23.ひとりぼっち
読みふけっていた小説の文字が判読しづらくなってきて初めて、紫乃は、ようやく自分がいる部屋の暗さに気がついた。
顔を上げると、日が落ちるまでにはだいぶ間があるにも関わらず、窓の外は真っ暗だった。ついさっきまでは晴れ渡っていた夏空は、今では黒い雲にみっしりと覆われ、雲の中からは、雷の先触れのような低い音が絶え間なく鳴り響いている。日よけのために3分の1ほど閉められていたカーテンを高く巻き上げながら、生温い風が、部屋の奥まで吹き込んできていた。
ひと雨来るようだ。そう、紫乃は思った。
窓と膝の上の本を見比べたあと、彼女は、未練がましく読みかけの本のページに目を落とした。今、読んでいるのは翻訳物の推理小説である。
舞台は劇場。探偵役を務めるのは、今回始めて主役の座を射止めた俳優。その彼が、公演を成功させるために、ハンサムと美女に対して偏見のある刑事を相棒に、共演者であり容疑者でもある美人女優たちを追い詰めていく……といった話。
今まで名前も知らなかったような作家だが、なかなか面白く、単純な紫乃などは、登場人物の誰もが怪しく思えてならない。
現在彼女が読んでいる章では、この俳優探偵が、何年も前に引退した大女優のもとを訪れていた。かつての美女は、彼に20年前のある出来事、すなわち、舞台の初日に端役の女優が降板させられた話を語って聞かせる。容色も足腰もすっかり衰えているにも関わらず、彼女の語りは臨場感に溢れ、まるで完成されたひとつの芝居を観せられているかのようであった……
……と、その続きが気になるので彼女は再び本に向かってみたものの、外から光の入ってこない部屋では、これ以上読み続けるのは、やはり無理だった。
紫乃は、本を膝の脇に置き、面倒くさそうに立ち上がると、まず部屋の電気をつけ、それから窓を閉めた。窓が閉まる直前、強く吹き込んできた風が、カーテンだけでなく窓辺に釣り下がったままになっていたある物をも大きく揺らして紫乃の注意を引いた。
「てるてる坊主……。そうだった。これも、片付けないとね」
作った時に比べると、元気をなくしてうな垂れているように見えるてるてる坊主を見つめながら、紫乃は、平坦な口調でつぶやいた。
これを吊るしたのは、弘晃と海に行った日の数日前だった。もう1年も2年も昔のことのような気がするのに、あれから、たった1ヶ月しか経っていない。彼と別れたあの日から、1日が過ぎるのが、とても遅くなった気がする。
(でも、もう1ヶ月も経ってしまったのね)
紫乃は、窓に背を向けると、樹の風合いが美しい家具と、落ち着いた色合いのファブリックでまとめられた自分の部屋を、ぼんやりと眺めた。
窓辺のたんすの上に載せられている小さな白熊のぬいぐるみは、動物園に行ったときに弘晃が買ってくれたものだった。ぬいぐるみなど紫乃の柄ではないが、こちらを見上げるような仕草が愛らしくて、つい手に取ってしまったのだ。この部屋の中で、彼との思い出を示すようなものといえば、彼女の頭上にぶら下がっているてるてる坊主と、そのぬいぐるみぐらいである。
それでも、本とレコードは、彼と付き合っているわずか半年ばかりの間に、かなり増えた。もっとも、これらの本やレコードにしても、弘晃の趣味に合わせて増やした訳ではない、と思う。ただ、紫乃との会話の中で弘晃が、『そういうのがお好きなら……こういうのも好きなのでは?』といった具合に、さりげなく彼女に勧めてくれたものばかりだというだけのことである。
今読んでいる本にしても、そう。 推理小説自体はそれほど好きではないのだが、この話の雰囲気や舞台設定と作家の語り口が、紫乃の好みに一致していた。
新しく購入した画集にしても、紫乃が好きな画家と同じグループに属していたけれども夭折してしまったほとんど無名に近い画家のものだったし、クラシックのレコードにしても、彼女と同じようにその作曲家が好きだった別の作曲家が彼に捧げたオマージュとされる作品である。
