13:机上の影
旗艦であるルミナスの後部甲板にも、戦いの傷跡が色濃く残っていた。
天井の照明パネルが半分しか点灯せず、薄暗い光が甲板の傷だらけの床を照らしていた。焦げた金属の匂いと、油と血の混じった臭気がまだ薄く漂い、換気システムが低い唸り声を響かせている。
そこら中に損傷した艦の修理部品が散らばり、整備士たちの疲れた足音が遠くに聞こえる。
そんな静かな空間に、旧第一艦隊に所属する小型艦がゆっくりとドッキングを終えていた。
ルーディは甲板の端に立ち、ロペス中将の姿を待っていた。
彼の軍服は戦いの汚れが残り、左腕の外骨格デバイスは、戦いの中でいつの間にか壊れ、力無く垂れ下がっていた。表情はいつもの面倒くさげなものに戻りつつあったが、瞳の奥にはまだ戦いの余熱がくすぶっている様子だった。
やがて、艦内通路から重いブーツの音が近づいてきて、カミラ・ロペス中将が現れた。
彼女の軍服は左肩から胸にかけて黒く焦げ、左腕を三角巾で吊っていた。顔は青白く、唇に血の気はなく、しかし背筋はまっすぐ伸びていた。
ロペスの後ろには、第一艦隊の生き残った士官たちが数人、静かに従っていた。彼らの軍服も同じく傷つき、目には深い疲労が刻まれていたが、誰もがルーディの前に立つと静かに敬礼した。ルーディは無言で敬礼を返し、ロペスと視線を合わせた。
ロペスはゆっくりと歩み寄り、ルーディの前に立った。二人の間には、言葉を超えた戦友としての絆がすでに生まれていた。ロペスは小さく息を吐き、静かに口を開いた。
「……クラウス准将。世話になったわね、本当にありがとう」
ルーディは静かに頷いた。
「お礼を言うのはこちらの方です。第一艦隊の協力がなければ、ラマーン帝国軍と戦うことすら出来ませんでした。大事な部隊を預けて頂き感謝申し上げます」
ロペスはわずかに目を伏せ、左腕を軽く押さえながら続けた。
「私の艦隊は元の形を失ってしまったが、生き残った私達は直ぐにハイデルに戻らなくてはいけない。そこでどういう判断が下されるかはわからないが、遺族に対して、私に出来得る限りを尽くそうと思う」
ルーディは無言で頷き、ロペスは少し間を置いて、顔を上げた。その瞳には、静かな決意が宿っているようだった。
「クラウス准将。ハイデルで、また会いましょう。今はお互い立場は違えど、同じカルデニア国民であることに違いない。私も昔のカルデニアに戻れるように微力ながら協力させてもらう。今度会う時は、ゆっくり飯でも食べながら、貴官の戦術論でも聞かせてくれ」
ルーディの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。それは、いつもの愛想笑いではなく、戦友への素直な笑みだった。
「約束します」
二人は互いに右手を差し出し、固く握り合った。掌は熱く、汗と血の感触が混じり合っていた。ロペスは手を離すと、静かに敬礼した。ルーディも敬礼を返し、二人はしばらく視線を交わしたまま立っていた。
ロペスはゆっくりと背を向け、旧第一艦隊の部下を率いて、ドッキングされている小型艦の中へ歩き出した。ブーツの音が遠ざかり、扉が閉まる音が響いた。
ルーディは一人残された甲板で、静かに息を吐いた。胸の奥に、別れの寂しさと、戦闘が終わった安堵感と、次の戦いへの決意が複雑に混じり合っていた。
彼はゆっくりと艦橋へ戻る通路を歩き始めた。背後では、整備士たちが静かに作業を続け、ルミナスはゆっくりとハイデル軌道を目指して進んでいた。
ルミナスの艦橋は、戦いの熱が冷め始めた後の、独特な静けさに満ちていた。
照明が徐々に通常の白色に戻ると、壁面に残る黒い焦げ跡や、床にこびりついた乾いた血痕が、くっきりと浮かび上がった。
空気にはまだ硝煙と焼けた配線の匂いが薄く漂い、換気口から入る微かな風がそれをゆっくりと攪拌している。
乗組員たちは疲労で肩を落とし、コンソールの前に座ったまま動かない者もいた。
指先がキーボードを這う小さな音、誰かが水筒の蓋を開ける金属音、時折誰かが深く息を吐く音…そんな細かな音だけが、空間を埋めていた。
ルーディは司令席に体を預け、背もたれに頭を預けたまま天井を見上げていた。まぶたの裏に、さっきまでの戦闘の残像がちらつく。爆発の光、シールドが砕ける音、通信から聞こえてきた悲鳴。それらが頭の中で反響し、胸の奥に鈍い痛みを残していた。彼はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸った。肺に残る焦げ臭さが、現実として戦争を闘ったことを示し、周囲の静けさが、その戦いが終わったことを実感させる証だった。
