18.海まで
少女たちは、ふたりの共通の親戚を訪ねて鎌倉に行く途中ということだった。
鎌倉は紫乃たちの当面の目的地であり、そこから江ノ電に乗り換えて、稲村ガ崎か由比が浜あたりで下車する予定である。横浜で多くの客が降りたのを機に、4人は空いたボックス席に、そろって腰を下ろした。
「すると、おふたりは、牧本代議士のご親類かなにかに当たられるのでしょうか?」
「牧本代議士は、牧本さんのお祖父さまでいらっしゃるの」
ふたりが『大おばさま』と呼んでいる親戚の名前を頼りに、弘晃が少女たちの家系に連なる一族の花形を探り当てたので、紫乃が彼に説明をした。
紫乃の卒業した高校は、中学から大学までほぼ一直線に続いているお嬢様学校である。ここに通う生徒は、彼女たちのように、例えば、政治家の○○の孫とか、もと大名家の××の家系に連なるものとかいう情報が、自分のプロフィールに付記されているような生徒が大勢いる。
そんな情報は、実際のところ、その生徒個人の人柄や能力とは全く関係がない。しかしながら、ある種の閉鎖された息苦しい世界のなかでは、そんな個人の特性と無関係な付帯情報が、時に個人の信頼度や重要度を決定づける重要な要素となる。
それを証拠に、弘晃が「たしか、牧本代議士のご長男には娘さんがふたりいらっしゃいましたね」と言い、自分は姉のほうだと答える牧本嬢に、牧本代議士の弟の嫁が弘晃の母親の従姉妹のまた従姉妹であること告げると、少女たちの態度が急に親しげになった。
「それでは、わたくしたちも親戚ということになりますわね」
そこまでややこしい関係を親戚と呼べるかどうかはともかく、弘晃に気を許した二人は、「紫乃さんのことならば、何でも知りたいのです」という弘晃の求めに応じて、自分たちの憧れの先輩がいかに素敵な女性であるかを、紫乃の代わりに時間が許す限り語り尽くしていった。
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後輩の二人の少女と別れた後の紫乃は、目に見えて不機嫌になった。紫乃にへそを曲げられては、いくら呑気な弘晃でも、軒先を縫うように走る玩具のような電車に夢中になっている場合ではないと判断したようだ。
「どうかしたのですか、紫乃さん? 機嫌が悪そうですが」
「知りません!」
紫乃は、ぷんぷん怒りながら顔を背けた。
「なんなんですか。さっきの、あの思わせぶりな発言は?」
「思わせぶり?」
「言ったでしょう? 私と……その……もっと、お近づきになりたいとか、私のことを知りたいとか……」
はて、なんのことだっただろう? ……と言うように眉を寄せる弘晃に、紫乃は下に向けた顔を赤らめながら指摘した。
「ああ、あれ? いやあ、いくら僕が紫乃さんのことが好きでも、あそこまでが限界です。貴女への好意を、あれ以上あからさまに初対面の娘さんたちに表明するのは照れます」
「そっちの方向で怒っているのではありません。 逆です!」
笑顔でトンチンカンな答えを返してくる弘晃に、紫乃が逆上する。
「どうして、あんなことを言ったんですか。恥ずかしいじゃないですか?」
「どうして……って」
弘晃が視線を宙にさまよわせつつ、ホリホリと首を掻く。「あの娘さんたちには、自分の話したいことを、話したいだけ話させておいたほうが安全かな……と思ったものですから」
「え?」
呆気に取られる紫乃に、弘晃が、「おかげで、こちらは、ほとんど話さずに済んだでしょう?」と言って微笑んだ。そういえば、紫乃は弘晃の隣でひたすら上品にニコニコしていただけだったし、弘晃は弘晃で、あれだけ楽しそうに話をしていたにも関わらず、彼女たちに名乗ってさえいない。ただ、彼女たちにとって一番わかりやすい言葉で、自分の身元の確かさを保証しただけである。
「いずれにせよ、あのふたりは明日学校で橘乃さんからあれこれ聞きだすのでしょう。とはいえ、噂の出所が本人なのかあるいは周辺の人間なのかでは、信憑性に大きな開きがありますからね」
「は……あ……」
狐につままれたような気分で曖昧に相槌を打つ紫乃に、弘晃は穏やかに微笑みかけた。
「大丈夫ですよ。あなたの妹さんの情報発信能力を侮ってはいけません。あなたが思っているほど、橘乃さんは考えなしのおしゃべりではありませんよ。言って良いことと悪いことの区別がちゃんとついている。彼女は、紫乃さんの立場を悪くするようなことは絶対に話さないはずです。そして、先刻の僕の赤面ものの発言から、あのふたりは貴女に入れあげているのは僕だと認識したに違いありません。だから、たとえ破談になったとしても、彼女たちは振られたのは紫乃さんではなく僕のほうだと疑わないでしょう。万が一にでも今まで完璧を保ってきた紫乃さんの輝かしい評判に傷がつくようなことはありませんよ」
(弘晃さん? なんで、そんな言い方?)