だから、増えた物は、どれも紫乃の好みの延長線上にあるものばかり。捨てたくても捨てられない。 捨てたところで、それは弘晃との思い出ではなく紫乃の一部を捨てるだけにしかならない気がする。でも、それらの物を見るたびに、弘晃との会話を思い出す。どこかで、まだ弘晃と繋がっている……そんな感覚に陥る。
弘晃は、いつでも当たり前のように彼女の話になんなくついてきて、楽しそうに彼女の話にうなずきながら聞いてくれていた。そういえば、見合いのときに父親と話していた時も、妹たちと話していた時も、彼は聞き役に回っていることのほうが多かった。聞き役だったといっても彼が無口だったという印象はない。 こちらが話していることに対しては、きちんと反応してくれて、言葉を返してく時には、むしろ饒舌だと思うほどだった。そういう話し方をする人だった。ひょっとしたら、自分のことを話すのは、得手ではなかったのかもしれない。
ひょっとしたら、紫乃にも誤解があったのかもしれない。もっとふたりで話し合えば、あるいは弘晃の話をきちんと聞いていれば、別れずには済んだかもしれない。
もう1度だけでもいいから会いたい。 会って話しをしたい。
時々、無性にそう思う。
(おかしな人だった)
(世間知らずなのに物知りで、人当たりがいいのにとらえどころがなくて……)
「でも。 もう忘れなくちゃね」
紫乃は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。いまさら、彼とやり直すことなんてできない。そうするには、彼女のプライドは高すぎた。彼女は背伸びをすると、カーテンレールに結び付けてあった紐を解いて、てるてる坊主をおろしてやった。
それから、白いハンカチに目を描いただけのそれに小さな声で「ごめんね」と謝ると、近くにあったゴミ箱に放り込む。捨ててしまうのは、なんだか可哀想な気がしたけれど、今の紫乃には晴れを願う理由がない。
紫乃はソファーに戻ると、読書に戻った。
やがて降り出した雨は、降り始めから土砂降りだった。
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この頃の紫乃は、自分の気持ちを立て直すことで精一杯で、まさか自分のせいで中村グループが大変なことになっているなど考えもしなかった。
だが、同じ頃。もう少し具体的に言えば、この日より一週間前で、六条グループが中村グループに対して 『ぶっ潰してやる!』と宣言してから3週間と3日後。中村グループは、相変わらずトラブルに見舞われ続けていた。
例えば、中村物産という中村グループの中核をなす商社では、数日前から、彼らの会社が輸入した鉱石が港で船から陸揚げされずに何日もそのままになっており、一部の社員は、連日その対応に追われていた。
商社というのは、主に輸出入に関わる商取引において、それらを円滑に進めるために必要な業務全般に携わっている。もっと簡単に言ってしまえば、何かを買ってきて売る。そういう仕事をしている会社である。
彼らは、輸入したその鉱石を国内にある系列の工場に運び、そこで鉱石を精錬してある金属を取り出し、それを商品として日本各地の工場に卸している。中村グループのこの金属の国内シェアは、およそ30パーセントで、すぐにでも荷を受け渡してもらわないと、来月早々には、商品の在庫が底をつく予定である。
彼らが金属を卸している工場は、日本全国に数え切れないほどある。その中には、こちらの納入が遅れれば、千人以上の人間が一斉にやることがなくなってしまうような大規模な自動車の生産工場もあれば、明日倒産してもおかしくないような小さな町工場もある。『売るものがないので、我慢して待っていてください』では済まされない。こちらの納入が遅れれば、多くの会社やそこで働く大勢の人々に多大な迷惑がかかる。それと同時に、こちらは信用を失って、大事な取引先を失うことになる。
もともと、この鉱石を載せた船は、この港にたどり着いた時には、既に2週間近く到着が遅れていた。
