金色の揺りかご
※ 決して成人向けではありませんが、十五歳以下の方や百合要素が苦手な方には不向きの内容が含まれております。
◆ 胡蝶
ふと目を覚ましてみれば、わたしの身体は張り巡らされた糸に絡まっていた。
手も、足も、その糸に絡められていて身動きが取れない。もがけばもがくほど、抜けだす事は難しい事が分かるばかりだった。
この糸は何だろう。
昔聞いたことがあるような気がした。寂しい蛹を抜けだして、大地を走り回るのが楽しくて仕方なかった大人になったばかりのわたし達に忠告する優しい女の面影が見えた気がした。
――この世界は光に満ち溢れているけれど。
――同じだけの闇も広がっています。
――無事に大人になることが出来た幸運なあなた達も。
――一年後に生きていられる可能性は半分以下。
――忘れてはなりませんよ。
妖精の女王のような彼女の顔が薄っすらと頭を過ぎる。
目覚めたばかりだというのに、わたしの意識は何処か遠くへと逃れようとしていた。逃げ出せない身体の代わりに、現実を忘れられる夢の果てへと逃げたがっているらしい。
「起きなさい、胡蝶」
不意に声が聞こえてきて、閉じかけていたわたしの瞼がピクリと開いた。
低い女の声に聞こえた。わたし達に忠告したあの優しげな声とは全く違う女の声。何処から聞こえるのかわたしが捜すまでもなく、声の主はすぐにわたしの前へと現れた。
美しく凛々しい他種族の女のようだった。
女の冷たい手がわたしの頬に触れた。
「ここへ来るまでの事を覚えている?」
女に問われ、わたしは首を傾げた。
言われるまで思い出そうともしていなかった事に気付いた。
確か、わたしはふらふらと誘われるように歩いていたのだ。何にと言えば、匂いに。匂いというよりも、香りに。そう、甘い蜜の香りがしたから、わたしはふらふらと歩いていた。
大人になったわたしは、毎日蜜を秘める花を捜しては捕まえた。少年少女だったり、年頃の男女であったり、中性のものであったりと様々だったけれど、そのどれもが美しく、迫ってみれば甘くて美味しい蜜を秘めていた。
中には強烈な蜜の匂いを持つ者もいたけれど、そういう者には近づかないようにと優しい年長者が教えてくれたから近づかなかった。
わたしが近づいたのは、ごく当り前の蜜を持つ、一般的で美味しそうな花の香りだったはずだ。
それが、どうしてこんな事になっているのだろう。
「お前が嗅いだのはこの糸に付けられた蜜。私が捕まえて潰した花の体液だ」
その言葉を聞いて、わたしはぞっとした。
今、わたしを拘束している糸のひとつひとつに、あの美しくて可愛らしい花の一人だったものが塗り込まれているなんて、そんな恐ろしいことがあるだろうか。
いや、恐ろしいのはそれだけではない。
何故、そんな手を使って、この女がわたしを捕まえたのかが分かってきたからだ。
「驚いた? でももう遅いよ」
女の人差し指がわたしの唇を奪っていく。
恐ろしいことが起こっている。このままではわたしは殺されてしまう。けれど、もがこうとしても、糸はしっかりと絡まっていて動くことが出来ない。
暴れるわたしを見つめ、女はそっとその手を頬から胸へと這わせていく。
「残念だね。お前は運がなかった。蛹になる前に、或いは蛹になった後に蜂の子に喰われていった仲間と同じ。子孫を残すこともできずに私の糧となるだけの哀れでちっぽけな存在に過ぎなかったわけだ」
「お願い、放して」
わたしが言葉を発すると、目の前の女は一層笑みを深めた。
放してくれる気なんてあるわけがない。けれど、懇願せずにはいられなかった。
「お願い。助けてくれたら恩は忘れないわ」
「無駄だよ」
冷静な色の声と共に胸を強く掴まれて、痛みが走った。
「ここでお前を逃がした所で、また別の者に捕まるだけさ」
笑ってそう言う女の目には、わたしに対する憐れみなんてない。
言葉は通じても、通じていないのと同じだった。
これ以上、説得しても無駄だと言うことが痛いほど伝わってくる。
絶望しか見えないわたしの唇を、女の唇が奪っていった。
けれど、もがこうとしても、力が入らなかった。糸で絡められているだけではなく、身体全体が痺れているようだった。
