16.水面に映るは・・・
水の面に、満月が映っている。
樹木や灯篭の影を映した池の真ん中に、冴え冴えと白く淡い光を放ちながら漂う月の輝きと美しさは、空にあるそれと、なんら劣るところがない。
だが、雲が月を横切るたびに、わずかな風で細波が立つたびに、水の上の月は、その輪郭を儚くする。
水に映った月は、空よりもずっと近くにある。だけど、決して手に取ることはできない。
手に入れようとすれば、手に入れられないことを思い知らされるだけ。
ただ見ることだけを許された、実体のない美しい幻。
弘晃は、腰をかがめて小石を拾い上げると、水の上の月めがけて放り投げた。
ポチャンという音と共に、月の光が同心円を描いて揺れた。
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「兄さん。なんだ、こんなところにいたのか」
石を投げ入れた音を聞きつけたのだろう。声のしたほうに弘晃が振り向くと、2歳年下の弟の正弘が、庭に敷き詰められた玉砂利を踏みながら、こちらに近づいてくるのが見えた。夜なので、顔の表情までは判別できないが、彼の声には、いくぶんホッとしたような響が混じっていた。
「なにしているの?」
「ん? 月がきれいなのでね」
弘晃に倣って、正弘が池を覗き込んだ。月光に照らされた弘晃と正弘の影が水の面に並ぶ。ただ縦にひょろ長いばかりの弘晃と、スポーツと武道で日ごろから体を鍛えている正弘。声と顔は良く似ていても、水に映ったふたりのシルエットは全く違っていた。
「ああ、本当だ、なかなか好い風情だねえ」
正弘が、空と水の上の月を見比べながら笑う。「ここで一杯やりたい気分だ」
「いいね」と、弘晃は微笑んだ。
「ところで、僕に、なにか用事があったのかい? 机の上に置かれた書類ならば、全部目を通しておいたよ。必要なところには、メモも挟んでおいた。ああ、それから、横内さんの所から上がってきた報告書も読んだ。あの子会社については、問題になっていたところはクリアできたみたいだけど、一応、誰かをやって確認させたほうがいいかと思う。それで、今後のフォローをどうするかだけど……」
「仕事の話は明日でいいよ。ただ、兄さんが部屋にいなかったから、どうしたのかなと思っただけ」
用件を勝手に推測し、先回りして早口で話し始めた弘晃に正弘が言った。 「こんなところに、いつまでも突っ立てたら、風邪をひくよ。もしも、今、兄さんが倒れでもしたら……」
「はいはい、わかっているよ」
今度は、弘晃が面倒くさそうに、正弘の小言を遮った。「心配してくれるのはありがたいけどね。大丈夫だよ。初めに決めただろう?」
「そうだったね。『経営陣の誰が欠けても揺らがない会社に作り変える』」
正弘がうなずいた。
それは、5年ほど前に弘晃と正弘を含めた中村グループの主な経営陣が集合した際に、つまり、この家で晩御飯の席で決めたことだった。
弘晃たちの祖父が亡くなるまで、中村グループは、正しい社名どころか、昔からの屋号で呼ばれることさえ、めったになかった。多くのものは、祖父の名の下に『王国』の名前をつけて呼んでいた。弘晃の祖父とその一族は、かつて、それほど自分たちの経営する会社を私物化していた。
現在の弘晃たちは、旧体制からの脱却を図ろうと努力している。祖父がおかしくなったときのように、なにかひとつ欠けただけで土台から音を立てて崩れるような会社では、これからの時代は生き残れない。誰が欠けても、なにが足りなくても……乱暴な言い方をしてしまえば、たとえ中村本家がなくなってしまっても、多くの従業員を抱えている彼らの会社は存続しなければならない。頑丈な組織に自分たちの会社を作り変えようとしているのは、そのためだ。
