19.謎の老婆
「何年ぶりであろう。元気そうでなによりじゃ。こうしてそなたに会えたのも、《天のいちなるもの》さまが、我が願いを聞き届けてくださったがゆえ。なんと、ありがたいことじゃろう」
弘晃に親しげに話しかけた老婆は、組んだ両手を天に突き上げると、感極まった様子で甲高い叫び声を上げた。何を言っているのかわからないが、どうやら、老婆が信じる神様だか仏様だかに感謝を捧げているようである。
だが、紫乃には、老婆が狂っているようにしか見えなかった。驚いた紫乃が思わず身を引くと、弘晃が彼女を背中に庇うように前に出た。
「私が元気なのは、絶対にあなたのおかげではありません。ありがたいことに」
老婆の大げさなパフォーマンスが終るのを待って、弘晃が冷めた口調で告げる。大きな声こそ出さないが、彼の声には拭いきれないほどの老婆への嫌悪感と怒りがこもっているように紫乃には思えた。
(このお婆さん、いったい誰なのだろう?)
弘晃の背中越しに老婆の狂態を眺めながら紫乃は思った。
「変わらぬなあ、そなた。昔から、何があっても口だけは達者な奴じゃった」
老婆は、弘晃の敵意には気がついているであろうに、楽しそうな笑い声を上げた。
「だが、わしは変わらずに、そなたやそなたの家の安泰を、《天のいちなるもの》さまに願い続けておったぞよ」
「あなたも変わりませんね。恩着せがましいところは相変わらずです。あなたに祈っていただかなくても、うちは大丈夫です。もっとも、呪いであろうと祝福であろうと、あなたの願いが天に届くとは思えませんが」
「そなた。このわしを愚弄するか?」
弘晃の蔑んだような物言いが癇に障ったのだろう。老婆の態度が豹変する。
「このわしに、さような口をきいて許されると思うてか! そのようなことをすれば、わしは祈祷をやめるぞ! わしが祈るのをやめ、そなたたちを見捨てれば、そなたたちを待つのは破滅だけじゃ! 天は、そなたとそなたたちの家に災いを降らせよう! そうなってからでは遅いぞ! きっと後悔するぞ!」
老婆が、ふたりを威嚇するように肩を怒らせ、目をむきながら手足を振り回して喚きたてる。庇われて人の後ろに隠れているのは、そもそも紫乃の性分ではない。老婆の不届きな振る舞いに、とうとう紫乃の堪忍袋の緒が切れた。
「失礼な方ね。あなた、いったい何を言って……」
「紫乃さん。いいんです」
前に出かけた紫乃を弘晃の腕が遮った。
「でも……」
紫乃は、自分の邪魔をする弘晃の腕に手を添えながら、非難するように彼を見た。この老婆の振る舞いは失礼だし常軌を逸している。なんだって、弘晃は、この老婆に言いたい放題に言わせておくだろう?
「いいんです。この人には、何の力もありません。今の彼女は、負け惜しみを言うのが精一杯の哀れな老人に過ぎません」
弘晃は、静かに紫乃に言った。
「なにを……」
尚も、弘晃に食って掛かろうとする老婆に、弘晃は冷たい声で、「そこまでです」と告げた。
「もう行かれたほうがいい。 そうでないと、あなたのほうが後悔することになりますよ。 こんなことを続けていると、いつか身を滅ぼすと、最後にあなたとお会いしたときに、私は忠告したはずですが?」
弘晃の口調は、いつものように穏やかだったが、それを聞いた紫乃は、なぜだか背筋が寒くなった。老婆も同じだったようだ。彼女は、途端に落ち着きをなくしたように「ああ、そんなことも言っていたな」と言いながら、さりげなく弘晃から後ずさりを始めた。
「わしを侮るな……いつか後悔するぞ……」
ブツブツとつぶやきながら何度も弘晃たちを振り向いては、 老婆は次第に彼らから遠ざかっていく。 そして、弘晃たちから充分に離れたところで、老婆はこちらを振り向き、両手と両足を広げて精一杯自分を大きくみせながら叫んだ。
「後悔するぞ! お前には守りきれぬ! 呪われた家の死にぞこないめ!」
老婆は、そう喚くと、白装束の仲間たちのところへ駆け戻っていった。
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「すみませんでしたね」
紫乃を振り返った弘晃は、いつもと同じ。穏やかな笑みがよく似合う、紫乃の見慣れた弘晃だった。
「そういえば、お腹がすきましたね。なにか食べにいきましょう。江ノ島に出たほうがいいのかな? それとも鎌倉駅の近くまで戻りますか? そういえば、橘乃さんのお友達のオススメは小町通りのクレープ屋さんでしたね」
弘晃は、何事もなかったかのように紫乃の先に立って歩き始めた。
「そんなことよりも、今のお婆さんは何者なんですか?」
「なんでもありませんよ」
弘晃が紫乃に微笑んだ。
「本当に?」
