新しい世界。中学生
僕等は桜の花が咲く土手を並んで歩いていた。年々咲く時期が早くなっているように感じられた桜だが、それでも春の代名詞であることに変わりはなかった。僕等は中学生になった。つい二時間ほど前までは、新しい中学校の敷地内で緊張していた。呼名で大きな声で返事をして起立。一学年百人程の学校であるけれど、僕等には人酔いするに十分な人数だった。堅苦しく気分の悪くなるような式典から解放され、僕等は家に戻るところだった。母親たちは先に車で帰っていた。本来なら僕等も車に乗るはずだったのだが、彼女が急に歩きたいと言ったために、僕もこうして彼女と一緒に歩いていた。桜の木々が並ぶ土手は、この時期には素晴らしい所に姿を変える。僕は今までそんなに気にしたことはなかったけれど、こうして二人で歩いていると今までと違う世界にいるようで嬉しかった。彼女は桜の木々を見つめながら、僕よりも半歩先を歩いていた。真新しい制服を身にまとった彼女の姿は、今までのそれより綺麗に見えて、僕はぼんやり彼女を見つめることしか出来なかった。何となく以前から彼女は大人びて見えていた。それが制服を着ることで更に大人びて見えていた。僕には眩し過ぎる程に。
「制服、似合ってるね」
不意に彼女はこちらを振り返って僕に話し掛けた。
「紗世こそ、良く似合ってるよ」
僕は微笑みながら言ったつもりだったが、自分がどんな顔をしているのかまでは分からなかった。もしかしたらその微笑みもぎこちないものになっていたかもしれない。
「ありがとう」
それでも彼女は嬉しそうに、少し恥ずかしそうにそう言うと、走り出した。僕も彼女を走って追いかけていた。体が考えるよりも先に動いていた。もしかしたら、彼女との距離を開けたくないという感情の現れだったのかもしれない。彼女は少し走ったところで立ち止まり、僕が追い付くのを待っていた。
「来週から中学生だよ。私たち」
笑顔でそう言う彼女を僕はどんな顔で見ていただろうか。嬉しさと共に不安が渦巻いた胸中で、僕は笑うことが出来ていただろうか。そんな僕の胸の内を知ってか知らずか、彼女は優しい笑みを浮かべたまま言葉をつなげた。
「私は和弘君とずっと一緒だよ。だって、約束したじゃない」
“約束”あの日二人の間で交わされた約束。それが、これからもずっと一緒、というものだった。あの時ほど自分の感情のままに動いたことはないだろうと思われた。しかしそれが二人の答えだった。お互いが必要としている存在。今はそれだけで十分だった。僕は出来るだけの笑みを彼女に向けた。彼女も笑顔を崩さないまま大きくうなずいていた。
新しい学校、新しいクラスメイト、新しい教師。何もかもが新しい中にあって、ただ一つだけ違う存在。それが彼女だった。その時の僕にとって彼女は、落ち着きをくれる存在でもあった。新しい世界に息を詰まらせる僕を、彼女は優しく包み、落ち着かせてくれる。僕はこの時ほど彼女の存在に助けられたことはなかっただろう。中学に入っても彼女とは同じクラスだった。だから昼休みも放課後も、僕等は不自由することなく同じ時間を過ごしていた。そんな僕等をからかう生徒がいたことは、言うまでもない。しかし僕等にとってそういったことをする他の生徒は、ただの騒いでいる人としか映らなかった。人のことよりも自分のことにおわれていた僕等は、自分たちのことで手一杯になっていた。それでも、二人でいる時間は大切にしようと僕等は務めていた。
ある時、僕は彼女と付き合っているのかと、とある男子生徒に聞かれた。僕はどう答えるべきか悩んだが、付き合ってはいない、と答えた。その男子は満足したように僕の前から姿を消したが、僕はその姿に胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
