14.ただの世間知らず?
弘晃は、動物園に行ったことがないばかりか、遊園地に行ったのも初めてだった。
自宅からも見えると言いながら東京タワーの展望台にも登ったことがなく、そればかりか、高いところにも行ったこともなかったらしい。紫乃とデートした日、彼は、展望台から下を覗き込みすぎて気分を悪くし、紫乃の介抱を受ける羽目になった。
また別の日の浅草では、雷門の近くで売っている雷おこしや人形焼の実演販売にいたく感動し、なかなか店の前から離れようとしなかった。(人形焼を焼いているおじさんは、弘晃がとても熱心に見ているのに気を良くして、ふたりに焼きたての人形焼をくれた)
他にも、小さなことを挙げればきりがない。
エスカレーターに乗ったのも初めてだったし(ステップの手前で何度も足踏みして歩行者の渋滞を引き起こした)、押しボタン式の信号機も知らなかった(ボタンを押そうとした彼は、どこかの子供に先を越されて、本気でがっかりしていた)。
そして、今日も……
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「あ、ダメっ!」
……と、紫乃が制止する暇もなく、映画の本編が終り、テーマ曲と共にスタッフロールが流れ始めるやいなや、弘晃は画面に向かって盛大に拍手をし始めた。
暗がりの中で、他の客たちが、その拍手の音に驚いたように、こちらに顔を向けた。紫乃は、恥ずかしくて、とっさに顔を伏せたが、弘晃は、他人の視線など全く意に介さずに拍手をし続けていた。おかしなもので、弘晃を見た他の客たちは、彼の態度があまりにも堂々としていたために、首を捻りながらも彼に倣って拍手を始めた。すると、それを見た別の客も、やはり同じように首を傾げながら拍手を始める。
結局、映画館は、割れんばかりの拍手に包まれることになった。
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「え、映画は拍手をしてはいけないんですか。でも、みんなも拍手していましたよ」
映画館を出るなり紫乃に怒られた弘晃は、同じように館内から出てきた他の客たちを振り返りながら不思議そうにたずねた。
「だから、それは、弘晃さんが拍手したから」
「なぜ僕が間違っていると知っていて、みんなのほうが僕に合わせてくれるんですか?」
「ですから、それは……ああ、もう、いいです」
紫乃は、怒る気力を無くして、諦め顔で弘晃から顔を背けた。黙ってしまった紫乃の機嫌を気にするように、弘晃がおろおろしながら彼女の顔を覗きこむ。
「紫乃さん、怒ってますか。すみません。ごめんなさい。僕が馬鹿なことをしたせいで、紫乃さんには恥ずかしい思いをさせてしまいましたね」
「知らなかったのなら仕方がないですよ。それに、つられて拍手するほうもいけないんです」
紫乃は小さく肩をすくめると、弘晃に厳しい顔を見せた。「でも、これからは、気をつけてくださいね」
「わかりました。今度からは、映画が終っても拍手はしません。誓います」
「誓うほどのことですか?」
大真面目な顔で紫乃に約束する弘晃を見て、彼女は苦笑するほかなかった。
人でごった返している歩道を、ふたりは、ゆっくりと流れに任せるように進んだ。やがて、通りの反対側に銀座和光が見えてきた。交差点の一角に対して、ゆるい弧を描くようにして建つ石造りの建物に気がついた彼が、何かを探すように上を見上げた。
「あれが有名な銀座の時計塔ですよね?」
「ええ、そうですよ」
紫乃が、うなずく。
「これも、初めて見ましたか?」
「車で横を通り過ぎたことなら、何度かあるんですけど……」
「車の中からでは、上の時計までは、よく見えませんものね」
一緒になって笑いながら時計を見ていた紫乃だが、時計の文字盤が示している時間を意識した途端に、ちょっとばかり寂しくなった。
「もうすぐ3時ですね」
弘晃は忙しい。彼や彼の一族が経営している沢山の会社……いわゆる中村グループは、もう10年以上経営が思わしくなく、紫乃の弟の和臣の話によれば、弘晃が経営に関わるようになったここ数年の間で、ようやく持ち直しの気配を見せはじめたということである。
中村グループの事業が長期的に安定した経営状態に戻るためには、紫乃の父親の会社の支援と、経営陣のよりいっそうの努力が不可欠である。そのため、若いながらも実質的に会社を支えている弘晃は、夜と昼、平日と休日の区別なく働き詰めでであるらしく、今日もどことなく顔色が悪い。
忙しい中、弘晃が無理矢理時間を割いて紫乃に会いに来てくれたのは、意地っ張りの彼女でも、さすがに悪い気はしない。しかしながら、弘晃には今日も仕事があるらしく、ふたりで一緒にいられる時間は午後3時までと限られていた。
今日は3時までで、この間は2時までだった。
その前は、午後6時までだったが、そもそもの出だしが午後3時だった。
いつもいつも、弘晃は時間になると、紫乃を速やかに家まで送り届け、自分は、その足で仕事に戻っていく。
「あ、ほんとうだ。もう3時ですね。そろそろ帰りましょうか?」
弘晃は、歩行者の流れから抜け出し、歩道の道路際に行くと、車道に目を向けた。いつものように、タクシーを拾って、紫乃を送ってくれるつもりであるようだった。
(でも、時間になったからって、そんなにさっさと帰ろうとしなくてもいいんじゃないの?)
