17.紫乃のてるてる坊主
7月初旬。
紫乃の気のせいかもしれないが、今年の梅雨は例年以上に雨が多い。
「あら? それ?」
洗濯の済んだ衣類を届けにきた若い女中が、紫乃が手にしているものを見て微笑んだ。見つかった後に隠したところで何の意味もないが、紫乃は、とっさに後ろに手を回した。
「え? これ? これは……いくら梅雨時とはいえ、なんだか気が滅入ってしまうのですもの。毎日毎日雨ばかりで、本当に、イヤになってしまう。だから……」
紫乃は、どうでもいいつまらないものだということを示すように、とっさに隠したてるてる坊主を軽く振り回しながら、窓の外に目を向けた。
「本当に、そうですよね」
女中も、紫乃にならって、しかめっ面をしながら視線を窓の外に向ける。
「こんなお天気が続いていると、気分がクサクサしてしまいますよね。でも、紫乃お嬢様のてるてる坊主なら、とても御利益がありそうですね。明日は、きっと晴れそうな気がしますわ」
女中は、紫乃の言い分に機嫌よく同意すると、踊るような足取りで退出していった。
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そして、次の日曜日。
「さすが、姉さまのてるてる坊主」
「雨雲さえも蹴散らしますわね」
妹たちが、窓辺に吊るされたてるてる坊主の向こうに広がる真っ青な空を、呆然と見上げていた。窓から吹き込んでくる風は、どこか夏の匂いがする。
「ただの、偶然よ」
鏡に映った自分を念入りに確認しながら、紫乃がそっけなく答える。そうは言っても、紫乃がてるてる坊主を吊るしたとたん雨が上がり、土曜日曜と2日続けての朝からの快晴である。
普段は、てるてる坊主の御利益など馬鹿にしている姉が、なぜそのようなものを吊るしたのか、それをたずねても紫乃は答えようとしなかった。だが、雨降りの間すっかり疎遠になっていた弘晃が約ひと月ぶりに朝一番で連絡してきたときに彼女が見せた照れ隠しの仏頂面を見れば、彼女が何を望んで雨が上がるのを願ったのか誰でも察しがつこうというものである。
「どう? おかしくない?」
鏡の中の自分にニッコリと笑いかけると、紫乃は、木綿のスカートの裾をフワリと翻して妹たちを振り返った。
「文句なし」
「完璧♪」
「最高!」
妹たちが紫乃に太鼓判を押す。
「なにはともあれ、好いお天気でよかったこと。楽しんでいらしてね」
最後の仕上げに、次女の明子が紫乃に日傘を差し出して、準備は完了。前回のデートで約束した通り、今日は、ふたりで海に行くことになっていた。
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弘晃は、それから10分後に運転手つきの車で迎えにやってきた。その車に紫乃も便乗し、最寄りの駅で、降ろしてもらった。
「本当に、ここまでで宜しいのですか?」
運転手は、駅前で、何度も彼に念を押した。彼は、ふたりを乗せて海まで連れて行ってくれるつもりであったようなのだが、弘晃にその必要はないと言われて、かなり傷ついているようであった。
「坂口は、心配性だなあ。あとは二人で行けるから、大丈夫だよ」
「では、何かあったら、すぐに連絡してくださいよ。何処へでもお迎えに参りますから。絶対ですよ」
この運転手。まるで爺やのように口うるさいが、聞けば、弘晃の弟の正弘と同い年だそうで、外見からしても弘晃よりもずっと若い。
「わかった、わかった。そのときは、よろしく。頼りにしているよ」
「本当にわかっていらっしゃるんでしょうね!」
ドアを開けて車から出ようとする弘晃に追いすがるように運転手が声をかける。そのうちに、本来の自分の職分を思い出したのか、彼は、二人を見送るために自分も慌てて車から降りた。
「あの、お嬢さま」
弘晃の後をついていこうとする紫乃が呼び止められて振り向くと、坂口と呼ばれている運転手がすがるような目を向けていた。
「あの…、弘晃さまを、なにとぞ、よろしくお願いします」
「あのねえ、坂口。 僕は、そんなに頼りにならないわけ?」