そのことが何を意味していたのかはすぐに分かった。彼女が帰宅途中に僕に教えてくれた。例の男子生徒が、彼女に付き合ってほしいと告白したそうだ。それを聞いた途端、僕は血の気が引くのを感じた。その男子生徒はサッカー部で運動神経もよく、勉強も程々にできるという噂だった。それに比べ僕は、運動神経など持ち合わせておらず、目立ちもしない、むしろ地味という言葉が具現化したような存在であり、何も華はなかった。そんな僕が、その男子生徒に勝てる見込みはまずなかった。それを感じた時、僕はどうしたら良いか分からなくなり、頭が真っ白になっていた。僕は、彼女の胸の内を知りたかったが、それを聞くのが怖かった。僕が何も言わないのを感じ取ってか、彼女が足を止めた。
「大丈夫?」
僕は何とも答えることが出来なかった。ただ無言で、俯くしか出来なかった。
「心配してるの?」
僕は言葉を出す代わりに首を縦に振った。僕は何か言おうと顔を上げ口を開きかけたが、結局何も言えず、また俯くしかなかった。
「心配しないで。大丈夫だから」
僕は何て言えば良いのか分からずに、ただ黙って彼女の次の言葉を待っていた。いや、待つことしか出来なかった。
「今日は家に寄って行かない?」
彼女の勧めに従って、僕は久しぶりに彼女の家に上がった。彼女の部屋は以前来た時とそれほど変わってはおらず、以前の様にすっきりと片付いていた。僕は彼女が着替えを終えるまで部屋の外で待っていた。彼女は別に中にいても構わないと言ってくれたが、僕がそれを断って部屋から出た。僕には、自分がそこに居ても良い存在であるのか答えが見つけられなかった。自分に自信が持てなかった。彼女が着替えを済ませて部屋から出てきたのは数分後だった。ベッドに並んで座った僕等は、数分間は口を開くことはなかった。長い沈黙の後、先に口を開いたのは彼女の方だった。
「そんなに心配?」
優しく、透き通るような声だった。僕は俯き、ただ首を縦に振った。
「そんなに心配しなくても良いのに。私はあの人と付き合う気はないよ」
「それだけじゃ、ないんだ……」
僕は小さく呟いていた。その声は消え入りそうなほど小さなものだった。
「僕は、自信が持てないんだ……」
小さく呟いた僕は、何だか泣きそうな気がした。泣きたかった。大声で泣きたかった。
「和弘は、私にとって大切な人だよ」
彼女は優しく言ってくれた。だけどそれが答えにはならない。
「僕にとっても、紗世は大事な人だよ。だけど……」
彼女は僕の次の言葉を待っていた。優しい眼差しで、僕が次にいう言葉を待ってくれていた。
「だけど、僕には紗世と一緒にいて良いのか分からないんだ。僕のせいで紗世が迷惑するなら、僕はいない方が良いし。……僕なんかじゃ、釣り合わないんだよ」
僕はやっと思っていることを口に出すことが出来た。しかしそれで紗世を傷つけたかもしれないと思った時、僕は涙をこぼしていた。涙が止まらず、嗚咽がこみ上げてくる。そんな僕を、彼女は優しく抱いてくれた。僕が以前彼女にしたように。
「何言ってるの。私には和弘が必要だよ。和弘が思っている以上に、私は和弘に助けられてる。私のことをそこまで考えてくれてくれるのは嬉しいけど、もっと貪欲になったって良いんだよ。私、知ってるよ。和弘の良い所、いっぱい」
僕は何も言えなかった。只々、彼女の腕の中で声を殺して泣いていた。そんな僕を、頭を撫でながら彼女は優しく抱いてくれていた。あの時ほど、彼女の体温を温かいと感じたことはなかった。
落ち着いた僕は、まず彼女に謝っていた。
「こんなことをして、ごめんね」
「謝らなくても良いよ。お互いに助け合ってく、そう決めたでしょ?」
彼女はにっこりと笑うと、もう一度僕を抱き締めた。僕も、彼女の存在を忘れないようにするかのようにしっかりと抱いていた。
その後聞いたところによれば、彼女は告白されたその時に返事を出したそうだ。“ありがとうございます。でも、すみません。”彼女らしい、しっかりとした物言いだったに違いない。何故と食い下がる相手に、彼女はこう告げたそうだ。“私には待っている人がいます。その人はあなたの様に運動が出来る訳でも、人から注目されるような人ではありません。ですが、その人にはあなたの思いを越える思いがあります。そして私にも、その人を待ち続けるだけの思いがあります。だから、私はその人を待つのです。”まるで役者の様な台詞で、中学生が言ったようには思えない言葉だが、それが彼女の気持ちなのだと解れば、誰もが納得するだろうと思えた。僕以上に、彼女のことを知っている人はいない。そんな気持ちを胸に、僕は彼女の傍にいた。