(そんなに仕事が気になるんだったら、無理して時間を作ってくれることないのに……)
タクシーを止めようと手を上げた弘晃を見ていたら、紫乃は無性に腹が立ってきた。
「タクシーは、いりません。わたくし、ひとりで帰ります」
紫乃は、弘晃に背を向けると、駅の方角に向かって歩き始めた。
「いったい、どうしたのですか、紫乃さん? 」
弘晃が、慌てて後を追いかけてきた。
「どうもしていません」
紫乃は、弘晃を振り切るように、歩く速度を速めた。弘晃が、ますます困惑しながら、紫乃の後を追いかけてくる。
「すみません。なにか失礼があったのなら謝ります。だから……」
「あなたが謝る必要なんかありませんわ。お忙しくて、早く仕事に戻らなくてはいけないのですよね。ですから、これ以上、あなたに迷惑はかけられません。よって、電車で帰ります。それだけのことです」
「そういうわけにはいきません。誘ったのは僕です。ひとりで勝手に帰したりしたら、僕が貴女のお父さんに怒られます」
「そうね。うちの父の機嫌を損ねたら、中村グループは大変ですものね」
言いたくもない皮肉が勝手に口を突いて出た。さすがの紫乃も自分の言葉に嫌気がさした。振り返ると、ひどく困惑したような顔で弘晃がこちらを見ていた。
「ごめんなさい。今、ものすごく失礼なことを言いました」
「その程度の嫌味は気にしませんよ。それよりも、僕は、また、なにか、貴女の気に障るようなことをしてしまったのでしょうか。どうも、僕は気が利かなくていけません」
「いいえ。あの……違うんです」
紫乃は激しく首を振ったあと、うつむいた。
そんなに素直に弘晃に反省されては、こちらが困ってしまう。
男性が仕事で忙しくするのは当たり前。自分の父親のように仕事と女のどちらにも命がけならば、まだ許せるが、仕事そっちのけで女に現を抜かすような男など、紫乃にとっては、ただの軽蔑の対象でしかない。逆に、「仕事はいいから私にかまって」などというふざけたことを男に言う女も、紫乃にとっては軽蔑の対象でしかなかったはずだ。
我に返ってみれば、紫乃はむしろ、そんな自分が一番嫌いなタイプの女がするようなことをしている自分を情けなく思っていた。
「いえ……あの、だから、別に理由はないんです。ただ、電車で帰りたいなと思っただけなんです」
紫乃は、適当な誤魔化しを口にした。
「そうだったんですか?」
苦し紛れの紫乃の言い訳を、弘晃が本気で信じたのか、あるいは信じたふりをしているのかは、わからない。弘晃は、ホッとしたように微笑むと、「じゃあ、今日は電車で帰りましょう」と、紫乃に言った。
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だが、しかし……
「え、幾らって……え~~~と、幾らを押せばいいのだろう?」
「ダメですよ、弘晃さん。最初に行き先までの運賃を確認してからです!」
紫乃は、自動券売機に並んだ沢山の金額ボタンを前にして悠長に悩んでいる弘晃を、切符を購入するために延々と並んでいる人の列の先頭から引っ張り出し、改めて列の最後尾に並び直させると、自分たちの順番が来るまでの時間を利用して、彼に切符の買い方を丁寧に教えた。
「ひょっとして、電車に乗ったのも初めてでしたか?」
車窓に張り付くように顔を寄せて、遠足に行く子供のような目で外の景色を眺めている弘晃の横顔を見つめながら、紫乃は苦笑した。