遅れた原因は、日本まであと少しというところにあるアジアのある国の港で、この船が書類の行き違いを理由に足止めをくったせいであった。
その国に赴任している中村物産の社員によれば、この書類の行き違いからして胡散臭い話で、誰かが現地の役人に手を回して強引に出港を遅らせているようだということだった。船が出港できなくなったのは、六条の『ぶっ潰してやる』宣言の翌日であったから、誰が裏から手を回したかについては詮索するまでもないだろう。
その船は、その国に駐在している社員たちの尽力により、なんとか日本に向けて出発することができたものの、日本の港に船が着いたと思ったら、今度は海から陸に荷を移すところでもたついている。船からの荷降ろしを請け負ってくれるはずだった業者が、なんのかんのと言い訳をして、作業を遅延しつづけているのが荷が滞っている原因であった。
このふたりの中村の社員が、この日この建物を訪れたのは、その対応のためであった。この建物の2階から上が、その荷降ろしの作業をサボっている業者の事務所になっている。彼らは、毎日、この事務所を訪れては、ひたすら社長に頭を下げ続けていた。
とにかく早急に荷を渡してもらいたい。そのための作業をしてほしい。日を追うごとに彼らの頭の下げ方は低くなり、今日に至っては、埃っぽい床に今にも鼻がくっつきそうなほどであった。
「そりゃあ、中村物産さんには、日ごろからお世話になっていますしね……なんとかしたいのは山々なんだよ」
ブルーグレイの作業服を身につけたこの会社の社長は、表紙に大きく『作業日程』と書かれたファイルを意味もなく開けたり閉めたりしながら、困りきった顔で土下座を続けるふたりを見下ろした。
「でしたら……」
「でもね。六条コーポレーションさんに睨まれたら、うちみたいな小さな会社はひとたまりもないんだよ。理不尽なことでも言うことを聞いておかないと潰されちまう。 それとも、潰されないように中村さんのほうが何とかしてくれるとでも言うのかい?」
はじかれたように顔を上げたふたりの社員は、覆いかぶさるように社長にたずねられて、しおれたように再び頭を下げた。
六条グループに対抗できる力など、今の中村グループには残されていない。
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それから一週間。
鉱石は依然として、船の中に留まったままである。
これ以上頭を低くすれば、小汚い床にキスしなくてはいけない。それがイヤだったからではないだろうが、その日から、六条グループに圧力をかけられているがゆえに中村の荷を船から降ろす作業を拒み続けている業者の社長に対して、ひたすら頭を下げ続けるばかりだった中村の社員たちの態度が一変した。
「もう、いいんですよ。どうでも」
中村の社員たちは、頭を下げる代わりに、投げやりな口調でこの会社の社長に向かって愚痴を言い始めた。
「俺たちが毎日毎日煮え湯を飲まされるような気持ちで、あなたに頭を下げ続けて頑張ってきたっていうのに、彼らは、『もう、どうでもいい』って言うんです」
「え? 誰が?」
「だから、うちの会社の経営者たちが、です」
ふたりが言うには、創業者一族を中心とする中村グループの経営者たちは、中村グループを我が物としようとする六条グループに対して、抵抗する気力を全く失ってしまったとのこと。
船の中の鉱石が実際の利益になるころには、中村物産も含めた中村グループは、とっくの昔に六条のものになってしまっていることだろう。ということは、船の中の鉱石も、結局は全て六条のものということになる。この荷が船から降ろせないことで大損害がでようが、取引先を失うことになろうが、最終的に損をするのは六条である。
「だから、やりたいだけやらせておけばいい……って」
「これが、トップの言葉だなんて信じられますか? おかげで、俺たち、すっかり、やる気がなくなってしまって……」