弘晃が呆れた顔をする。
「ですが……」
「大丈夫。わたくしに任せてくださいな」
紫乃は、運転手に微笑みかけた。紫乃の言葉に少しは安心したのか、運転手は、「くれぐれも、弘晃さまをお頼みもうします」と頭を下げて、ふたりを送り出した。
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「すみませんね。紫乃さん。うちの家の人間は、どうも僕を信用していないらしくて」
過保護で困っているんですよ……と弘晃は苦笑した。
「その気持ち、よ~く、わかる気がしますわ」
「え? 紫乃さんも、僕のこと信用してないんですか?」
「いえ、けっして、そういう訳ではないんですけど……」
「では、どういう訳だと?」
「それは、これまでの、ご自分の行動を思い起こしてみれば、よろしいのではなくて?」
そんな他愛もない口ゲンカに興じている合間に、弘晃は、紫乃の分まで切符を買い、前回は珍しさの余り立ち止まってしげしげと眺めていた自動改札機も、ごく当たり前にすり抜けた。
「どうです? ちょっと会わない間に、僕は、格段に世の中に順応したとお思いになりませんか?」
海へ向かう白と青に塗り分けられた電車への乗り換えも無事に果たした弘晃は、大威張りだった。
「はいはい。すごいですね」
呆れた紫乃が彼を適当にいなしていると、誰かが彼女に話しかけてきた。
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「あら? まあ! 紫乃さま」
愛らしい声に振り返れば、長いまつげと大きな目が印象的な少女とボーイッシュな感じのする少女が頬を染めながら、紫乃に会釈した。
「まあ。こんにちは。ええと、鈴川さんと……牧本さんでしたわね?」
「まあ! わたくしたちのこと、覚えていてくださったんですか?」
少女たちが、感激したように両手を組みあわせた。それから、お互いに顔を見合わせながら、くすぐったそうに笑った。
「ええ、もちろんよ。卒業式では、お花をどうもありがとう」
紫乃と少女たちが話している間、弘晃は彼女の背後でおとなしくしていた。だが、少女たちの視線は、紫乃と弘晃の間を、せわしなく行ったり来たりしている。どうやら、弘晃と紫乃の関係が気になって仕方がないようだ。
(紹介したほうがいいのかしら?)
紫乃は、困惑しながら弘晃を振り返った。とはいえ、この男のことを、いったいなんと紹介すればよいのだろう? いずれ婚約するとは思うが、今のところは婚約者ではないし、ふたりきりで出かける間柄の男をただの友達というのも、逆に蓮っ葉な感じがする。紫乃の逡巡を知ってか知らずか、弘晃は、紫乃のほうに、わずかに顔を寄せると、「紫乃さんの学校の後輩のお嬢さんですか?」とたずねた。
「ええ。そうなんですの。橘乃の……」
橘乃の友達だと紫乃が教える前に、早合点した弘晃が、「ああ、こちらのお嬢さんたちが、橘乃さんがおっしゃっていた『紫乃さんのファン倶楽部』の方々なのですね」と勝手に納得する。
「違います! この方たちは、橘乃のお友だちです!」
「え? 違うのですか?」
「違います! だいたい、わたくしのファン倶楽部なんてものは存在しません!」
「いいえ。違いませんわ。わたくしたちは、橘乃さんのお友達で、それ以上に、紫乃さまの大ファンですの」
真っ赤になって怒る紫乃の横で、少女たちがクスクスと笑いながら弘晃の味方を始めた。
「ということは、私と同じですね」
弘晃が少女たちに微笑みかけた。
「まあ、そうなんですの?」
「ええ。そうなんですよ。でも、私としては、彼女のファン以上の存在になりたいと思っているのですが……」
「まあ~! そうなんですの~!」
弘晃の思わせぶりな態度に、少女たちは頬を染めて、ますます盛り上がった。
紫乃は、弘晃が二度と惚けた発言ができないように彼の首を絞めてしまいたいと本気で思ったが、自分に憧れている後輩たちの前で、そんなことができるはずもなく、彼の隣で、ひたすら上品に振舞うほかなかった。




