20.終わりにしましょう
「どちらまで?」
「ええと……」
中村家に行くためにタクシーに乗り込んだ途端に運転手に問われて、紫乃は言葉に詰まった。弘晃が住んでいるのは東京タワーの見える場所。知っていることといったらそれだけだ。
「すみません。ちょっと待っていてください」
紫乃は、いったんタクシーから降りると、飛び出してきたばかりの建物に引き返した。
「すみません。中村さまのお宅って……」
「タクシーで行かれるのですか? それでしたら、まず麻布に向かっていただいて……」
恥ずかしさで下を向いたまま顔を真っ赤にしてたずねる紫乃に、受付嬢が慣れた様子で説明してくれた。
「清凰女子学院の近くといえば、大概の運転手さんはお分かりになると思いますよ」
「清凰?」
紫乃は、驚いて顔を上げた。
「ええ。 そこから先はわかりづらいので、ただいま地図をお描きしますね」
受付嬢が小さなメモ用紙に描いてくれた地図を手に、紫乃はタクシーに戻った。
「場所、わかりましたか?」
「ええ。聞いてみたら、良く知っている場所でした」
紫乃は短く答え、運転手に行き先を告げた。滑らかな動きで走り出した車が、皇居前の道路を走る車の流れに滑り込む。
「麻布の清凰……っていえば、いいところのお嬢さんが沢山通っているところですよね?」
運転手が、気安い口調で紫乃に話しかけてきた。
「ひょっとして、お嬢さんも、そこの学生さんだったりして?」
「ええ。中学生から、そこです」
「やっぱりなあ。お嬢さん、見るからに庶民にはない気品がありますもの。それで? 今は、大学生?」
「ええ。ですから、今は麻布ではなく、三田のほうに通っています」
道が比較的すいていたので、タクシーはあっという間に今でも妹たちが通っている紫乃の母校の前にたどり着いた。紫乃の指図で、タクシーは、蔦が絡まる赤いレンガ造りの塀沿いから緑の多い住宅街に入っていく。この辺りの道は、受付嬢が話していた通り入り組んでいる。しかも、外はだいぶ暗くなっているために視界が悪くなっていた。だが、紫乃にとっては馴染みのある町である。彼女は、もらったメモを確認する必要を全く感じていなかった。
タクシーを降り、中村家の門の前に立った紫乃は顔を上に向けた。ガレージと一体になった背の高い白いコンクリート作りの塀に囲われているため、外から家の中をうかがい知るのは難しい。それでも、背伸びをしながら数歩後ろに下がると、中村家の背後に学校の時計台の屋根らしきものが見えた。なんのことはない、校門からは離れているものの、中村家は、学校と背中合わせになる場所に建っているのだ。
(メモなんか、いらなかったのに……)
(言ってくれればよかったのに。話題にする機会なら幾らでもあったはずなのに……)
紫乃は、手の中のメモを握りつぶした。
弘晃は、このことを隠していたのだろうか?
それとも、ただ、話しそびれていただけなのだろうか?
