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水面に映るは  作者: 風花てい(koharu)
水面に映るは・・・ 
26/89

26.逆らうでも屈するでもなく

「それは、私のおかげではありません。片桐さんの普段の仕事ぶりが評価されているからこそ、皆が私の言うことを聞いてくれただけです」

 片桐にまともに礼を言われてこそばゆい思いをしながら、弘晃が言った。

「それに、みんなは、あなたの意見が慎重すぎると非難していましたけれど、片桐は、そもそも石橋を叩いて渡るタイプの人ではないでしょう?」


 弘晃が片桐と接する機会など、普段はほとんどないと言っていい。彼が片桐の仕事ぶりやその人なりを知ることができる数少ない手がかりと言えば、毎日のように彼のところにまで回ってくる業務報告や会議の議事録、そして、人から伝え聞いた話ぐらいなものである。

 それらの手がかりからだけでも、普段の片桐が慎重というよりも、どちらかといえば無鉄砲……良く言えば剛胆で思い切りが良い性格をしているということは充分に察することができる。ただし、―― ここが1番肝心なところであるが―― 彼は、ただの無鉄砲ではない。どんなに頑強そうな橋でも、本当に危ない橋は無意識に避ける。そういう感の良さも持ち合わせている。

「だから、片桐さんが『どうしても譲れない』 とおっしゃる以上、それは最低限満たされなければいけない条件なのだろうと思ったまでのことです。ですから、やはり、片桐さんたちのお手柄ですよ」


 

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「さて…と……」

 片桐の直属の上司である大野に受話器を返すと、弘晃は、会議室の前方の壁に沿って並べられたホワイトボードに箇条書きにされたトラブルリストに目をやった。


 最初のトラブルが発生してから2ヵ月近く。日々新しい項目が追加されるものの、リストの3分の2ほどは、すでに『解決済み』として、2重の赤線で消されていた。そのリストから更に1項目が削除されたのを確認すると、弘晃は会議室全体を見渡した。


 ようやくこちらに渡ることが決まった鉱石を受け入れる準備のため、会議室は急に慌しくなっていた。ある社員は怒鳴るような声をあげながら電話で指示を出し、また他の社員たちは、ひとつの机の周りに寄り集まって、なにやら話し込んでいる。ここから先は現場の仕事。弘晃がここに居続けても、かえって邪魔になるだけだ。

「私は、鉱石のことを社長に知らせてきます。しばらく上にいますから、何かあったら遠慮なく電話をしてください」

 弘晃は、近くにいた者に声をかけると会議室を出た。


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 弘晃は、相談役である。

 名目上は名誉職のような役職についているので、出勤しても本社内に決められた居場所があるわけではない。社長室にもノックをして部屋の主である父に断りを入れてから入る。


「失礼します。ちょっと休ませてもらってもいいですか?」

「もちろんだよ」

 物惜しみしない父が自分が座っている背もたれの高い椅子を譲ってくれようと腰を浮かしかけるのを片手を振って断ると、彼は、社長用の椅子よりももっと近くにある2人掛けのソファーに倒れこむようにして腰を下ろした。


「弘晃、大丈夫かい? 少し横になる?」

 父が、息子のためにブラインドを半分ほど閉じて部屋全体を薄暗くすると、心配そうな顔をしながら弘晃に近づいてきた。

「そうさせてください」

 弘晃は、父に勧められるままソファーの肘置きを枕に体を横に倒した。そして、窮屈なネクタイを片手でむしりとるようにして緩めると大きく息を吐いた。


「弘晃。最近、ちょっと無理しすぎていやしないかい? 少しは……」

「今が踏ん張り時ですからね。僕も、たまには少しの無理でもしないと……」

 父の小言を遮ると、弘晃は、弱々しくではあるが笑顔を見せた。

「僕のことよりも、お父さん。正弘を一度強制的に休ませてください。1日3時間睡眠では、幾ら元が丈夫でも体を壊してしまいます。僕が注意しても全然聞いてくれないんです」

「ああ、そうだよねえ。あの子も無茶ばっかりして……」

 その正弘は、それからしばらくしてから、ブリーフケースを小脇に抱えて、元気一杯に社長室に飛び込んできた。

「鉱石! 渡してもらえることになったんですってね?」

 転がっている弘晃をよけて、正弘がソファーの隅っこに腰を下ろした。

「ああ、ついさっき弘晃から聞いたよ。 本当に良かった。 これで頭を下げに行かなければならないところが、一気に減ったものねえ」

「お父さん。 謝るところが減ったことよりも、迷惑をかけるところが減ったことが喜ばしいんです」

「同じことだろう。ねえ弘晃」

「違うでしょう! そんな言い方をすれば、社員の士気が下がります。ねえ、兄さん?」

「うん。まあ……そうだね」

 弘晃は、どっちつかずな返事をした。いまさら父に上に立つものの心得を説いたところで、彼が社長でいられる時間は長くはない。中村グループは、そう長くはもたない。どんなに頑張っても次の決算は乗り切れないだろう。


