15.縮まる距離
電車のドアの脇に立ち、後ろへ後ろへと流れていく景色にみとれていた弘晃が、急に何かを思いついたように顔を上に向けた。彼は、ドアの上部に掲示されている路線ごとに鮮やかな色で色分けされた路線図をじっくりと眺めた後、紫乃に言った。
「紫乃さん。海に行きませんか?」
「は? 海ですか?」
「ええ。ここから2つ先の駅で別の電車に乗り換えれば、海のあるところまで行けるのですよね?」
路線図をなぞるように空中で指を動かしながら、弘晃がたずねた。
「それは、もちろん行けるでしょうけど……」
ふたりが乗っているのは国鉄。 今で言うところのJRである。
線路は続くよ何処までも……と歌にもあるぐらいだから、電車を乗り継ぎさえすれば、かなり遠くまで行けることは行ける。砂浜があるような海が近い場所まで行くことだって可能だ。
「じゃあ、行きましょう」
「え? 今からですか? でも、弘晃さん、お仕事はよろしいんですの?」
紫乃が驚いたように声を上げた。
「仕事ですか? 仕事は……、まあ、どうにでもなりますよ」
弘晃は、頭の中のスケジュール帳とにらめっこでもするかのように顔をしかめた。「今日の分は、朝までにやり終えればいいのですから」
それを聞いた紫乃は、すぐに反対した。
「どうにかなったとしても、それはダメです」
ただでさえ忙しそうなのに、そんな無茶をすれば、見るからにひ弱そうなこの男は体を壊しかねない。
「ダメですか?」
紫乃が反対すると、弘晃は、見ているこちらが可哀想になるほど酷くがっかりした顔をした。
「そうですよ。だって……」
どうしたら、弘晃を諦めさせることができるだろう? 紫乃は、少し考えた後、手にしていた切符を書かれている文字が見えるように彼の目の前に突き出した。
「だって、もう切符を買ってしまったでしょう? この切符では海までは行けませんわ。ね?」
「降りた駅で精算すればいいだけじゃないですか」
弘晃は、こともなげに紫乃に言い返した。実体験的な経験から得られる常識に欠けたところがあるとはいえ、やはり駄々をこねる子供を誤魔化すようにはいかないらしい。紫乃は、心の中で軽く舌打ちした。
「でも、やはり、次の機会にしたほうが……」
紫乃が更に反対しかけたとき、車内アナウンスが次の停車駅を告げた。
そのアナウンスを合図に、座席のそこかしこで乗客が席を立ち、出入り口付近に次々に人が集まり始めた。ドアの前に立っていた紫乃は、降りる客たちに場所を譲るように、わずかに弘晃の傍に寄った。それでも、紫乃の避け方が足りなかったせいだろう。 降りる客が持っていた大きな肩掛け鞄に押されてしまい、紫乃は大きくバランスを崩した。
「おっと」
よろけた紫乃を支えようと、とっさに弘晃が手を伸ばす。思いがけず強い力で引き寄せられ、ほとんどぶつかるようにして、彼女は弘晃の腕の中に納まった。
降りていった客以上の人数の客がどっと電車に乗り込んでくるまでの短い間、紫乃は、そのままの姿勢で弘晃に寄り添っていた。その間、彼女の心の中を閉めていた感情は、突き飛ばされ転びかけたことに対する驚きでも怒りでもなく、心地良さと安心感だった。
紫乃は、自分でも気がつかないうちに弘晃の肩口に顔を埋めていた。ただの気のせいかもしれないが、紫乃に回された弘晃の腕に、わずかに力がこもったような気がした。
たが、ふたりが寄り添っていたのは、ほんの数秒ほどの、わずかな間である。
「ごめんなさい」
自分の中に生じた『心地良さ』という感覚に怯えたように、紫乃は慌てて弘晃から身を引き剥がすと、下を向いた。弘晃も、「大丈夫でしたか?」というようなことを言いながら、紫乃から顔を背けるように、窓の外の景色に視線を移した。
ふたりとも何も言わないまま、電車は次の駅に到着した。海に行くのであれば、この駅で乗り換えなければいけないが、弘晃は、もう「降りよう」とは言わなかった。ふたりは、当初の予定通りに、そこから3つ先にある、紫乃の家の最寄り駅で電車を降りた。