次々と沸いてくる不安と疑問に心を締め付けられるような苦しさを感じながら、紫乃は、中村家の呼び鈴を押した。
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「まあまあまあ…… 紫乃さん! いらっしゃい!」
弘晃の母親である静江は、満面の笑みで紫乃を迎え入れてくれた。
「すみません。突然で……」
「いいのよ。紫乃さんなら大歓迎。海は楽しかった? 今日は天気が良くて本当によかったこと」
紫乃の様子がおかしいことなど気にも留めずに、静江は、楽しそうに話しながら彼女を家の奥へと導いていった。
「ええと、まずお茶を……。そうだ。クッキーがあったわね?」
静江が家政婦らしき女性に声をかけると、体格のいい優しげな風貌をした女性が大きくうなずいた。この家政婦も、紫乃を歓待しようという意欲に満ち溢れているようだった。
「どうぞ、お構いなく。それより、弘晃さんは、ご在宅でしょうか?」
紫乃は、遠慮することを示すように家政婦に小さく手を振りながら、ようやく用件を切り出すことができた。
「ひろあき?」
静江が、とっさに家政婦を見た。家政婦が、小さく首を振るのを紫乃は見逃さなかった。
「弘晃ならば、まだ会社ではないかしら?」
「では、待たせていただいても、よろしいですか」
紫乃は引き下がらなかった。
「でも、いつ帰ってくるかわからなくてよ。 また別の日に改めて会うのはどうかしら? 弘晃に連絡させますわ」
「イヤです」
紫乃は、駄々っ子のように首を振った。
「弘晃さんは、会社にはいらっしゃいませんでした」
「あ、あら、そうなの? じゃあ、取引先でも回っているのかしらね」
静江が、助けを求めるように家政婦を見た。家政婦は、「お忙しい方ですから……」と言ったが、こちらも声が上ずっている。
「嘘です」
紫乃は言った。
「弘晃さんは、会社にはめったにおみえにならないって言っていました。相談役は、いつも自宅にいるって……」
紫乃の言葉に、静江と家政婦が驚いたように目を見開いた。
「紫乃さん、あなた、会社に行ったの?」
紫乃はうなずいた。
「どうして、おかあさままで、わたくしに嘘をつくんですか? 弘晃さん、ここに、いらっしゃるのでしょう?弘晃さんに会わせてください。どうしても、お聞きしたいことがあるんです」
紫乃は潤んだ眼を静江に向けて訴えた。
「それは……あの……」
静江と家政婦は顔を見合わせた。そのまま、ふたりの視線が部屋の奥へ流れる。
「あちらにいるんですね?」
紫乃は、そちらの方向へ駆け出した。紫乃の家にはかなわないが、中村家も、かなり奥行きのある広い家だった。
「弘晃さん。どこにいるんですか! 出てきてください!」
弘晃を呼びながら、紫乃は、家の奥へ入っていった。無礼を承知で閉まっている扉を片端から開けて中を確認する。
「し、紫乃さん。どうかおよしになって、いま、説明しますから……」
おろおろしながら静江が紫乃を止めようとするが、紫乃は、もう聞いていなかった。紫乃は、静江を振り払うような仕草をすると、さらに廊下を進む。最も奥まったところにある部屋の扉は全て閉まっていた。なにも考えずに、彼女は、最初に目についた真ん中の扉を、力一杯に開いた。
そこに弘晃がいた。
弘晃は、驚いたような顔で突然入ってきた紫乃を見ていた。弘晃と向かい合うように、銀縁眼鏡をかけた、少し冷たい感じがする若い男が立っている。男の指は、ほとんどはだけている弘晃のシャツのボタンに掛かっていた。そして、ふたりの後ろには、寝乱れたベッド……
「な……」
しばらくの間、凍りついたように弘晃たちを見つめたあと、紫乃の口から、小さな声が漏れた。
紫乃の乱入に驚いたように固まっていたふたりは、その声で我に返ったのか、顔を見合すなり、慌ててお互いから飛びのいた。
「あ、あのですね。紫乃さん。これは……」
「誤解ですよ! あの……」
紫乃は、言い訳を始めたふたりに背を向けると、入ってきたとき以上の勢いで部屋から逃げ出した。
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玄関先で靴を履くのにもたついたせいで、家を出たところで、紫乃は弘晃に追いつかれた。
弘晃は裸足だった。
「紫乃さん、待ってください! ちゃんと説明しますから、どうか僕の話を聞いてください」
弘晃が息を切らしながら訴えた。
紫乃は、立ち止まると、疑いを込めた眼差しで弘晃を見返した。
「今のは誤解です。 彼は……」
「聞きたくありません」
紫乃は、きっぱりと言った。
「男の人には興味はないとおっしゃってましたものね。だから、たぶん、あなたのおっしゃる通り、わたくしの誤解なのでしょう。でも、どうして隠していたの?」
紫乃のその一言で、彼には、何の話か通じたようだった。
「それは……。ですから、それも説明させてください」
「でも、どうせ、また、いい加減なところで誤魔化すのでしょう? ご自分の話したいことだけ話して、知られたくないところは有耶無耶にするおつもりなのでしょう?」
「そんなことは……」
口ごもる弘晃に、紫乃は矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「いつもお家にいらっしゃるって、どういうこと? 仕事が忙しいって言っていたのは、嘘? 学校の近くに住んでいたこと、どうして言ってくださらなかったの? あの、おかしなお婆さんは何者なんですか? 次から次に、わたくしの知らないことばかり……。どうして、こんなに、わたくしは、あなたのことを何にも知らないの? どうして話してくれないの? わたくしに、話す必要がないからですか? わたくしは、あなたにとっては……」
その程度の人間ですか?