「嘘じゃありません。『こうすれば、お前の会社はもっと儲かるようになる』とか、『○○が憑いているから、お払いしてやる』とか言って会社を訪ねてくる人って、実は、それほど珍しくないんですよ。あの人はそういう類の人で、特にしつこかったのですよ。でも、もう昔のことです」
弘晃は、本当に何でもないことのように、よどみない口調で紫乃に説明した。
「そうだったんですか……」
紫乃は、弘晃の説明に一度はうなずいた。だが、『もう昔の何でもないこと』と語る弘晃の表情の明るさと、先刻老婆に向けていた彼の暗い眼差し、そのふたつの表情のギャップが大きすぎて、言葉に言い表せないモヤモヤとした何かが、いつまでも紫乃の心の中にわだかまっていた。
弘晃に家まで送ってもらった後も、そのモヤモヤした気分は続いていた。何事も白黒をハッキリさせねば気がすまない紫乃の性格からして、こんな状態にいつまでも耐えていられるわけがない。「もう一度、弘晃さんに直接会って聞いてみよう」と、一度は我慢することに決めたものの、それから数時間も経たないうちに、紫乃は別の決心をした。
表はだいぶ暗くなっていたが、まだ遅いというほどの時間ではない。弘晃は、紫乃と別れるときに、片付けなければいけない書類が山積みなので、このまま仕事に戻ると言っていた。だから、現在の彼は会社、つまり、中村物産の本社にいるに違いない。
「お伺いしたいって、電話したほうがいいかしら?」
だが、電話をすれば電話口で弘晃に上手に言いくるめられてしまいそうな気がする。それならば、連絡を入れずに直接会社に押しかけて捕まえてしまったほうがいい。
「予め連絡することないわよね。あの人だって、そうだったのだから」
予約なしでは弘晃に会えぬと受け付けで咎められたら、その時は、その時……別の手を考えよう。
紫乃は手早く身支度を整えると、出かけていった。
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中村物産の本社ビルは、大手町にある。
さすがに歴史のある会社だけのことはあって、正面玄関ロビーの奥で待機する受付嬢3人は大変よく訓練されており、突然の来訪者……しかも若い娘である紫乃に対して邪険な態度をとったりするようなことはなかった。
紫乃との見合いのことが受付嬢にまで伝わっているとは思えなかったので、彼女は自分が六条家のもので、ここの経営者一族である中村家と家族ぐるみで付き合いがある……というようなことを話し、社長の息子に、短い時間でいいので面会したい旨を話した。
「念のため、上のほうに確認を取らせていただきますので、お待ちくださいね」
受付嬢の中では先輩であるらしい女性が心得たように微笑むと、手元の電話の受話器を手に取った。間をおかず電話は繋がったようだ。受付嬢が紫乃の名前を言い、中村専務……正弘に来客があることを告げる。
「あ、いいえ。わたくしは、弘晃さんのほうに会いに来たのですけど……」
紫乃は慌てて訂正を入れた。
「え? ああ、そうだったんですか?」
電話をしてくれていた受付嬢は、驚いたように目をぱちくりさせた。彼女だけではなく、彼女の後ろに控えていた受付嬢2人も驚いたように顔を見合わせている。
彼女は、向こうに断りを入れ、いったん電話を切ると、丁寧に紫乃に謝った。
「申し訳ありません。社長の息子さんといえば、こちらには普段は正弘専務しかおりませんものですから勘違いしてしまいました」
「え? そうなのですか? 弘晃さんは、こちらにはいらっしゃらないのですか?」
紫乃の問いに、彼女の目の前にいる受付嬢が、「はあ、こちらには、あまり……」と、曖昧な言葉と笑顔を返す。その後ろで、彼女の二人の同僚がコソコソと話している。
『弘晃さまって、こちらにおみえになることあるんですか? 私、見たことないんですけど』
『私も、実は数回しか……』
「あなたたち、お客さまの前ですよ!」
先輩受付嬢に小声で咎められ、ふたりの同僚はピッタリと口を閉ざした。
(ここにはいないって、どういうこと?)
「では、弘晃さんには、どちらに行けばお会いできるでしょうか?」
思いがけないことを聞かされて困惑しながらも、紫乃はたずねた。
「中村相談役でしたら、ご自宅のほうにおられるはずですが」
「相談役?」
受付嬢の答えに紫乃は更に驚いた。弘晃は、あの若さで、どうしてそのような……言い方は悪いが隠居爺がつくような役職についているのだろう?
呆然としている紫乃に、受付嬢が優しくたずねる。
「これから、そちらをお訪ねになりますか? なんでしたら、こちらからに連絡を入れてみてもよろしゅうございますが……」
「いいえ、結構です」
『自分の目で確認します』 と、紫乃は口の中でつぶやくと、受付嬢に礼を言い、本社ビルを後にした。 そして、最初に目に入ったタクシーを捕まえると、中村家に向かった。