その時、通信士の声が静かに響いた。
「准将、後方ドックに所属不明艦がドッキング許可を求めてきました。アビスと名乗っています。」
ルーディはゆっくり目を開け、通信士の方を向いた。その目は、疲労の底からわずかに光を取り戻していた。
「……許可しろ。すぐに艦橋へ通してくれ」
通信士が頷き、指示を飛ばす。
数分後、艦内通路から複数の足音が近づいてきた。
重いブーツの音と、引きずられるような足音が混じっている。
扉が静かに開くと、まず目に入ったのはアレクセイ・ヴォルフを先頭にしたAbyssの面々だった。
彼らの服は埃と血と汗にまみれ、肩や袖口が裂け、ところどころ焦げていた。それが、ルミナスに辿り着くまでの彼らの苦労を表していた。
ヴォルフの目は疲れ切っていたが、どこか澄んだ光を宿していた。
そして何より、ルミナスの乗組員が驚いたのは、ヴォルフの後ろに、手錠をかけられたマーカス・ドゥランが立っていたからだ。
現カルデニア共和国首相の顔は土気色をしており、頰はこけ、唇は乾いて白くなっていた。
彼はルーディの姿を見ると、気まずそうに視線を床に落とし、肩を小さく震わせた。
ルーディはゆっくり立ち上がり、Abyssの面々に向かって静かに頭を下げた。その仕草は、言葉よりも雄弁に感謝を伝えていた。
ヴォルフは無言で軽く頷き返し、他のメンバーも静かに目を伏せた。
ルーディの視線がドゥランに移った。その目は静かで、しかし底知れぬ冷たさを湛えていた。ドゥランはルーディの視線を感じ、僅かに喉を鳴らした。唇が震え、何かを言おうとしたが言葉は出てこなかった。
ヴォルフがルーディに無言でデータパッドを差し出した。
画面には、ドゥランとラマーン帝国高官の暗号通信記録、青の小惑星帯の権益譲渡に関する密約文書、そしてドゥランがラマーン側に送った「王族抹殺」の指示メールなどの証拠が、時系列に纏められて表示されていた。
その様子をみていたドゥランの瞳が大きく見開かれた。顔からは血の気が完全に引き、唇が震え、膝がガクガクと震え、その場にゆっくりと床に膝をついた。
一国の首相の威厳は完全に崩れ落ち、ただの老いた男のように肩を震わせていた。彼はもう何も言い訳は出来ないと理解していた。自分の運命がもう決まってしまったことを悟ったように、深い落胆の表情をしていた。
そんなドゥランを無視するように、ルーディは艦橋の全員に向かって静かに言った。
「当分はハイデル軌道上で待機する。エデンⅣから国王陛下とシュミット首相が到着するまで、ここで態勢を整えながら到着を待つ。」
乗組員たちは静かに頷いた。誰もが、長い戦いの終わりと、新しい始まりを感じていた。
一方ハイデルでは、行方不明となったドゥラン首相に代わり、副首相のフェリシアン・ブランが急遽政治の中心に立っていた。
議事堂の地下会議室で、彼は疲れた顔で大臣たちと話し合っていた。
『エデンⅣの反乱勢力』彼らはルーディたちをそう呼んでいた。彼らにどう対応すべきか、アルメリア連邦の介入をどう説明するか、議論は紛糾し、誰もが不安げな表情を浮かべていた。
窓の外では、戦いの傷跡がまだ残る首都の夜景が、静かに広がっている。
そんな会議室に、アルメリア艦隊の旗艦から通信が入っていると報告が入る。ブランはすぐに会議室のモニターに繋ぐように指示を出すと、画面に映ったのは、アルメリア艦隊の女性司令官セシリア・ルグラン中将だった。副首相は形式的な挨拶を交わした後、ルグラン中将に感謝の言葉を述べた。カルデニア側からすれば、アルメリア艦隊の救援がなければ、そのままローゼンタール艦隊にハイデルを制圧されていたことは疑いようがない事実であり、副首相のブランを初め、周囲の大臣達も揃って頭を下げて感謝を表した。
しかし、ルグラン中将は穏やかな笑みを浮かべながらも、その言葉は冷たかった。
「感謝の言葉は結構だ。我々が救援に駆けつけたのは、あくまで軍事同盟を結ぶエデンⅣのカルデニア正統政府と、その軍隊のためだ。ハイデルの現政権とは何の関係もない。勘違いされては困る。我々アルメリア連邦は、エデンⅣのカルデニア政府こそが、正統なカルデニア政権であると認識している。彼らがハイデルを反逆者共から取り返そうとするなら、アルメリア連邦も手を貸すことになるだろう。これは私個人の意見ではない。アルメリア連邦大統領からの伝言である。この事を伝える為に連絡させて頂いた。では失礼する」
