第九話 夢と現
怜治は前髪を掻き上げながら、健一に尋ねた。
「ドア、どんどんやってたか?」
「は? いや」
言って、健一は首を振る。
「夜中だし、あんま煩くできねぇから。ただ、ドア開けようとして押してはいたけど」
「……そうか、そうだよな」
「どうした?」
そう声をかけられて、怜治は大きく息を吸い込んだ。そして吐き出す息と共に、
「随分長いこと、階下にいたんだな」
僅かばかり非難めいて言う。
「それがさ、インスタントコーヒーなくて、豆しかなかったからミルで挽いてたんだけど、随分遅くなっちまったな」
悪い、悪い、と苦笑いしながらドアを閉めて、手にしていたマグカップの一つを怜治に手渡した。
「あ、サンキュ」
健一はベッドに腰掛けながら、
「それよりどうしたよ? 寝ないって言ってたのに、やっぱり眠くて寝オチしたか?」
言いつつ、コーヒーを啜った。と、そこで思い出したように言う。
「あ、コーヒー沢山煎れてあるから、なくなったらコーヒーメーカーから勝手に入れてきていいからな」
「……うん、分かった」
答えたが、覇気がない。
それに不信感を覚えたか、健一が声をかけてくる。
「なんかあったのか? 酷い顔して……」
そう口にして、急にはっとして口を噤み、恐る恐る口を開く。
「夢、見たのか?」
ここまできて怜治も隠すつもりはなかった。隠すだけ無駄だからだ。それどころか、隠せばもっと悪くなると思えた。だから健一の問いに頷く。
「『華』……か?」
「多分。華緒って言ってた」
「華緒?」
それにもう一度頷いて、今さっき見た夢の内容を話した。真夏だというのに、粟肌立つ身体を少しでも温めようと、マグカップを両手で握り締める。
「どこまでが現実で、どこまでが夢か分からない。それにあいつ、俺の名前知ってた」
それを聞いて、健一はすまなそうに肩を落とした。
「それは多分、俺のせいだ。話したろ? 俺が今朝見た夢。あの夢の中で怜ちゃんの名前呼んだんだ。だから知ってるんだと思う。きっと月姫が教えたんだ。……ごめん」
すっかりしょぼくれた健一に、怜治は言った。
「そうか。それで知ってたのか。……いや、いいんだ。健ちゃんのせいじゃない」
それに、と付け加える。
「あいつらに俺の名前そのものが知られたわけじゃないし」
「……どういうことだ?」
「怜治って名前が知られたわけじゃないってことだ。あいつ、俺のこと、『れいちゃん』って呼んでたから」
「それが……何?」
不思議そうにきょとんとする健一に、怜治は少し笑んで言った。
「名前には魂が宿るって話、聞いたことないか?」
その話に健一は、「いや」と言って首を振る。
「名前には意味があるだろ? それはその人そのものを表す言葉だ。名前は霊魂の宿る言葉だって言われてる。『真名』ってやつだ。でも俺の名前をあいつらに知られたわけじゃない。だから多分、大丈夫だ」
健一は目をしばたたかせて、不思議そうにしているままだ。
それを見返して怜治が更に言う。
「意味、分かんないか?」
「いや、理解は出来た。でもさ……」
「怜ちゃんって呼び名がばれても構わない。怜治って名前じゃなきゃ」
「まぁ、確かに『怜ちゃん』はただの呼び名だからな……」
「なんか、あいつらに怜治って名前が知られたら、俺、何かされそうな気がする」
「どういうことだ?」
怜治は考え込む風に一度口を噤んでから、改めて口を開いた。
「なんて言えばいいんだろうな……自分でもよく分からないけど、勘みたいもんかな。とにかく、何かされそうだなって」
「何かされる……?」
呟くように言って、急に健一は何かを思いついた顔になった。
「だったらこうしねぇか? もしあいつらに名前を言わなきゃならなくなった場合、別の名前を名乗るってさ。……そうだな……」
健一は顎に手を添えて考え込む。
「俺は……建治、怜ちゃんは怜一って言うのはどうだ?」
「名前の下を取り替えるのか。……そうだな、もし本当に名乗らなきゃならなくなったら、そう名乗ろうか。どうせあいつら、俺の呼び名しか知らないしな」
お互いに目を見交わし合い、頷きあった。それからコーヒーを飲む。
コーヒーを飲んで人心地つくと、怜治はぽつりと呟いた。
「それにしても嫌な夢だったな」
それを健一は黙って聞いていた。
怜治はそのまま零すように呟き続ける。
「でも、なんであいつ、手が赤かったんだろう。絵の具でも塗ったみたいに真っ赤だった」
「なんだろうな」
健一がその言葉に考え込む風に言う。
「分からない……」
そのまま会話は途切れてしまった。二人共、華緒の手が赤い理由を考えたが、その理由は思い当たらない。全く見当もつかないのだ。
そうして暫くしてから、健一が口を開いた。
