1.申し分のない相手?
「君にとっては、またとない、いい話だと思うのだけどね」
仕事から帰るなり、6人いる娘のうち長女の紫乃だけを自らの書斎に招きいれた彼女の父…六条源一郎は、相好を崩しながら傍らに控える若い男性秘書に目配せした。ひだのたっぷりある深いグリーンを基調としたカーテンの陰に埋もれるようにして立っていた秘書の葛笠は、不自由な足を軽く引きずりながら数歩進み出ると、大きめの茶封筒を彼女に恭しく手渡した。
「お見合いですか?」
手渡された封筒と父の笑顔を見比べるように視線を動かしたあと、紫乃はたずねた。見合いは初めてであるものの、彼女は見合い相手の見てくれに、それほど興味はなかった。彼女は、自分と同じ年代のごくごく一般的な少女のように、未来の夫に夢なんぞ描いていない。渡された封筒の中身を確認せずに手近にあったサイドボートの上に置くと、葛笠にたずねた。
「先方は、どういうお家の方ですの?」
「中村弘晃さまは、中村グループの総帥、中村弘幸さまのご長男でいらっしゃいます」
葛笠が視線を床に落としたまま、静かに頭を下げる。
「中村グループの御曹司……」
中村物産を頂点とし、製造から輸出入、小売販売に至るまで多岐にわたる事業を展開し、数多くの系列会社を束ねる中村グループのことならば、紫乃も知っている。
「お歳は紫乃さまとは、8つ違いの27歳でいらっしゃいます」
27歳ということは、中村弘晃という男は、この秘書よりも、さらに3つか4つ歳を取っているということになる。紫乃は、相手の中村という男が、とんでもなく年寄りであるように感じた。しかしながら、彼女にとって大事なのは、見合い相手その人ではなく中村グループそのものでしかない。そして、中村グループといえば、随分と前から、経営状態があまり思わしくないという噂がある。
「この縁談は、中村グループと六条グループ、そのどちらにとっても悪い話ではない。そういうことですね?」
紫乃はたずねた。
「その通り。いまのうちに、うちが手を貸してあげれば、あの会社はきっと立ち直る」
源一郎は、二枚目俳優顔負けのハンサムな顔に、とろけるよう微笑を浮かべながら大きくうなずいた。
まず、危機にある中村グループに資金提供という形で恩を売り、婚姻による繋がりをもつことで、あちらの経営に積極的に関与する権利を手に入れる。それから時間をかけて、紫乃の夫となった次期総帥を六条側に取り込み、最終的には中村グループは六条グループの傘下に……というのが、父の筋書きなのだろう。
筋書きはわかったが、それをわざわざ父に説明して賢ぶるほど紫乃は愚かではなかった。しかしながら、紫乃がなにも言わなくても彼女がそこまで察していると、父は理解したようだ。父は紫乃に近づくと彼女の肩に手を回し、鼻と鼻がくっつきそうになるぐらいに顔を寄せた。
「さすがだね。そこまでわかってしまうなんて、僕の紫乃は、なんて賢いんだろう! 男に生まれなかったのが、本当に残念だよ。ああ! でも、紫乃は、こんなに綺麗なんだから、男になってしまったらもったいない。世界的な損失だ。なあ、葛笠、そうは思わないか?」
父がニコニコしながら、カーテンの陰に戻った秘書に同意を求める。秘書としての立場上、父の親バカ発言を笑うわけにはいかない葛笠は微妙に顔を引きつらせながら無言で小さく頭を下げた。
「お父さま。葛笠さんが困っていますよ」
紫乃は可哀想な秘書の代わりに父を諌めた。まったく、この人は、娘にまで愛嬌と色気を振りまいて、どうしようというのだろう?しかしながら、女という生き物には病的に弱いとはいえ、ビジネスで父に適うものを紫乃は知らない。彼は、紫乃を手駒に間違いなく望みのものを手に入れるだろう。
今回の見合い話は、父の会社から中村グループへの資金援助について、トップ同士の話し合いの過程で持ち上がったものであるということだった。資金援助を求める中村側のほうが立場は悪いのだから、先方は父の申し出を断りたくても断れなかったに違いない。
そのほうがいい。たぶん楽だ。
そう紫乃は思った。初めから嫌われていたほうが、後々の面倒が少ない。そんな紫乃の想いを知ってか知らずか、父は笑顔で話を続けていた。
「見合い相手の弘晃くんというのが、またいい人でねえ。なかなかの切れ者だよ。あの子がいれば中村グループも安泰だ」
「お父さまは、その方にお会いになったことがありますの?」
「会ったことはないけれど、仕事のことで、なんどか電話で話したことならばあるよ。人柄も温和そうな方だし、紫乃はきっと気に入ると思うのだけど、どうかな?」
「私に異存はございませんわ。どうぞ、お話を進めてくださいませ」
紫乃は答えた。
見合いをする。そして結婚する。
相手の男は、どうでもいい。
紫乃に迷いはなかった。
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話が終わると、紫乃は父の書斎を辞した。
彼女が住む洋風の屋敷は、広いことが一番の特徴だといえるほど広い。中央階段の磨き上げられた手すりに軽く手を添えながら、紫乃は幾分上品さを欠いた元気のよさで階段を駆け下り、吹き抜けの天井から大きなシャンデリアがぶら下がった玄関ホールに出た。屋敷の北側にある自分と母の住まう部屋に向かおうとしたとき、秘書の葛笠が彼女を追ってきた。「紫乃お嬢さま!!」という声が、玄関ホールに反響する。
「どうかして?」
足が悪い葛笠を気遣って、紫乃は自分のほうから彼に駆け寄った。
「お忘れ物ですよ」
「あら、いやだわ、私ったら…」
葛笠から渡されたものを見て、紫乃は思わず笑い出した。
それは見合い相手の写真だった。