時に励まし合ったり、時に喧嘩もしたり。僕等はそうして成長してきた。そして中学も三年目になった。僕等二人の関係は依然として変わることなく続いていた。クラスも三年間一緒という幸運に恵まれ、お互いを常に傍に置いていた。中学三年は高校入試に向けても動きが加速し、受験の近さを思い知らされていた。しかしそれ以前に、中学最後のビックイベント、修学旅行が控えていた。行先は京都・奈良。修学旅行定番の地であるが、そんなことよりも、僕にとっては彼女と共に行ける旅行という意味合いの方が大きかった。班も自由編成され、僕と彼女は同じ班となっていた。班長は京都への旅行経験がある僕がなり、彼女は学習委員という立場になっていた。それぞれが分担された仕事を行っていたが、この準備期間は二人で色々と考えを巡らせ、計画を立てていた。無理のない計画を立てる為に、僕は全力でことに当たっていた。まずは自分でプランを立て、それを彼女に提示して修正個所を修正し、後の班員に回して最終チェックをした。入念な準備が功を奏し、僕等の班は一番早く行動日程を提出することが出来た。準備に充分な時間を割き、徹底的にやったためか、現地でも特に問題が発生することも無く、上手く進めることが出来た。一つだけ影を残したのが、最終日に彼女が熱を出したことだった。最後の最後まで我慢し続け、帰りの新幹線の中で寝込む形となっていた。僕は落ち着いて座っていることが出来ず、先生に頼み込んで彼女の傍についていた。苦しそうにする彼女を見ていることしか出来ない自分が腹立たしくて、彼女の体調について気付かなかった自分が情けなくて、僕は自分が許せなかった。ここまで彼女に無理をさせていたのかと。何故気付けなかったのか。僕は悔やんでも悔やみきれなかった。
後悔が残ったまま、僕は彼女の家に向かっていた。修学旅行から帰ってきた次の日だった。彼女はまだベッドで横になっているという。しかし彼女の母親の話では、だいぶ良くなり、食事ものどを通るようになったという。僕はリンゴをもって彼女の家に出かけた。
彼女の家に着き、呼び鈴を鳴らすとすぐに母親が出てきて、僕を部屋に通してくれた。熱はもうないということで、無理をしない程度であれば起きていて大丈夫だという。僕が彼女の部屋に入った時、彼女はベッドの上で何かの雑誌を読んでいた。人が来る気配に顔を上げたのか、僕と目が合った彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
「体の具合はどう?」
「だいぶいい。もう熱もないし、来週には学校も行けるよ」
彼女は嬉しそうに微笑みながら言うと、手元の雑誌を僕の方によこした。
「空を飛べたら、どこに行きたいかな?」
そう言う彼女の瞳は輝きを持っていた。空に対する憧れ。あの空を飛ぶことが出来たら。そう彼女は考えていたのだろう。
「紗世はどこに行きたいの?」
僕は雑誌の記事をめくりながら彼女に聞いてみた。
「私はね……。争いごとの無い、平和な世界に行きたいな」
少し俯き加減にそう呟いた彼女の瞳は、ほんの少し潤んで見えた。
「平和な世界か……」
僕も不意に呟いていた。“平和な世界”それはどこかにあるのだろうか。それに、そんな世界がこの世の中に現れるのだろうか。僕は考えてしまう。
「私はね、この空がつながっているように、世界中の皆の手がつながるような、そういう世界になったらいいし、そんな世界に行ってみたいな」
そう呟いた彼女の瞳は何か遠いモノでも見るような光があった。夢を追い続けるような瞳の光が、彼女の目にはあったのを、僕は覚えている。
彼女は中学三年の初めには、自分の目指すモノ、やるべきものを見出していたのかもしれない。それが彼女を新しい世界へと誘っていった。