10.結婚を前提に・・・
「え?」
きょとんとした表情で、紫乃は弘晃を見た。
「先日、あの剣幕で帰っていったから、てっきり断ってくるだろうと思っていたのに……」
「え……と、その……」
まさか、向こうから断らせることによって紫乃の父親を怒らせ、彼に中村への意趣返しをしてもらおうと思ったとは、さすがに本人を前にしては言えない。紫乃は返事を誤魔化すように、「な、中村さまこそ、なんで断らなかったんですか?」と、逆に弘晃に問い返した。
「女に……しかも、初対面の人間にひっぱたかれたなんて腹が立つでしょう?」
「いえいえ、かえって強烈な印象が残り、貴女を忘れられなくなってしまいました」
弘晃は人のいい笑顔を崩さない。どこまでも喰えない男である。
「だから、どうしても気になってね。僕のこと、張り倒したくなるほど嫌だったのですよね。ならば、なぜ断らないのですか。このまま、僕との交際を続けてもいいんですか。下手をすると、一生涯付き合わなくちゃならなくなりますよ。わかっているんですか?」
「か、構いませんとも!」
紫乃はあくまで突っ張ったが、内心では、かなり自分を情けなく思っていた。
いつもの紫乃であれば、弘晃に対して、もっと角の立たない物言いや、そつのない振る舞いが、いくらでもできたはずである。こんなふうに、わざわざ相手に喧嘩を売るような態度をとったら、ますます相手に嫌がられるだけ、弘晃に疑念を抱かせるだけではないか。それは、弘晃の「やれやれ、貴女にも困ったものだな。なんで、そんなに意地になっているのですか?」という言葉からも知れた。
(これじゃあ、ダメだ)
紫乃は内心で肩を落とした。
この男の前で平常心を保つのは難しい。紫乃の計画は、初めの初めから弘晃に疑われ、すでに頓挫しかかっている。このまま、彼との交際を続けても紫乃は更にボロを出すだけだ。彼女には、そうとしか思えなくなってきた。
(それに……)
なによりも、弘晃が紫乃の気持ちに疑いをもったのなら、その時点で、この計画は失敗だ。
(嫌な人だけど、私のことを本気で心配してくれているみたいだもの)
最後の花を活け終えた紫乃は、きちんと弘晃に向き直ると、床に両手をついた。
「すみません。このお見合い、やはり、わたくしのほうからお断りさせてください。父には、中村家の皆さまにご迷惑がかからないように、わたくしからキチンと話しますから」
弘晃は、しばらく何も言わなかった。
紫乃が頭を下げ続けていると、頭上で、弘晃が小さく息を吐く音がした。
「つまり、計画は失敗したから仕切りなおし……という訳ですか?」
弘晃に言い当てられて、紫乃は、ますます顔を上げられなくなった。
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「紫乃さんは、僕との交際を断って、また次の縁談を待つつもりなのでしょう。そして、結婚するつもりだ。違いますか?」
「……」
紫乃は頭を下げたまま息を潜めるようにして、弘晃の言葉を聞いていた。
「あれから……貴女とお見合いをした日から、僕は、ずっと考えていたんです。貴女は、自分を卑下しているわけでも、親の意向に逆らえないほど、おとなしい性格をしているわけでもないらしい。それにも関わらず、なぜか貴女は親御さんに本心を隠してまで、この縁談を無理にでも進めようとしている。つまり、貴女は、自分の意思でお見合い結婚をしようとしている。それなのに、貴女は肝心の結婚相手には無頓着であるどころか、大嫌いな奴でも構わないらしい。なぜだろう。もっと高望みしたっていいのに。もっと結婚相手に夢を見たっていいのに。それが、女の子ってものなのではないのですか」
かすかに布地のすれる音がして、頭を下げたままの紫乃の視界に影がさした。紫乃が、わずかに頭を上げると、弘晃が彼女のすぐ傍まで膝を進めていた。
「紫乃さんは、ひょっとして、結婚するのは『誰でもいい』と思っているのではありませんか。孫の年齢が貴女と一緒というほど年が離れたお爺さんでも、跡継ぎとは名ばかりの精神年齢が10歳未満の御曹司でも……」
「……」
「誰でもいいから、このさい、『僕でもいい』ってことですか?」
「……」
「図星……ですか?」
弘晃の声に、笑いが混じった。
紫乃は答えられなかった。
「いったいなにを企んでいるのですか。いや、失礼。言い過ぎましたね。紫乃さんは、いったい何を手に入れたくて、こんな投げやりなことしているんですか?」
「この家を出て、自由が欲しいのですか。でも、先ほど妹さんたちにもお会いしましたが、皆さん、とても仲良しのようですね」