彼の含みのある物言いと包み込むような優しい眼差しに、紫乃は動揺した。
(そうだった……。この人を侮っては、いけないのだったわ)
最近はすっかり忘れかけていたが、優しげで穏やかな風貌と繰り返されるボケボケな発言に騙されてはいけない。ましてや侮るなどもっての外。この人はただの世間知らずの坊ちゃんではない。場所が変われば、あの父とだって対等に渡り合うタヌキである。ひょっとしたら、紫乃の浅はかな企みなど、彼は既にお見通しなのかもしれない。
「弘晃さん、あの……」
だが、紫乃が探りを入れる暇も与えずに、「でも……」と、弘晃がうろたえ気味に言葉を継ぐ。
「僕は、紫乃さんと釣り合いがとれるように、あの娘さんたちの前で精一杯頑張ったつもりだったのですが……。今頃、『あんな変な男が、紫乃さまの旦那さまになるかもしれなんて、絶対に許せない~っ!』なんて、怒り狂っていたらどうしましょう?」
「どうしましょう……と、言われても……」
答えに窮する紫乃を救ったのは、せせこましい家並みを抜けた途端に目の前に広がった光る海だった。
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「うわ~! 海って、本当に広くて大きいですねえ……」
海を見て、文部省唱歌のような感想を恥ずかしげもなく大声で言える大人の日本人は、弘晃ぐらいであろう。
彼は両手を広げ、満足げな表情で大きく息を吸いながら潮風と潮騒を全身で受け止めると、靴と靴下を脱いで、足を海水に浸した。
(いったいなんなんでしょうね。この人は……)
日傘の柄を回しながら弘晃の後ろをついてきた紫乃は、彼のあけすけな喜びように半ば呆れ、でも、なんとも言えない幸せな気分になる。だが、素直ではない紫乃の口から出るのは、相も変わらぬ憎まれ口ばかり。「でも、噂どおり、水はきれいとは言いがたいですね」と、顔を曇らせる弘晃を、「もっと青くて透き通る海だと思っていましたか? 色とりどりのお魚やサンゴが見られなくて残念でしたね」と茶化しながら、彼女はサンダル脱いで弘晃の靴の隣に並べると、波打ち際にいる弘晃の傍まで進んだ。隣に並んだ紫乃に弘晃が笑いかける。
「おやおや、いくら僕が無知でも東京湾と南の海の違いぐらいは知っていますよ。海が広いということもね。それに、紫乃さんが知らないであろうことも、いろいろ知っています。例えば、この海水が、どれぐらい汚れているかとか、東京湾の生物が20年ほど前と比べてどれぐらい減ったかとか、埋め立て地がどれぐらい増えたとか……」
「なんで、そんなことを?」
「仕事がらみで調べました。ここ最近、工業用の排水の規制が厳しくなったのでね。でも、知識として知るのと、実際に目で見たり手で触れたりして感覚として知るのでは違うでしょう? 資料の中の海の写真は空も海も途中で一直線に切り取られていて、本当の広さまでは実感できませんし、データーを見ているだけでは、潮の香りや砂浜の砂の触感まではわかりません」
「確かに、そうですね」
紫乃は、足元に目を向けた。素足を濡らす海水はまだ少し冷たく、波は引くたびに足の下から砂を少しずつさらっていく。
「とはいえ、知識やデーターは大事ですけどね。いろいろなことを教えてくれるし、ただ漫然と見ているだけでは見えないものも見えてくる。データーは、多くのことを考える手がかりを与えてくれます。それだけしか知るための手がかりがないのであれば、尚更、重要です」
弘晃は、そんなことを言いながら、水の中に手を突っ込んで足元の濡れた砂を掬い上げた。指の間からこぼれ落ちた砂が波に溶ける。それをぼんやりと見つめている弘晃は、とても寂しげに見えた。なぜだかはわからないが、紫乃は弘晃においていかれそうな気がして、急に心細くなった。気がついたら、紫乃は弘晃の袖を強く引っぱっていた。