ただじっと女の唾液が入り込む感触を味わうことしか出来なかった。
「柔らかくていい身体だ」
女は唇を放すなり言った。甘い吐息の匂いが鼻孔をくすぐってくる。
「……やだ。死にたくない。お願い、食べないで」
震えが生じて何が何だか分からなかった。
身体の痺れと共に、意識そのものが鋭い糸で締めつけられているようだった。
「諦めなさい」
女は全く動じることなく答えた。
「そんな言葉、これまでどれだけ聞いてきたと思っているの?」
女の言葉に、絶句するしかなかった。
考えてみれば分かることだ。蛹になる前、蛹になる時、蛹から抜けだした時、わたしは何度も仲間が死ぬ所を見てきた。
あれは他人事なのだと心の何処かで思ってきたけれど、あの度に当事者は苦しみ、死にたくないと叫んできたのだろう。
けれど、その声はもうとっくに忘れていた。
忘れたまま、蛹を抜けだし、大人になった。
余所へと飛び立った後、世界の何処かで仲間が喰い殺されていたかもしれない。けれど、想像して見ても、やっぱりそれは他人事だった。目の前でそうやって死ぬ者がいても、物陰から見つめ、自分だけは大丈夫だと心の何処かで思っていた。
それと同じ事。
今、こうして女に捕まったわたしを見たとしても、仲間はきっと他人事だと思うのだろう。自分だけは大丈夫。恋をして、子供を残すのだと思うだろう。
わたしだってそう思っていた。
しかし、目の前の女にとってもまた、わたしの命など他人事以下のものだと嫌でも分かる。
もう遅いのだ。わたしには運がなかった。
「それなら――」
女を見つめ、わたしは言った。
「いっそ、一瞬で楽にして」
涙が溢れてくる。
けれど、わたしが流す涙にすら、女は憐れみを浮かべたりしない。仮にそんな言葉を口にした所で、それは上辺だけのものだろう。
こんな情景なんて、女は腐るほど見てきたのだろう。
それでも、涙は止まらなかった。この涙は、止めようと思って止められるものではなかった。流そうと思って流せるものでもなかった。
「――普通はそうするかもしれない」
女は感情のないような声で言った。
「頭から食べてしまえば誰だってすぐに死んでしまう。けれど、お前の事を気に入った。その温もりと柔らかさ、そして表情と目の輝きも気に入った。どれも、すぐに命を奪えば失われてしまうものだ」
声を潜めて笑う女の姿を前に、わたしの意識は遠ざかりそうになった。
この女は、わたしをすぐには殺さないつもりだ。その衝撃が闇となって、わたしの視界を覆っていくのが分かった。その闇に意識を隠して、死を待つことこそ唯一出来るわたしの抵抗だったはずだ。
けれど、女は、ただ命を繋ぐためだけにわたしを捕まえたわけではないようだった。
女の目的が分からないことが、恐ろしくて仕方ない。
「けれど胡蝶、お前が素直でいい子ならば、殺さないでやってもいい。痛みに堪えつつ、私に忠誠を誓うのならば、考えてやってもいい」
「――本当に?」
その言葉にいきなり光が見えた。
生き延びる可能性が手に入るかもしれない。狭くて暗い死への恐怖から解放されるのならば、何でも出来る気がした。
「解放してくれるの?」
「解放は出来ない。ただ生かすだけだ。勿論、餓死させたりもしない。その時は、お前のために甘い蜜を取ってきてやる。お前は身体を、私は花の蜜を。この住まいでお前は一生、私の奴隷として過ごす。それでもいいのなら、命は奪わない」
苦しむ期間が延びるだけなのだろうか。
それでも、どんなに痛くて苦しくても、死ぬのはやっぱり怖い。わたしは生きていたかった。もっとこの目で、この頭で、世界を眺めていたかった。
それが例えこの狭い糸の世界であっても。
「死にたくないの……」
わたしの言葉に女は薄っすらと笑みを浮かべた。
その手に頭を撫でられると、不思議と安心感が生まれた。
「それなら決まりだ」
女の静かな声が、わたしの頭の中で響いた。
◆ 女郎蜘蛛
その胡蝶を見かけた瞬間、意識の半分ほどを攫われていったような魔術にかかった。
顔立ちが美しかったからだろうか。いや、それだけではない。生きた胡蝶の醸し出す色気は独特なもので、同時期に大人になった胡蝶達とは何処か違うものを感じた。