「潰れるのは仕方がないかもしれませんよ。でもね、潰れるなら潰れるで、きちんと……というか、かっこよい最期を迎えたいじゃないですか。それなのに、無様というかなんというか……もう、やってられませんよっ!!」
「経営陣があんな調子だから、うちの会社は潰れちゃうんですよ!」
「特に創業者の一族! プライドばっかり高くで、馬鹿ばっかりで……」
「社長は、社長という名の動く張りぼてで、全くの能無しだし」
「本来跡継ぎの長男は、めったに会社にこない怠け者だし」
「いっそ、潰れてしまったほうが世の中のためですよ」
社員たちは、堰を切ったように溜まりに溜まった不満を目の前の男にぶつけた。
「君たちも大変だねえ……」
うっかり社長が相槌を打つと、ふたりは、「そうなんですよ。わかってくれます?」と、嬉しそうに身を乗り出した。
その日から毎日。彼らは朝早くからやってきて、頭を下げる代わりに自分たちの会社の愚痴を、この男に聞かせ続けた。社長としては、用事がない以上ふたりに来てほしくなどないのだが、彼らとしては、表向きだけはいまだに真面目に仕事を続けているフリをしなければいけないようで、彼の事務所以外に行く場所がないらしい。 愚痴を聞くのに飽き飽きした社長がどこに逃げても、このふたりは、彼にしつこく付きまとって離れない。
「困ったことになったなあ……」
逃げ場所を探すように、社長は窓の外に目を移した。
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同じ頃。
弘晃と彼の弟の正弘は、大口の取引先である電気機器メーカーの本社から出てきたところだった。
「また、夕立かなあ。最近、多いよね?」
正弘が少し遅れて歩いていた弘晃を振り返ると、兄は立ち止まったまま、空でも正弘でもなく、全然別の方向に視線を向けていた。
弘晃の視線の先には、OL風の女性がふたり。 彼女たちは、今にも振り出しそうな空模様を気にしながら通りの向こうを駆けていくところだった。
「兄さん?」
「あ、ごめん。ぼうっとしていた。行こうか?」
正弘が声をかけると、弘晃は夢から覚めたかのように頭を振り何度か瞬きしたあと、正弘と並んで歩き始めた。 坂口が運転する黒い社用車にふたりが乗り込むのとほとんど同時に、雨になった。
「例の鉱石ですが、陸揚げのための話し合いは、もうしばらく時間がかかりそうだということです」
車で待機している間に本社に連絡を入れたのだろう、坂口が報告した。
「応援は? 寄こしてほしいって?」
「いえ、それは必要ないということですが」
坂口の報告に応じていたのは、もっぱら正弘である。弘晃は、声のするほうに顔と視線だけを向けている。
「大丈夫、なのかな?」
正弘が気が気でないといった様子で、弘晃にたずねるような視線を向けた。
「彼らに任せておけばいいよ」
弘晃が静かに応じる。
「でも……」
「大丈夫だよ」
弘晃は、弟を安心させるようにうなずいて見せた。
「そうだね。 彼らに任せるしかないね」
正弘は肩の力を抜くと、兄を見習ってシートに深く身を沈めた。だが、すぐに何かを思い出したかのように跳ね起きた。
「ところで、兄さん? さっきのOLさんだけど……」
だが、弘晃からは何の反応もなかった。眠っている。
「最近、ろくに休んでないからな。せっかくだから、遠回りして、ゆっくり眠らせてあげよう」
「青山通りが、いま大渋滞しているようですね」
正弘に指示されるまでもなく、坂口が、ラジオで確認しながら、わざわざ混雑している道路を目指してハンドルを回した。
無事に渋滞に巻き込まれたところで坂口が正弘を振り返った。
「ところで、さっきのOLさんっていうのは?」
「ああ、さっきね。遠目だったから顔まではよくわからないけど、紫乃さんに背格好が良く似た女の人がいたんだよ」
正弘が答えた。
「兄さん。紫乃さんのこと、まだ思い切れていないんだね」
「とてもお似合いのふたりだと思ったんですけどね……」
ハンドルに寄りかかりながら、つくづく残念だというように、坂口が大きなため息をついた。