紫乃は、その言葉を呑み込んだ。わざわざ、たずねるまでもない。自分は所詮、弘晃にとっては、その程度の存在にすぎなかったのだ。
紫乃の頭の中に、鎌倉への行きがけに出会った後輩の顔が浮かんだ。弘晃が、機嫌を損ねない程度に適当にあしらっていた少女たち。弘晃にとっては、自分もあの娘たちも、大した違いがあるわけではなかったのだ。
(私は、あなたの何?)
涙が紫乃の頬をつたい落ちた。
「紫乃さん」
弘晃が言った。
「ちゃんとお話します。この間から、きちんと話さないと……って、そればかり考えて……」
でも、もう、言い訳にしか聞こえなかった。
「後からなら、なんだって言えるわ」
紫乃は小さく笑った。紫乃は、どうして自分がこんなに悲しいのかわからなかった。隠し事なら自分だってしているはずなのに、この人が、何も話してくれないことが、悲しくて悔しくてしかたがない。
「もう、終わりにしましょう」
紫乃は言った。
「紫乃さん?」
「わたくし、きっと、この先、なにを聞かされても、あなたを疑ってしまいそうな気がします。あなたのことを、二度と信じられないような気がする。こんな思いをしながら、この先、あなたと生きていくなんて耐えられない」
弘晃は、長い間、なにも言わずに紫乃のことを見つめていた。
沈黙にいたたまれなくなって、紫乃は、必要のないことまで口走り始めた。
「だって、あなた、最初に言ったでしょう? 秘密がわかったとき、それに耐えられないと思ったら、破談にしてもいいって。だから、これは当然の権利で、それで……」
「確かに、そういう取り決めでしたね。
やがて、弘晃が静かに言った。
「そうですね。そうしたほうがいい。そのほうが…きっと貴女のためでもあるでしょう」
「弘晃さん?」
「迷惑をかけたあげく、いやな思いまでさせてしまって、本当に申し訳ありませんでした。これまで、付き合ってくれて、本当にありがとうございました」
弘晃は、紫乃に頭を下げると、「これから先は会うこともないでしょうが。どうか幸せになってください」 そう言い残して、家のなかに戻っていった。
夕闇の中、紫乃だけが残された。
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あまりにあっけない終わりに、しばらくの間呆然としていた紫乃だったが、いつまでもこんなところに一人で突っ立っていないで、とにかく家に帰ったほうがいいことを思いついた。
その後、どこをどうやって帰ったのか、よく覚えていない。気がついたら、彼女は自分の部屋のベッドの上に座っていた。
誰かが、彼女の部屋の扉を必死で叩いている。
「紫乃!! いったいどうしたんだい? 弘晃くんとのことを破談にするって言っていたけど、どういうことだ? いい子だから、なにがあったのか、お父さんに話してごらん!!」
「お父さま。今日は早いのね……」
紫乃はつぶやくと、横向きにベッドに倒れこんだ。
「破談のこと、私、いつお父さまに話したのかしら?」
そんな記憶は、全然頭に残っていなかった。でも、父が叫んでいる内容からして、自分が、父ではないかもしれないが誰かに話したのだろう。
「まあ、いいわよね。いずれにせよ破談だし、もう、これで終わりなんだし…… あの人には、二度と会わないのだし……」
言っているそばから涙が絶え間なく目じりを伝って、枕を濡らす。
「『これまで、ありがとうございました』なんて……あっさりしすぎ……」
紫乃はつぶやいた。
弘晃の顔が紫乃の頭に浮かんだ。
「いくらなんでも、ちょっと薄情すぎやしないこと? 」
紫乃がつぶやくと、頭の中に浮かんだ弘晃が困ったような顔をする。これまで堪えていた感情が、涙と一緒にあふれ出してきた。紫乃は、手を伸ばしてクッションを引き寄せるとを顔に押し付けた。
「引き止めてもくれない……なんて……」
枕を顔に押し付けたまま、紫乃は、一晩中泣き明かした。