「とにかくあいつらは、俺の足に跡を残すぐらいには現実世界に影響のある夢を見せるからな。気が抜けない」
「俺も知らない間に眠ってた。少しも眠くなかったのに……。そう考えると、かなり影響力あるんだな。……出来ることなら、このまま人形供養が出せるってことになって欲しいけど。ほかの寺でもいいから」
「そうだな。返事は明日に繰り越しだもんな。今夜は気をつけなきゃならねぇな」
それに対して、怜治は頷いてみせた。続けて言う。
「今夜くらいは寝ないで過ごしたい。もし俺が寝たら、すぐに起こしてくれ。健ちゃんが寝たら、俺が起こすから」
「分かった。俺も変な夢は見たくねぇからな」
そう返して、またコーヒーを一口口に含んだ。コーヒーの苦さが舌の上に広がる。それが眠気を遠ざけてくれるような気がした。
それを見て、怜治も再びコーヒーを口にする。コーヒーは少し濃いめで、一口一口がまるで目を醒ましてくれるようだ。
「それにしても、あいつら、なんだって俺達の目を欲しがるんだ?」
健一が一番の疑問を口にした。
だが、怜治にはそれに答えることは出来ない。
「月姫が、『お婆様はくれなかった』とか言ってたけど、婆ちゃんのことかな?」
「分からない……どういうことなんだか」
「俺達の目がなんだってんだ。お袋だって同じ目を持ってるのに」
「母さんもだ」
そこで重苦しい沈黙が落ちる。
暫し互いにコーヒーを飲みあったが、やがて健一が口を開く。
「でも、目をつけられたのは俺達なんだよな」
それに怜治も黙って頷き返した。
どちらからともなく、深い溜息が漏れた。
そのあとは、時々他愛ない会話を挟みながらコーヒーを飲みつつ、健一と怜治は漫画を読んで過ごすことにした。時折、息抜き程度にスマートフォンでパズルゲームなどをして、朝が来るのをじっと待った。
朝日が昇るのを待つ為にカーテンは開け放たれ、網戸だけにしておいたが、ある瞬間、網戸にあり得ないものがぶら下がったのに怜治は気付いた。それは丁度、本のページを捲ろうとしていた時だった。
スマートフォンのゲームで遊ぶ健一の背後に、突然、人がぶら下がったのだ。
薄桃色の振り袖。振り袖の中の桜がひらひらと舞って、その先にある両手は真っ赤だった。そしてあの硝子の瞳が健一を睨み付けるように見詰めている。
「健ちゃん、後ろ!」
反射的に大声で叫んでいた。
指摘された健一が顔を跳ね上げ、背後を振り返る様がスローモーションのように見えた。まるで粘度の高い水飴の中にでもいるようにゆっくりと。そして、背後を振り返った健一が上げた叫び声も、水を通したように歪に聞こえる。
次の瞬間、健一が水飴の中から抜け出し、物凄い勢いでベッドから転がり落ちた。
「な、なんだ、あれ!?」
健一は尻で這いずって、ドアに背をぶつける。
「華緒だ……!」
怜治が掠れた声を上げると、窓に逆さに張り付いた華緒は目をきろきろと動かし、怜治と健一を見比べた。そうして、よくよく見ないと分からないほどの申し訳程度に紅が引かれた唇を、にやぁと笑ませる。だが、やはり真っ黒な大きな目はまるで笑っていない。硝子玉を嵌め込んだように、ただそこにあるだけだ。なんの色も浮かばない。長い黒髪は、逆立つように垂れ下がっている。
それを見遣って、健一が震える声を出した。
「なぁ、俺が寝てるのか?」
「分からない。俺が寝てるのかも知れない」
怜治も震える声で答える。
そんな二人をきろきろと見て、華緒は真っ赤に染まった右手を網戸に突っ込む。が、差し込まれたはずの指先から腕は消えていく。網戸から内側には入っていないのだ。
しかし、腕は意外なところから現れた。
ドアだ。ドアからゆっくりと腕が生えてくる。そして、健一の喉輪にぐっと絡める。
「……っ」
一瞬で健一の息が詰まった。
それは物凄い力だった。首を絞められた時、咄嗟に両手で引き剥がそうと爪を立てたが、冷たい腕の感触がするだけでびくともしない。
そこに怜治の力も加わるが、どうやっても外れそうになかった。
「健ちゃん! 健ちゃん、しっかりしろ! 今外してやる!」
健一も怜治も渾身の力を込める。怜治は腕を掴んだまま、ドアに足をつけて突っ張ってみるが、それでも外れない。
そのうち、健一の目から力が抜け落ちていくのが分かった。呼吸を止められ、血流の流れさえ止められて、意識が朦朧としていったのだ。
その時、腕の角度が変わった。真っ赤に汚れた手が健一の顔に這ったのだ。指先で左目を探ろうとしていることに気付き、怜治はそこであることに気がついた。
この腕は本体ではないのだと。本体は窓の外にいる。それを思って腕から手を離し、窓に向かった。
ベッドに上がり網戸を力任せに引き開けると、その先にいる華緒に殴りかかったのだ。