「だから、大丈夫。僕が、どうかなったとしても、別に困りゃあしないって」
弘晃は、微笑を浮かべながら投げやりなことを言うと、池のほとりにしゃがみこんだ。
「また、そういうことを言う」
正弘が非難がましい口調で言いながら、弘晃の隣に並んでしゃがみこんだ。そして、どこか浮かない様子の弘晃の顔を、首を伸ばして覗きこんだ。「なにか、あったの?」
「別に、なにも」
弘晃は、弟のおせっかいを鬱陶しがるように、彼から顔を背けた。
しかし、正弘は、彼の言葉を信じてはくれなかった。正弘にしてみれば、弘晃がふて腐れているように見えることこそが、非常に稀なことなのだから、信じろというほうが無理である。
「いいや、絶対に何かがあったに違いない」
正弘は、そう決め付けると、しゃがんだまま、内緒話でもするように肩がくっつくほど弘晃に身を寄せ、彼に探りを入れてきた。
「六条の彼女と、喧嘩でもした?」
「してない。僕たちは、非常に上手くやっていると思う。最初は動物園でデートして、今日は映画に行った」
「……。なんというか、こっちが恥ずかしくなるぐらい『普通』だね」
王道一直線という感じだ。そう言って正弘が笑った。
「そうなのか? ひょっとして、紫乃さんに退屈な思いをさせていたのだろうか?」
世の中の流行にすっかり乗り遅れている弘晃には、一般的に、どういうデートが『退屈』で、どういうデートが『退屈ではない』のか、判定のしようがない。
大真面目に弘晃がたずねると、正弘は苦笑いを浮かべながら、「いや、紫乃さんは、きっと、兄さん本人に退屈できなかったと思うから、心配はいらないよ」と、意味不明な慰めを言った。
「次は、海に行くんだ」
「いいねえ。 海に沈む夕日に照らされて初めて抱擁するふたり……。まるで青春映画のようだね」
「茶化すなよ」
弘晃が正弘に非難の眼差しを向けた。
「それに…… 『初めて』でもない」
「おお! 兄さんにしては上出来! じゃあ、キスまでいった?」
「『いった?』って…… お前ねえ……」
明け透けな弟の物言いに、弘晃が呆れた声をあげる。それから、彼は膝頭に額をくっつけるようにしてうな垂れると、「いったい、僕は、なにをやっているのだろう?」と呻いた。
そう、正弘が心配している通り、弘晃は、今、本気で落ち込んでいた。
「なにをしているかって? 『好きな女性との交際』だろ?」
正弘が、酷く冷静な声で、他人に聞くまでもない正解を弘晃に教えてくれた。
「兄さん。まだ、悩んでいたわけ? 兄さんの気持ちもわかるけどさ。でも、六条のことだから、見合いをする前に兄さんのことを徹底的に調べたと思うよ。それで問題ないと思ったから、彼は兄さんに娘を嫁にやってもいいと思った。向こうがいいって言っているんだから、悩む必要なんかないんだよ。違うかい?」
「違わないとは思うよ。でも、六条さんの思惑はともかく、実際に結婚するのは、何も知らない紫乃さんであるわけだから」
「そうかな? 紫乃さんだって、予め父親から聞かされて知っているんじゃないだろうか」
「それは、ない」
弘晃は断言した。「紫乃さんは知らない。彼女には彼女なりの思惑で、僕たちの結婚を決めようとしているんだ」
「なんだって? 紫乃さんも欲得尽くで兄さんと結婚しようとしているっていうのかい?」
正弘が驚いたように腰を浮かす。
「いやだねえ。心がないというか、愛がないというか……。自分の欲を満たすためなら、相手の気持ちなんてお構いなしに傷つける。とんでもない親子だな。」
「違う。紫乃さんは、そういう人じゃない」
兄のために憤ってくれている正弘が一瞬ひるむほど、弘晃の口からきつい声が出た。
「あの人は、あの人の父親とは違うんだよ。彼女は、自分が得をするために、望まない結婚をしようと思っているわけではないんだ。もっと……」