「お金ですか。それとも家柄ですか。でも、そんなものを必要としていないぐらい、貴女は強い人に見えますよ」
弘晃の問いかけに、紫乃は口を閉ざし続けた。だが、弘晃は、問いかけるのをやめてくれない。まるで、小さな子供をあやすような穏やかな口調で、静かに紫乃を追い詰めていく。
「ねえ、紫乃さん。縁があって結婚した人の死を願いながら日々を送るつもりですか。そんな人生は悲しすぎると思いませんか」
「違います。わたくし、そんなつもりは……!」
紫乃が、はじかれたように顔を上げると、思いもよらないような真剣な表情をした弘晃と目が合った。
紫乃は、話したのを悔いるように口元に手をやり、弘晃から目を逸らした。
「違うんです。確かに、わたくしは、実のないことをしている自覚はあります。でも、結婚したら、相手の方には嫌な思いはさせないように頑張るつもりでした。わたくしを嫁にもらって良かったと、その方にも、その方のご家族にも思っていただけるように、誠心誠意尽くすつもりで……」
紫乃の声が段々と尻すぼみになる。どんなに言い繕っても、紫乃が言っていることは言い訳にしかすぎない。彼女は口を閉じると肩を落とした。
「ごめんなさい。あの……、怒っていらっしゃいますよね?」
「いいえ。でも、安心しました。紫乃さんは、つくづく悪巧みに向いていないみたいですね」
全部顔に出ますものねえ。そう言って弘晃が笑った。
「どうせ、そうでしょうよ」
(また馬鹿にして……)
紫乃は弘晃の笑い声から逃げるように、顔を背けた。
「では、訳を聞かせていただけますか?」
弘晃は、足を崩すと胡坐をかいた。
「あなたには、もう、どうだっていいことでしょう。どうせ破談になるのだから」
紫乃は、そっけなく言った。訳を話したところで、彼に、わかってもらえるとは思えない。つまり、紫乃にとっては重要でも、他の誰かには一笑に付される……その程度の話なのである。
だが、弘晃はニヤリと笑うと、「誰が破談にするっていいました?」と、言った。
「思い悩んでいていることがあって、望まない結婚をしようとしているのであれば、相談に乗ろうかとも思いましたが、あなたが、結婚を望んでいて、しかも相手は誰でもいいというのであれば、それならそれでいいですよ。当初の予定通り、僕と結婚すればいい」
「すればいい……って、あなた、そんな、他人事みたいに……」
今度は紫乃が慌てる番だった。
「あなたこそ、何を投げやりなことをおっしゃっているの。自分の人生でしょう。一生のことよ。もっとちゃんと考えて決めないとだめですわ」
「まあ、いいじゃないですか。これも、何かの縁。僕にしてみれば、貴女と結婚できるなんて、宝くじに当たった以上に幸運なことです」
ふたりの言っていることは、いまや、すっかり逆転していた。しかも、弘晃は、紫乃の説得を、すべて軽口で受け流すつもりでいるようだった。
「中村さま。もっと、真剣に考えてください!」
「僕は、とても真剣ですよ。貴女にしたって、ヨボヨボのおじいさんや、継いだとたんに会社をつぶしてしまうようなチンピラくんに比べれば、僕のほうがマシだと思いませんか?」
「そりゃあ……」
「あ、でも、誰でもいいから結婚したいという理由は、できたら教えてほしいな。結婚したとたんに、食事に毒でも盛られたら堪らない」
「そんなことしません。あなたの命なんてほしくはないわ!!」
「それならば安心ですね。じゃあ、この件は、これで決定ということで」
「え、ちょっと待って。勝手に決めないでっ!」
だが、これ以上、のんびり話してはいられなかった。ノックの音がして、女中頭が顔を出した。
「失礼いたします。中村さまの秘書の坂口さまという方が、中村さまをお迎えにみえられました」
「なんてことだ。もうここを嗅ぎつけたとは……」
どうやら、弘晃は、内緒で仕事を抜け出してきたらしい。彼は立ち上がると、「では、せっかく結婚するのですから、今度は……ちょっと予定がたたないので、『いつ』とはハッキリ言えませんが、親睦を深めるべく今度はデートでもしましょう」と早口で言いながら、慌しく帰っていった。
呆然と弘晃を見送る紫乃に、「お姉さま、よろしかったら、これどうぞ」と、橘乃が、見るからに頑丈そうな大きくて新しいクッションを差し出した。紫乃は無意識にそれを受け取ると、右手の拳でクッションを叩いた。
紫乃のパンチなど痛くもかゆくもないとイキがるかのように、クッションは、パホンという、間抜けな音を立てた。




