目は親族内ではあまり評判がよろしくないらしい。
「私は、これでも結構女性に人気があると自惚れていたのですが、いやはや、貴女の足元にも及びませんね」
5人目が紫乃を羨むような顔をする。だが、知り合いには人気があるとはいえ、これまで紫乃とは何の付き合いもない女性たちが相手となると、和気あいあいという訳にはいかない。
「まあ。六条家のお嬢様ですって?」
興味深げに紫乃たちに近づいてきた年配の数人の女性たちは、彼女の名を聞いた途端に顔色を変え、仲間うちで顔を見合わせた。そして、係わり合いになるのは真っ平だといわんばかりに適当に話を切り上げると、そそくさと紫乃から離れて行った。
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「六条家のお嬢さんですって……」
「六条って、あの愛人が沢山いらっしゃるっていう……」
「……ということは、あの娘さんも?」
「いやあねえ……」
移動するたびに何処かから聞こえてくるヒソヒソ声。
身体にまとわりついてくる蔑むような視線。
「気にすることはありませんよ。人の噂話しかする楽しみのない連中ですから」
不愉快そうに顔をしかめつつ5人目が紫乃を励ました。
「できたら庇って差し上げたいんですけど……。すみませんね。実は、私のせいで余計に紫乃さんの評判が悪くなってしまうのではないかと心配したくなるほど、こういう席での私の評判も最悪に近いものがありまして。その……女性関係のこととか……」
口ごもりながら、5人目が申し訳なさそうに告白する。
「大丈夫ですわ。昔から、こういうことには慣れていますから」
こちらに視線を向けながらコソコソと話し込んでいる婦人たちに対して、わざとニッコリと微笑みかけながら、紫乃は言った。
「未成年の貴女に『昔』って言葉を使われると、ものすごく違和感があるんですけど、いつごろ?」
「中学に入ってから半年間ぐらいです」
「……ということは、彼女たちが?」
5人目は、ふたりが歩いてきた方角……すなわち、紫乃の級友や上級生たちがいた方角を振り返った。 「もしかして、私の従妹も?」
「さあ、どうでしたかしら? でも、今は、とても仲良しですわ」
実をいえば彼女も首謀者のひとりだったが、紫乃は、曖昧な微笑みでごまかした。
「あのときの経験から推測すると、この場所にわたくしに対して本当に悪意を持っている人がいたとしても、せいぜい数人といったところでしょう。後はとりあえず、皆に合わせているだけか、わたくしに興味がないかのどちらかです。だから、悲しくなんかありませんわ」
「日和見と無関心のほうが余程たちが悪いと思うんですけど?」
5人目は、本当はとても正義感の強い良い人であるらしい。彼は、本気で憤っているように見えた。
「もちろん、腹立だしいですよ。でも、すべての人に憎まれるよりは、ずっとマシだと思いません? それに、よく知りもしない人のために、自分の身を危うくしてまで守ろうと思えるほど強い人など、そうそういないものです」
「そういう貴女は、実に強い人ですね」
「わたくしは、それほどでもありません」
謙遜するかのように微笑みながら、紫乃は返す言葉の中に本音を混ぜる。
(大丈夫。これぐらい)
そう。これぐらいの居心地の悪さは昔に比べたら大したことはないと、紫乃は自分に言い聞かせた。
どんなに嫌な所でも、どんな目に合わされても、自分さえしっかりしていれば、絶対に負けることなどない。顔を上げて堂々としていればいい。そうしていれば、少しずつ自分を受け入れてくれる人が増えて、友達もできて、いつか、自分にとって、最高に居心地の良い場所に変わっていくはずだ。
(負けるものか!!)
……と、自分に活を入れてみたものの、本日の紫乃は、意地悪なオバちゃんたちと戦うために、策を弄して、こんな所までやってきたわけではなかった。
(そうだ。弘晃さんを探さなくては……)
当初の目的を思い出した紫乃は、首を大きく廻らして、弘晃の姿を探した。彼は、すぐに見つかった。 紫乃から、それほど離れていないところで、7~8人の男性と話している。弘晃の両隣にいる顔は、紫乃も良く知っている顔だった。ひとりは弘晃の父親、そして、もうひとりは紫乃の父親である。時々こちらまで聞こえてくるような笑い声を上げながら、和やかに談笑している彼らを見る限り、父の会社と弘晃の会社の間に、何かしらのトラブルが発生しているようには思われない。紫乃は、やはり、少し先走りすぎていたようである。
(とにかく、今はまだ何事もないようで、よかったこと)
紫乃が安堵のため息を漏らしたとき、弘晃がチラリとこちらに視線を向けた……ような気がした。別に隠れる必要などないのだが、紫乃は、とっさに弘晃に背を向けた。すると、彼女のすぐ後ろにいた5人目と目があった。
「ふうん。紫乃さんの目当ては、あの男だったんだ?」
弘晃のほうに視線を向けながら、5人目がニヤニヤしていた。