私の意識の根底にある、美と性愛の価値を具現化したかのような姿。
あの胡蝶も、やがて雄蝶を誑かし、恋に身を焦がせて、やがて卵を生んで死ぬのだろう。
その未来こそが彼女の生まれてきた目的と意味。けれど、胡蝶の姿を見て、私はその目的と意味を台無しにしてしまいたくなった。
それは女郎蜘蛛としての本能ではなかった。
食欲とは別の方面で、私はその胡蝶が欲しくなった。
捕まえて飾ってしまいたい欲望。美しい翅を持つ胡蝶を捕まえて殺し、針で刺してしまう人間の気持ちが分かったような気がした。
私はしばらく彼女を観察した。この世界は胡蝶にとってとても残酷で厳しいものだ。
何処彼処でも胡蝶は狙われており、いつ何に命を奪われるか分からない。私に何かされなくても、卵を残すまでもなく死んでしまう可能性の方が高い。
その前に、私は彼女を保護したかった。
だから、胡蝶の好みそうな愚鈍な花の女を殺し、その血で胡蝶を誘き出した。
私の思惑通り、胡蝶は糸にかかった。蜜の匂いに酔って眠る胡蝶は美しく造られた人形のようで、私はますます手放したくなくなった。
食べてしまうには勿体無い。
触っても胡蝶はすぐには起きなかった。柔らかく、瑞々しい肉体はとても美味しそうで、他の蜘蛛ならばすぐに齧りついてしまうだろうことも容易に想像できた。
けれど、私は齧らなかった。
寝ている娘を痛めつけることに魅力を感じなかった。
目を覚ました胡蝶は、予想通り私を怖がった。命を奪われるかもしれないという恐怖に震えるその姿は、背筋がぞっとするほど色気があって、美しかった。
私が触れば胡蝶は緊張して身を強張らせる。
その関わりですら、愛おしかった。
喰うには惜しい。だが、逃がして他の誰かに喰われるくらいならば、今ここで殺してしまうほうがマシだ。私以外の仲間から見れば、胡蝶などただ足の生えた肉にしか見えないだろうという事がよく分かっていたからだ。
だから私は選択を迫った。
もしも彼女が誇り高い蝶々であり私の手を払いのけるくらいならば、この場で生きたまま極限まで悲鳴を聞きながらゆっくりと喰い殺すつもりだった。
「死にたくないの……」
胡蝶は答えた。
死ぬよりも生きる方を選んだ彼女。その姿はあまりにも弱々しくて情けなくも怯えているようだったけれど、覚悟を決めたような目をしていた。
それでいい。
下らない誇りなど捨ててしまえばいい。
死にたくないどんな形でも生きていたい。そんな正直な思いを口に出来るだけでも、十分、素直でいい子だと好感を持てるものだ。
私が頭を撫でると、彼女はじっと目を閉じた。
「それなら決まりだ」
私の声に胡蝶は頷いた。
これよりどれだけの時間を共有できるだろうか。きっと、胡蝶は私を恨むだろう。死ぬまで恨み続けるかもしれない。
私の方が先に死ねば、私を嘲るかもしれない。
けれど、それでもよかった。恨まれたとしても、憎まれたとしても、怖がられたとしても、胡蝶を手元に置ける嬉しさの方が大きいと思えた。
命ある限り、胡蝶を守り続け、傍で胡蝶の命を味わい続ける。
それが、ただ生き続けることに飽きた私の唯一の楽しみとなり得ることだった。
この生活はどれだけ続くだろう。
考えても、私には想像もできない。怯える胡蝶を吊るしたまま、私はそっと太陽の光を受ける金色の糸に触れて願った。
どうか、この哀れで醜い恋のような姿のものを、抱いて守る揺りかごとなるよう。
その真意はきっと、胡蝶には一生伝わらないだろう。
伝えるつもりもなかった。
私を恨んだまま、他の胡蝶よりもずっと長生きしてしまえばいい。私の腕の中に広がる小さな箱庭で、時間も季節も忘れて、いつまでも私に怯えながら過ごしていればいい。
それこそが不器用な私の恋の形であり、この金色の糸の作り出す繊細な揺りかごに揺られる赤子そのものだった。
動けない胡蝶の唇を噛むと、甘い血の味がする。
いつもなら食欲をそそるはずのその味も、私にはただただ愛おしい者の匂い程度にしか思えなかった。
胡蝶は、ただじっと私にされるがままに身を委ねている。
それは毒と蜜、そして糸のせいだけではないだろう。
柔らかな胡蝶の身体に触れながら、私はじっくりと違う形で胡蝶の味を確かめていった。