始まり。小学生
僕がとある女の子を好きになったのは、小学校四年の時だった。その子は東京から引っ越して来たと言った。その当時の僕には、彼女の親の仕事の関係での引越し、ということしか分からなかった。しかしそんなことは当時の僕にはどうでも良かった。僕は一目で彼女に好印象を持った。髪が肩ほどの長さで整えられ、ストレートに流した髪が風に吹かれると、まるで川の流れの様に美しかったのを覚えている。顔立ちも整っていて、今まで会った中で一番きれいな子だと思った。
すぐに彼女はクラスの人気者になったが、それはあくまで転校生としての人気だった。時間と共に彼女の周りから人だかりが消えていった。彼女が転校して来て一ヶ月程経った頃だった。
彼女と話をするようになったのはその頃からだ。それまで人だかりで近づけなかった僕が、その時初めて彼女と会話をしたのだ。僕には彼女が思っていることが分かるような気がしていた。転校して来て、慣れない環境で心配していて、周りを一度は多くの子が囲んでくれたけれど、時間の経過とともにその姿はなくなっていった。その流れの中で彼女の表情が変化するのを、僕は常に見てきた。初めは嬉しそうにしていた彼女も、人が少なくなると同時に表情を暗くしていったことを、今でも覚えている。そんな彼女に接してくる人間は極わずかだった。そんな時に、僕は彼女に声を掛ける決心をした。僕が話し掛けた時の彼女の顔は、今でも忘れることが出来ない。初めはビックリしたような顔を見せ、話をしていくうちに、自然と笑顔になっていった顔。だんだんと緊張が解けてくのが、僕には分かった。
その後も僕等二人は時間を見つけては話をしていた。元々お世辞にも体が丈夫だったとは言えなかった僕ら二人は、休み時間や放課後は図書室で本を読みながら談笑していた。物語から図鑑まで、ありとあらゆる本を二人で読んでいた。それが楽しくて、何時間でも二人で本を読んでいた。いつしか僕等はお互いの知識を交換し合うようになっていた。それは本の中に止まらず、新聞やニュースといった情報ツールにまで及んでいた。
もちろん、ほとんど毎日一緒にいる僕等をからかう生徒は大勢いた。しかしそんな生徒達からの視線も、二人でなら乗り越えてこられた。いつしか、僕等二人はお互いがお互いを必要とするような関係になっていた。しかし、その当時の僕等にはそれを示していくことが出来なかった。“好き”という感情をどう表現していけば良いのか、まだ分からなかった。“好き”と思ったことはいくらでもあった。けれどそれを彼女には直接伝えていなかった。それは、単に分からなかっただけでなく、言葉に出してしまったらガラスの様に砕け散ってしまうように思われたからでもあった。それに、言葉に出さなくてもこの感情はしっかりと伝わる。それは僕も彼女も同じだった。言葉を介さなくても、大きな感情は伝わっていた。お互いがお互いを理解していたから。
僕は彼女と同じ中学に入学するために勉強を重ねた。それは彼女も同じだった。二人で一緒の中学に入る。それが二人の願いであり、約束だった。
日々の会話は受験勉強に関するものが多くなっていった。図書室でも、本を読むというよりは、勉強をしている時間の方が長くなっていた。図書室が使えない時には、どちらかの家に上がって二人で勉強をしていた。二人でいる時間は以前とさほど変わらなくても、その内容はずっと濃くなっていった。勉強でない時も、彼女との話は今社会でニュースになっているものが多かった。それは受験を見越してのことでもあるけれど、それだけ社会に対して関心を持ってきたということを意味していたのかもしれない。
それだけ色々なことをやって、たくさんの勉強をしたおかげか、二人揃って同じ中学に入学できることが決まった。その喜びと言ったら、二人で抱き合うほどに喜び合ったことを覚えている。しかし僕の中には不安が生まれていた。それは、中学に入ることで広がる世界の中で、僕はこの時と同じ位置、立場にいることが出来るのか、というものだった。もしも彼女の世界の中から僕という存在が必要なくなったら、僕はどうなってしまうのか。僕は寝付けない日が続いた。しかし予想もしていなかったことが入学数日前になって起こった。
彼女が僕の家に電話を掛けてきたことから始まった。“これから、会えない?”時間にして午後の四時過ぎだった。その当時の僕の家での帰宅時間は夕方五時であった。時間はさして無い。僕は急いで彼女の家へと向かっていた。自転車で五分程。彼女の家に着いたのは四時十五分頃だった。玄関から彼女の母親に彼女の部屋まで通された。いつもだったら彼女自身が玄関まで出て来ていたが、それが無いところを見て、僕は一段と焦った。彼女の部屋はいつもと変わらず、物は片付けられたすっきりとした部屋だった。ドアから見て左側に机があり、その反対の壁沿いにベッドが置かれている。彼女はそのベッドの上で足を抱え込み、俯いていた。僕には、彼女がなぜ僕を呼び出し、呼び出した彼女は何故こうしているのか分からなかった。僕はゆっくりと俯く彼女のところまで行き、ゆっくりと彼女の横に座った。僕が座ったことを確認したのか、彼女は小さな声で話し出した。
「ごめんね。呼び出しちゃって……」
「そんな、別に大丈夫だよ。それより、どうしたの?」
僕は出来るだけ優しい口調で、彼女に何故僕を呼び出したのか聞いた。
「……怖くなったの……私……」
「えっ……」
僕には初め彼女が何を言っているのか解らなかった。しかしこれを言った後、彼女が泣いているのが分かったために、僕は言葉をつなげることが出来なかった。少しの沈黙の後、彼女が改めて口を開いた。
「ごめんね……。何が言いたいのか、分からないよね……」
嗚咽を堪えながら話す彼女に、僕は何を言えば良いのか分からなかった。だけど、僕は今までもそうしてきたように、自分にも、彼女にも本心を話そうとした。
「僕も、怖いよ……」
それまで俯いていた彼女は小さく顔を上げ、僕の横顔を見上げていた。
「僕も、怖いよ……」
僕は小さく、今さっき言った言葉を繰り返していた。僕も彼女に目線を合わせた。二人の視線が繋がり、その瞳の奥にある感情を感じ取る。数秒の時間がもっと長く感じられる。先に口を開いたのは僕だった。
「僕はね、紗世と同じ中学に行けるのは嬉しいけど、そこで今の僕を失いはしないか、それが怖いんだよ。いつまでも僕は紗世の傍に居たい。だけどそれが叶わなくなったら、僕はどうなってしまうのか、それが、怖い……」
僕は出来る限りゆっくりと、優しく言った。それが僕の気持ちだったから。彼女は涙目のままだったが、その瞳は真っ直ぐだった。
「私も、同じ……。和弘君との関係が、壊れちゃうんじゃないかって。考えてたら、怖くなっちゃって……」
彼女は嗚咽を堪えながら、必死に胸の内を打ち明けてくれた。二人とも、考え、不安になっていたものは同じだった。お互いがお互いの存在を失いたくなかった。僕は黙って彼女を抱き締めた。優しく、力強く抱き締めた。
「大丈夫だよ。僕は紗世の傍にいる。ずっと傍にいる」
「うん……」
彼女は僕の腕の中で涙を流しながら、頷いていた。僕はそんな彼女をずっと抱き締めていた。失いたくないという感情が、お互いの存在を確かめ合うように、僕等は数分間そのままだった。