「なに? 兄さんは、そこらへんの事情まで知っているの? 本人から聞いたの?」
言葉を濁す弘晃に正弘がたずねた。
「いいや。紫乃さんに直接確認はしていないよ。でも、彼女と付き合って彼女の人柄を知り、彼女を慕う彼女の周囲にいる人たちと接しているうちに、わかってしまったんだ。たぶん、僕の憶測は間違ってはいない」
彼女が考えた小さな計画。
それは、弘晃のように理詰めでものを考える男性にしてみれば、ある意味、とても浅はかで馬鹿げたものだった。
聡明な紫乃のことだ。彼女にも、おそらく、くだらないことをしているという自覚はあるだろう。だからこそ、彼女は、弘晃に話そうとしないのだろう。しかし、馬鹿馬鹿しくて、くだらないからといって、それが、効を成さない計画かといえば、そんなことはない。
そのことは、既に、証明済みである。
あの勝気で負けず嫌いな彼女の健気な努力によって……
「あんなに、しっかりした人なのに、本当に馬鹿みたいに一生懸命で、健気でいじらしくて……」
そんな彼女が、いじらしくて、可愛らしくて、愛おしくて……
弘晃は、もう、どうやっても自分の気持ちに歯止めが掛けられそうになかった。
「僕は、紫乃さんが、もっと自分勝手な理由で結婚しようとしているのだと思っていたんだ。中村という家が彼女の嫁入りの条件にかなうだけでいいのであれば、僕もなんの気兼ねもなく彼女を妻にできる。そう思ったから、結婚を前提とした交際を申し込んだ。それなのに……」
弘晃は、再び膝頭に顔を埋めた。
「本気で紫乃さんに惚れてしまったんだね。兄さん」
心底同情したように、正弘が言った。
彼は、励ますように弘晃の背中を強く叩きながら、「あれこれ考えないで結婚しちゃえよ。そうしたら、父さんも母さんも、大喜びだよ」と能天気に勧めた。
「また、そんな……」
弘晃は恨めしげに正弘を睨んだ。
自分の家族の能天気さが、かえって弘晃には恨めしく思えてならない。
彼らにしてみれば、弘晃が紫乃と結ばれることは、慶事以外のなにものでもないだろう。だから、最近の父は、ところ構わず鼻歌を歌って上機嫌だし、母は母で、何処でもらってきたのか、最近はウェディングドレスのカタログを愛読書にしている。
だが、紫乃の一生と幸せがかかっているのに、そんなに浮かれていていいはずがない。そこのところを、弘晃以外の誰一人、彼女のために真剣に考えてやらないのは、いったい、どうしたことなのか?
それよりも、六条源一郎だ。あの男は、いったい自分の娘をなんだと思っているんだ? 弘晃は、その点についても、かなり腹を立てていた。
「それに……僕じゃあ、やっぱり駄目なんだよ」
弘晃が、ポツリとつぶやいた。
自分では、おそらく紫乃の望みはかなえてやれない。彼女の望む夫として振舞うことには、弘晃が抱えている事情を考えると無理がある。
「ひょっとしたら、ヨボヨボのチンピラのほうが、僕よりもまだマシかもしれない」
「は? ヨボヨボの…… なんだって?」
正弘が問い返してきたが、弘晃は答えなかった。
「なんでもない」
弘晃は立ち上がると、「そろそろ、部屋に戻ろうか?」と、正弘を誘った。
「そうだね」
兄に普段通りの穏やかさが戻ってきたことに安心するかのように、正弘が元気よく立ち上がると、軽い足取りで、灯りのともる母屋を目指して歩き始めた。
正弘の後を追う前に、弘晃は、名残惜しそうに空に輝く月に目を向けた。
ついで、寂しげに、水面で揺らめいている月に視線を落とす。
(あれは、ただの美しい幻)
どんなに近くにあるように見えても、手に入らないことなど初めからわかっていたはずなのに……
「見ているだけにすればよかったんだ」
弘晃は自嘲気味につぶやくと、部屋に戻っていった。