ルグラン中将の言葉は、アルメリア連邦の立場が明確に示された瞬間だった。それは現カルデニア共和国にとって、決して歓迎できるものではない。世界最大の大国であるアルメリア連邦が、自分達を『反逆者』と呼び、相反する者達の陣営に与すると宣言したのだから。
会議室は重苦しい空気に包まれていた。
天井の照明は抑えめで、壁にかけられた大型スクリーンが淡い青い光を投げかけ、長いテーブルには、ブランを筆頭に残った閣僚たちが憔悴した顔で座っている。
空気は淀み、コーヒーの冷めた匂いと、誰かのタバコの残り香が混じり合っている。
誰もがスーツのネクタイを緩め、額に浮かんだ汗を拭う仕草を繰り返していた。
窓のない部屋に響くのは、時折誰かがため息をつく音と、資料をめくる乾いた紙の音だけだった。
副首相のブランはテーブルの上座に座り、両手を組んで目を伏せていた。彼の顔は青白く、目元には深い隈ができ、唇は血の気が失せていた。
隣に座る防衛大臣は、指先でテーブルの縁を叩きながら苛立った様子で周囲を見回している。経済大臣は無駄に資料を何度も読み返し、外交大臣は腕を組んだまま天井を睨んでいた。
誰もが、口を開くのをためらっていたが、ブランがようやく重い口を開いた。
「…事実を直視しなければならんだろう。カルデニア軍は事実上敗北した。そして我々は、エデンⅣから来た反逆者……『カルデニア正統政府軍』に助けられたのだ。しかも彼らはアルメリア連邦と軍事同盟を結び、それが今回の勝利の決め手となった。」
部屋に一瞬、息を飲む気配が広がった。
国防大臣が拳をテーブルに軽く叩き、声を低くした。
「しかし、それを国民に公表するなど愚の骨頂だぞ。エデンⅣの連中に対する支持が一気に広がり、我々の立場は危うくなる。今はまだ、国民に『勝利した』という事実だけを伝え、詳細は伏せておくべきだ」
経済大臣が頷き、資料を指で叩いた。
「同感です。公表すれば、国民はすぐに『本当の勝利者はエデンⅣの正統政府だ』と考えるでしょう。万が一、国民の声に推されて、彼らがハイデルに戻って来たら、我々がドゥラン政権の下で何をしてきたか、嘘も交えてすべて暴かれることになります。それだけは避けなければならない」
外交大臣がため息をつき、静かな声で続いた。
「しかし、アルメリア連邦も絡んでいるんだ。彼らが『エデンⅣの正統政府軍を支援し、ラマーン軍を撃退した』と発表すれば、隠し通すことは不可能だ」
会議室の空気が一気に張りつめた。閣僚たちの視線が交錯し、誰もが自分の保身を一所懸命に考えているのが手に取るようにわかった。
そんな様子を会議室の隅で眺めていた30代の若い男が突然立ち上がった。国防大臣政務官を勤めるマルコ・ロッシーニだった。彼は顔を真っ赤にし、テーブルを両手で叩いた。声が震え、怒りが爆発していた。
「あんたらはこの期に及んで、まだ自分の立場が大事なのか!軍人が何十万人も死に、艦隊は壊滅し、国は深く傷ついたんだ。それでもまだ自分の椅子を守りたいと言うのか!我々はドゥランに与し、甘い汁を吸ってきただろう!その事実を隠して、何が政府だ!」
部屋が凍りついた。
誰もがロッシーニの激しい言葉に息を飲み、視線を逸らした。ブランは額を押さえ、現実逃避するように深いため息をついた。会議室にいた誰もが次の言葉を失っていた。
その瞬間、会議室の扉が勢いよく開いた。秘書官が息を切らして駆け込んできた。顔は青ざめ、手に持ったタブレットを震わせながら叫んだ。
「急報です!エデンⅣから……ジェイク王子、いえ、国王陛下に即位されたジェイク国王陛下が、ハイデルに向かっているとの情報が入りました!しかも、護衛にはアルメリア艦隊がついているそうです。報告では後2日程で到着するとのこと!」
会議室に電撃が走った。
報告を聞いた大臣達は驚き、立ち上がったまま呆然としていた。
ロッシーニの顔からは怒りの色が引いていき、代わりに強い覚悟が浮かんだ。彼は静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「国王陛下がハイデルに帰還されるのです。もはやドゥラン首相1人に責任を押し付けることは出来ない。彼を持ち上げ、支持してきた我々にも責任がある。皆さんも覚悟して下さい。自分達の過ちを認めるしかない」
副首相は目を閉じ、他の閣僚たちも、互いに視線を交わし、誰もが同じ思いを抱いていた。自分達の政治家としての人生は終わったと。
国内分裂やラマーン帝国との戦争など、紆余曲折を経て、カルデニアはまた大きな転換点を迎えようとしていた。