「また、来ましょうね」
驚いたようにこちらを見ている弘晃に、紫乃は言った。
「今度は千葉か伊豆にしましょう。そこまで行けば、水はもっと澄んでいるし、お魚だって泳いでいるのが見られますわ。なんだったら、もっと南の海でもいい。九州とか沖縄とかハワイとか……」
「日帰り、できませんけど?」
「いいじゃないですか。いつか……」
自分の発言の大胆さに気がついた紫乃は、思わず口ごもった。
「いつか、貴女と一緒に?」
「わたくしと一緒ではご不満ですか?」
「いいえ」
照れ隠しに尖った口調で応じる紫乃を面白がるように、弘晃が薄く笑った。「とても光栄ですよ」
彼は、紫乃の日傘の中にもぐりこむようにして身をかがめると、彼女の唇に口付けを落とした。紫乃の手から滑り落ちた日傘が、波間に漂う。
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濡れて砂まみれの足が乾くまでの間、道路から海岸に降りる幅の広い階段に腰を下ろした紫乃は、弘晃といろいろな話をした。お互い相手を意識しすぎているせいか、二人ともいつもよりも饒舌だった。
「そんなに、僕は、変なことを言ったりしたりしてますかね~?」
「していますよ。でも、仕方がありませんわ。 弘晃さん、長い間、外国でお暮らしだったのでしょう?」
「は? 外国?」
「ええ、父が、そのようなことを申しておりましたけれど」
「紫乃さん。 さては、お父上に、僕の世間知らずっぷりを告げ口しましたね?」
「い、いえ、その……」
弘晃に言い当てられて、紫乃は逃げ道を探すように彼から顔を背けた。
「そうですか、六条氏がそんなことを……」と、笑いながら海のほうに顔を向けた弘晃は、顔に笑みを浮かべたまま、「あの、タヌキ親父……」と彼らしからぬ悪態をつぶやいたが、波の音にかき消されて紫乃の耳には届かない。その後の、「やっぱり、いつまでも紫乃さんに黙っているわけにはいかないな……」という沈んだ声も、紫乃には聞こえなかった。
弘晃は、紫乃に顔を向けると、「紫乃さん」と真面目な顔で呼びかけた。
「はい?」
紫乃が小首を傾げて弘晃に応じる。だが、弘晃が話しの口火を切ろうとしたとたん、何処からか念仏のようなものを唱える声が彼の邪魔をした。
立ち上がり、声のしたほうを振り返ると、白装束に長い数珠をかけた10人ばかりの集団が鐘や太鼓を打ち鳴らし念仏を唱えながら道路を渡ってこちらに近づいてくるのが見えた。その集団をぼんやりと眺めていた弘晃の顔色が変わった。
弘晃が、やや強引に紫乃の手を引っ張った。
「行きましょう。紫乃さん」
「ええ」
弘晃の様子が違うのに戸惑いながらも、紫乃は、サンダルを履くのもそこそこに、バックと日傘を拾い上げた。近づいてくる怪しげな団体を避けるように歩き始めたふたりを、集団の中でひときわ大きな声を上げていた老婆が呼び止めた。
いや、ふたりを呼び止めたのではない。彼女は確かに弘晃の名前を呼んだ。
集団から抜け出した老婆は、年寄りらしからぬ素早さでふたりに近づくと、弘晃の目の前に立ちふさがった。目の前に立った老婆は、とても小さかった。背も低く、体つきも貧相である。だが、ざんばら髪の白髪の隙間から覗かせた目は、見るものを絡め取るような粘っこい厭な光を帯びていた。
老婆は、皺の中に埋もれていた口を横一文字に伸ばすと、赤い紅を引いた口の両端を上げて、ニィと笑った。
「久しいの。呪われた家の、贖いの子よ」
老婆が、しわがれた声で弘晃に呼びかけた。