 今の状態を辛うじて保っていられるのも、あと1ヵ月が限度といったところか……


「でも、兄さん。本当に半分でよかったんですか?」

 物思いに沈みかけていた弘晃の意識を正弘の声が現実に引き戻した。

「うん? 鉱石のことかい?」

「片桐さんからの報告を聞く限り、半分どころか全部渡してもらえそうだったということではないですか? だから、なんだか、もったいなくて。それに、鉱石に限ったことではなく、他にも……」

  正弘は、体を起して彼の話に耳を傾け始めた弘晃の視線の静かさに気圧されたように、いったん口をつぐんだ。しかし、思い直したように、彼は再び話し始めた。 


「兄さんの言っていることは、頭では分かっているんです。最初に話し合った通りに事を進めようとするのであれば、六条を刺激するのは得策ではない。でも……」

「そうだよね。 反撃らしい反撃もせず、負けっぱなし、やられっぱなしは、正弘の性分には合わないよね」

 弘晃は、わかっているというように、弟を見つめながらうなずいた。

「でも、半分でいいんだよ。今回は勝ちすぎてしまった感があるから、特にね」

 弘晃は微笑んだ。



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  『うちが負けることは避けようがない。ならば、気持ちよく六条に勝たせてやりましょう』


 今から2カ月ほど近く前のこと。中村グループを潰すべく数々の嫌がらせを仕掛けてきた六条クループへの対抗策を話し合っている最中に、社員のやる気を根こそぎにするような発言をしたのは、他ならぬ弘晃本人であった。


 企業の規模は、ほぼ互角。とはいえ、飛ぶ鳥を落とす勢いの六条グループに、再建計画半ばの中村グループが勝てるわけがない。

 どんなにあがいても、中村は、そう遠くない未来に丸ごと六条に呑み込まれることになるだろう。だからといって、潰される前にせめて六条に一矢報いてやろうなどと考える必要はない。


 負けられるところは潔く負けてやれ。

 勝てると思っても引き分けで充分。

 とりあえず3ヵ月、その期間を乗り切るために必要なもの以外は惜しむな。


 肝心なことは、六条に負けないことではなく、この期に乗じて漁夫の利を得ようとする競合他社に勝たせないようにすること。そのために、うちが六条に潰されそうになっていることは、できる限り隠し通してほしい。そして、懇意にさせてもらっている取引先とは、この先も末永くお付き合いをさせていただくつもりで、できる限り迷惑をかけることのないよう、礼を失することのないように最善を尽くすこと……


 まるで、乗っ取られる側の中村が、乗っ取ろうとする六条を後押しするような呆れた指示だが、弘晃は捨て鉢になって、このようなことを言い出したわけではない。


 彼には彼の目論見がある。そして、先代の死後、一時期は倒産寸前まで追い込まれても弘晃たちを見捨てずにここまで付いてきてくれた中村の優秀な社員たちは、この説明だけで、彼の真意をほぼ正確に理解した。その後の社員たちは、弘晃が指示した通り……否、彼が期待していた以上に、上手に六条に負けてくれている。


 ある部署は、表面上は悔しがるフリをしながら取引先の多くを六条に潔く奪われてやった。また、一部の社員は、六条からの引き抜きに応じて、他の社員に先んじて転職していった。

 片桐が荷降ろしを引き受けている会社の社長を脅したりすかしたりしてようやく手に入れた鉱石にしても本来手に入れられる分の半分はあえて諦めた。残りの半分はおそらく、中村が潰れた後は六条のものになるのであろう。


 正弘が悔しがるように、確かに負けっぱなしである。そして、負けが込むほど、中村グループが受ける損害は増え、確実に終わりに近づくことになるわけだが、それも、この際、仕方が無い。


「それに、鉱石については、他からも調達できたこともあって、当面必要な量は充分満たしているし、本当は陸上で受け取る予定だった荷を海の上で……しかも短時間のうちに受け取ることは作業的にも無理がある。大丈夫。片桐さんは、こちらが荷の半分を放棄したことを理由に、僕たちと六条の間に挟まれて辛い思いをさせてしまった可哀想な社長さんが六条に対して言い訳がたつように何とか頑張ってみてくれるそうだから、手に入れられなかった半分が本当の意味で無駄になるようなことはないよ」