黙ったままというのが、どうにも気詰まりなので、紫乃は改札の手前で立ち止まると、「送ってくれるのは、ここまででいい」と弘晃に告げた。だが、弘晃は承知せず、家の近くまでは送ると主張して、彼女についてきた。
家に向かうまでの道中、弘晃は、ただ紫乃の横を歩いているだけで、ほとんど口をきかなかった。自分のほうから話しかければいいとは思うものの、紫乃も会話の糸口を見つけられず困っていた。ちらりと横を盗み見れば、弘晃は、視線を前に向けたまま、怒っているようにもとれる表情を浮かべている。なんとも気詰まりなので、紫乃は歩く速度を速めた。
駅の近くの大きな池のある公園を迂回するように進むと、やがて、通りひとつ隔てているとはいえ、公園の敷地と見間違えられそうなほど樹木がうっそうと茂る森のような小山のような場所に出る。『私道につき、立ち入りはご遠慮願います』と書かれた看板があるところから森の奥に向かって緩やかな坂道が延びており、その坂を上がりきったところに、六条家はあった。
坂道を半分ほど上がったところで、紫乃は立ち止まると、弘晃に頭を下げた。
「ここからはひとりで帰れます。今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
さっきまで、怒っているようにも見えた弘晃が、ようやく笑みを見せた。機嫌が悪いわけではないらしいとわかって、紫乃も、なんとなく安心する。紫乃の顔に、自然に笑みが浮かんだ。
「じゃあ、わたくしは、これで……」
彼女は踵を返すと、家に向かって歩き始めた。
だが、数メートルも行かないうちに、自分の背後が、やけに気になり始めた。とても大事なことを弘晃に言い忘れているような気がして仕方がない。
(なんだったかしら? いいえ、言い忘れていることなどあるはずがないじゃないの)
紫乃は、首を振った。
時々会って遊びに行く。紫乃と弘晃は、今のところ、それだけの仲なのだ。言い忘れて困るようなことなど、あるわけがない。
親が決めて見合いしたとはいえ、婚約しているわけでもない。
次に会う約束さえしていない。
(次?)
紫乃は、ハタと立ち止まった。
これまでは、当たり前のように、弘晃が会いに来て、紫乃を誘いだしてくれていた。だが、待ってさえいれば弘晃が誘ってくれる……それは、本当に当たり前のことなのだろうか?
(次……って、あるのかしら? 次の次は?)
なぜだか急に心細くなった紫乃が弘晃を振り返ると、彼は、もう微笑んではいなかった。先刻と同じように怒ったような表情を浮かべたまま、弘晃が、無言で紫乃に近づいてきた。
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妹たちの目から見て、弘晃とのデートから戻ってきた姉は、明らかに変だった。
「お帰りなさい。映画は楽しかった?」
「ええ。そうね……」
「弘晃さんは、今日も、可笑しなことをしていらした?」
「うん。まあね……」
「次に会うお約束はしてきた?」
「まあ……そうね」
妹たちがなにを聞いても、紫乃は上の空。そればかりか、彼女は妹たちのほうを見ようともせず、どこかフワフワした足取りで自分の部屋に戻っていった。
「姉さま。どうしちゃったのかしら……」
妹たちは、不思議そうに顔を見合わせた。
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自分の部屋に戻った紫乃は、後ろ手で閉めた扉に寄りかかると、小さくため息をついた。
『次に会うときは、海に行きましょうか?』
弘晃の言葉が、まだ耳に残っていた。
耳元で囁やいた彼の声は、いつもよりもかすれていた。これまで見ていたよりも、ずっと近くに彼の顔があった。
鼻と鼻が触れるぐらい近く、いや、それどころか……
「キス……しちゃった……」
ぼんやりとした表情を浮かべたまま、紫乃は唇に指を当てた。




