掌編――深夜バス
駅の改札を出て、ノリアキはため息をついた。
目の前にいるはずのない人が人待ち顔で立っていたからだ。
いるはずのない人――別れた妻が。
彼女は実家の熊本へ帰ったと聞いていた。それが大阪のど真ん中にいるはずがない。
それに、もう自分には関係のないことだ。他の誰かを待っているのだろう。
そう、自分に言い聞かせて、ノリアキはバスターミナルへ向かった。
バス待ちの列はまだ短く、すぐにやってきたバスに乗り込むと無事、後ろの方に席を確保できた。
バスに乗ってしまえば、終点まで二十分は寝て過ごせる。彼にとってはそれも貴重な睡眠時間だった。
発車と同時に目を閉じたノリアキは、速やかに睡魔に襲われ――何度目かの大きなゆれで目を覚ました。
周りを見回せば、ぎゅうぎゅう詰めだった車内は8割がた空いていて、立っている客はもう一人もいなかった。
次のバス停を確認すると、彼は窓の外に目をやった。いつの間にか降り出した雨で窓はいくつも筋がついていた。
その時になって、ノリアキは電車に傘を置いてきたことを思い出した。
これで何本目だろう。またコンビにで買っておかなければ。
そんなことを思いながら外を見ているうちに、二度目の睡魔に襲われ、ノリアキは撃沈した。
「お客さん、終点ですよ」
車掌に揺り起こされてあわてて飛び降りた彼は、濡れながら辺りを見回して己の目を疑った。
「ここは……前の家じゃないか」
つい昔の癖でバスを乗り間違えたのか。いや、そんなことはない。途中のバス停を確認したのだから。
まだ自分は夢を見ているのだろうか。そうに違いない。
もうじきバスが終点に着いて、さっきのように車掌に揺り起こされるはずだ。そうすればこの夢もさめるだろう。
「おかえりなさい、あなた」
家の前に――別れた妻が立っていた。駅で見かけた時と同じ、水色のTシャツにベージュのスラックス姿。雨が降っているというのに傘もささずにじっと立ち尽くしていた。
「あ、ああ。ただいま」
もう別れた妻と夢の中で夫婦ごっこを演じているなんて、なんて滑稽な光景だろう。
そう思って一歩踏み出そうとした時、ぐいと右ひじを引っ張るものがあった。不審に思って振り向いた彼は、巨大な獣の前足が自分のひじに爪をかけていることを知った。
「な、な、な……」
「お客さん、困りますなぁ。勝手に乗り込まれては」
見慣れた制服に帽子をかぶった獣は、毛むくじゃらな顔から白い牙を覗かせながらくぐもった声で言った。人間の腕よりも太そうな縞々の尻尾がびたん、びたんと濡れた地面を叩く。
「な、なんの、こと……」
――これは夢だ夢だ夢に違いないこんな車掌がいるものか――。
「△※□列車に○☆□人間は乗れないことになってるのに、どうして紛れ込んだんだか……。これ、あなたのものじゃありませんよねえ?」
獣の車掌は牙が邪魔でしゃべりにくいのか、もごもご言って尻尾の間から細長いものを取り出した。
「これは……」
ノリアキは飛びつくようにしてそれを手に取った。白く長い柄の、赤いワンポイントの入った白い傘だった。
「妻の……傘だ」
今朝遅刻しそうになってつかんで出た傘だった。会社に着いてから同僚にからかわれたのを彼は思い出した。
「それが切符代わりになったんですな。なるほど。とにかく戻ってもらわんことにゃ」
車掌はそう言ってノリアキの手から傘をさらった。
「さぁ、早く。バスに乗って」
「あ、ああ」
巨大な車掌に促され、ノリアキはバスに引き返した。少しだけ気になって妻を振り返ったが、濡れたままじっと彼を見つめるだけで、動こうとしない。
やっぱり夢だ夢。それにしても夢にしてはディティールが凝っているな。そう思いながら、再び彼は車上の人となった。
車掌に揺り起こされてノリアキは目が覚めた。バスは何事もなく終点に着き、雨はすでに止んでいた。
けったいな夢をみたものだ、と頭をかきながら帰宅した彼は、ポストに何かが届いていることに気がついた。
あて先が真っ白なままのはがきには、別れた妻の葬儀の案内が書かれていた。