「……。わかりました。 もう少し、辛抱します」

 渋々ながら兄に従う姿勢をみせる正弘に、弘晃は、「すまないね」と謝った。


「でも、この調子なら、なんとか潰さずに、この会社を続けていくことができたりしてね」

 兄弟の父である弘幸が、息子たちを元気付けるように明るい声を出した。

「……。 それは、無理というものですよ。お父さん」

 父ほど楽天的になれない息子たちは、そろって苦笑した。


 なにせこちらは、自分たちが出した損害が全て六条の得になるように社員一丸となって動いているのだ。中村が今にも潰れそうなことを他の会社に対しては隠し通すことはできるかもしれないが、六条だけは気がつかないわけがない。待っていれば必ず音を上げて自分たちに泣きついてくる……彼らはそう思っているからこそ、これ以上の無理はせずに、こちらが根をあげるのを、のんびりと待ってくれているに違いないのである。


「あちらは、たいした抵抗もせずに、その場その場を取り繕いながら、ただ一日も長く会社を生き延びさせることに専念しているだけの僕たちをあざ笑っていることでしょうね?」

「さあ、どうだろう? 六条さんあたりは、僕たちがやろうとしていることに、とっくに気がついているんじゃないかな?」

「ええっ? ばれちゃっているんですか?」

「大丈夫だよ。 気がついたとしても、何もしやしないって」

 弘晃は、ふたりを安心させるように微笑みかけた。 

「本当に?」

「ああ。だって、考えてもみてごらん? 六条さんたちに何ができる?」


 六条は、何もできない。なぜなら、中村側は、今のところ六条の害になるようなことは、何一つしていないからだ。嫌がらせの数をひとつかふたつ増やすことができるかもしれないが、それでは、弘晃たちがしようとしていることを本当の意味で阻止することにはならない。


「僕たちがやろうとしていることを本気でやめさせたかったら、六条は中村を手に入れることを諦めるしかない?」

「そういうことになるね。とはいえ、今更諦めてもらっては、僕たちもかなり困ったことになるけど……」

 弘晃は苦笑した。 

「でも、僕たちが何をしようと、六条さんは気にしないんじゃないかな? かえって喜んでいるかもしれない」

「そうかもしれませんね。どうして、わざわざ、そんなことをするのか、彼には理由がわからないかもしれませんね」

「そうだねえ。いくら頑張ったところで、結局、僕たちには何の得にもならないしね」

 正弘も、そして弘幸も笑った。


 世の中には自分の役に立つ人間とそれ以外。役に立たない者は遠慮なく切り捨てる血も涙もない冷徹な経営者……


 六条源一郎という男が世間に噂されているままの人物であるならば、弘晃たちのやっていることは、彼の眼には意味のない行為にしか映らないに違いない。彼には、弘晃たちが、ただの馬鹿だとしか思えないことだろう。


(でも、紫乃さんなら……)

 彼は、ここ2ヶ月近く、極力思い出さないようにしようと心がけていた女性の顔を思い浮かべた。


 妹と弟想いで、自分の結婚を、彼らを守るための手段にしようとしていた彼女ならば、弘晃がしようとしていることに理解を示してくれたに違いない。


(僕が、もう少ししっかりしていればな……)

 弘晃は、幾ら嘆いたところでただの無いものねだりだとわかっていながら、とっくの昔に嘆くことをやめたはずのことを、今更ながら悔やんだ。


 そうであったなら、紫乃を諦めずにすんだはず。

 そうすれば、会社も今のような危機的状況には陥らなかったはず。

 そうすれば、社員たちに辛い思いをさせることもなかったはず……


 考え始めれば、芋ずる式に、後ろ向きな考えが次々に浮かんでくる。



(紫乃さんは、今頃どうしているんだろう?)

 人生に前向きな紫乃のことだ。今頃、弘晃のことなどすっかり忘れて、気持ちも新たに、ささやかな野望の実現に向けて、次の見合い相手を物色しているに違いない。


「せめて、僕よりも、まともな男だといいけれど……」

 声にならないほどの小さな声で、弘晃がつぶやいた。

「え? 兄さん、今、何か言いました?」

「うん? あと1ヵ月。無理さえしなければ、なんとかもつかな…って言ったんだよ」

 弘晃は微笑むと、再びソファーに寝転がって目を瞑った。


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 それから、およそ1か月。中村物産、および、その系列会社は、ギリギリの状態で営業を続けながら、六条グループを下手に刺激することもなく、また取引先に迷惑もかけることもなく、密かに、かつ速やかに店じまいの準備を進めてきた。


 一方、同じ時期の紫乃は、弘晃が想像したとおり、彼女の目的にかなう結婚相手との出会いを求めて、それなりに忙しくしていた。





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