2.六条家の妻たち
この屋敷は、建物の北側と南側、そして中央の3つに、かなり厳密に分かれている。建物は3階建てだが、中央の棟には、それに加えて屋根裏部屋があった。
紫乃と母親にあてがわれた部屋は、屋敷の北の翼の1階にある。紫乃が北の翼専用の階段の前を突っ切って自分の部屋に入ろうとすると、誰かが上から彼女に呼びかけた。
「ごきげんよう。紫乃さま」
「まあ、橘乃ちゃんのお母さま」
声の方向を振り仰いだ紫乃は、階段の途中に立つ女に笑みを見せた。毅然とした美しさをもつ紫乃の母は常に和装だが、異母妹の橘乃の母はビスクドールが身に付けているようなレースやフリルがふんだんについた洋服を好んで身に付けている。他の人間が着れば可愛らしすぎて見ているほうが恥ずかしくなるような服装だが、作り物めいているほど非常に整った顔立ちをしている橘乃の母が身にまとうと違和感がないから不思議である。
「なんですか、お父さまから、好いお話があったのですって?」
橘乃の母が、やけに親しげな口調で彼女にたずねた。
「まあ、もう、お耳に入りましたの?」
どこから聞きつけたのやら。紫乃は、毎度のことながら感度の良い橘乃の母親のアンテナに驚いていた。
紫乃の母と、橘乃の母と、それから、あと4人。六条源一郎には、6人の妻がいる。日陰の身…と言うには全員自己主張が強すぎると紫乃は思うものの、そのうちのいずれも、彼の本妻ではない。
この屋敷の北側には、1階に住む紫乃と母以外にも、次女の明子母子と三女の橘乃母子がいて、それぞれ、2階と3階に暮らしており、南側にも3人の妻とその娘が暮らしている。そして、それぞれの妻には、申し合わせたかのように娘がひとりずついた。
源一郎の本妻は、ずっと昔に男の子をひとり産んで亡くなっていた。6人の妻が父からの寵を争い、 お互いに角突合せ張り合いながら日々を暮らしている現状を考えると、早めに亡くなったのは彼女にとって幸福だったかもしれない。いや、本妻が早くに亡くなってしまったから、現在のややこしい状況が生まれたのだ。
源一郎の妻たちは、いずれもたいそう美しく、彼女たちの容色に優劣をつけるのは、桜と百合とではどちらが美しいかを議論するかの如くであった。しかも、どの女も粗略に扱うわけにはいかないような大きな家の出である。なぜかといえば、戦後の混乱を乗り越え切れずに、つぶれかけた彼女たちの家の事業の建て直しに、天才的な経営者である源一郎が手を貸したのが、女たちが彼と知り合ったキッカケになっているからだという。
成り上がりの源一郎は病的ともいえるほど惚れっぽい性格であるうえ、コンプレックスといえるほど『名家』とか『家柄』というものへの憧れが強かった。そのため、苦境に立たされた家の姫君に出会うたびに、彼は恋に落ちた。女たちは女たちで、相手に家庭があることを知っていても源一郎を想うことをやめられなかったようだ。
『本妻は彼が貧乏をしていたときから連れ添った糟糠の妻。成功者になったとたんに放り出すような仕打ちはしたくない。でも、愛しているのはお前だけだ』と、目の前の美しい男が真剣な眼差しで誓ってくれた。だから、気位が高く世間知らずな彼女たちは、恋に恋するようにして甘んじて源一郎の愛人となり、子供ももうけた。
そんなわけだったから、本妻が亡くなったとき、彼女たちは当然、つぎに源一郎と結婚するのは自分だと信じて疑わなかったようだ。だが、源一郎は、なかなか結婚を承知してくれない。しびれを切らした彼女たちは、押しかけ女房になるべく本妻の一周忌に源一郎の家に向かった。そこで、彼女たちは、初めて、自分以外に源一郎が愛している女たちがいることを知った。しかも、どの女にも彼との間にもうけた娘が一人……
その日から、ひとつの家の中にひとりの男を恋い慕う女が6人という、この異常な泥沼状態が続いている。
どの女も、自分のプライドに賭けて、自分が一番源一郎を愛しているといって譲らない。どの女も、源一郎に一番愛されたいと思っている。だから、誰一人、それまで暮らしていた自分たちの実家に帰ろうとしない。お互いを監視しあいけん制しながら、もう何年も、同じ屋根の下に暮らしている。だから、例えば、紫乃に見合いの話などが持ち上がったりすると、こうやって必ず誰かが探りにくることになっているのだ。
紫乃は、橘乃の母親に問われるがまま、彼女が聞きたいと思っていることに、正直に答えてやった。別に隠すほどのことではない。どうせ、明日には屋敷中に知れ渡る。
「まあ、なんて素晴らしいご縁談なんでしょう。うらやましいですわ。旦那さまも、わたくしの橘乃に、そういった良い縁談を持ってきてくださればよろしいのですけれど…」
橘乃の母親が、鼻にかかった声でうらやましそうに言った。
「橘乃ちゃんは、明るくてよい子ですもの。お父さまは、きっと良い縁談を見つけてくれますわ」
紫乃は、努めて笑顔で答えると、そそくさと自室に戻り、事の次第を母親に報告した。
「お父様に、お礼を言わなくてはいけないわね」
見合いについて紫乃から詳しい話を聞き終えた母は、いそいそと鏡に向かい身支度を整えなおすと部屋を出て行った。紫乃は、そんな母を冷めた目で見送ると、深いため息をついた。母の実家で暮らしていたころの彼女は、父の訪れが間遠になっても、父の愛情を疑うようなそぶりさえ紫乃にはみせたことがなかったのに、今の母は他の妻に先んじて父の愛情をより多く勝ち取ることに躍起になっているように見える。
「今晩は、きっと戻ってこないわね」
ならば今のうちに妹たちに見合いのことを話しておこうと、紫乃は娘たちが集う部屋に向かった。だが、またしても見合い写真を忘れていることに気が付いて自室に取りに戻った。自分は興味がなくても、妹たちは、紫乃の見合い相手がどんな顔をしているか、きっと知りたいと思うに違いない。