第41話:学院の“第二の門”──旧校舎の影が開く
夕暮れの学院は、いつもより不自然なほど静かだった。
風は弱く、雲も薄く流れているのに、空気だけがやけに重い。
廊下を歩くたび、胸の奥に沈む魂核の黒が、警報のように細かく震えた。白核はそれを押さえ込むように、胸元でかすかな光を灯し続けている。
(……影が、近い)
靴音が石床に小さく響く。隣を歩くセリアが、そっと袖をつまんだ。
「ルイ……大丈夫?」
不安の混じった声で問いかけてくる。
「旧校舎って……なんか、怖いよ……」
(分かる。俺も正直めちゃくちゃ怖い。
ここに“本命の影門”があるって、黒が一番よく知ってる)
ルイとセリアの後ろには、ヴォルツ、アレン、ミリアの姿が続く。五人は学院裏の林を抜け、ひんやりした風に押されるようにして視界の先へ出た。
そこにあるのは、ずっと使われていない旧校舎だった。
夕焼けに縁取られた建物は、半分ほど崩れ、壁の一部は骨組みごと剥き出しになっている。割れた窓ガラスからは蔦が入り込み、まるで建物そのものを飲み込もうとしているようだ。
「……ここ、こんなに暗かったか?」
アレンが顔をしかめる。まだ日が沈みきっていないはずなのに、旧校舎の周囲だけが夜のような暗さに沈んでいた。
(影の濃度……地下封印書庫の三倍はある)
ルイの視界には、黒いもやが天井や壁、廊下の奥に薄い膜のように張り付いているのがはっきりと見えた。
『……近イ……近イ……鍵ノ器……』
耳元に粘つく囁きが触れる。
(やっぱり、ここだな)
ヴォルツが周囲に視線を走らせながら、静かな声で言う。
「学院の記録では、旧校舎には“影霊憑き”が出ると噂されていた。だが、実際にはただの噂ではなかったようだな」
「ひ、ひぇ……」
ミリアが思わずヴォルツの背中側に身を隠す。
アレンが肩越しに振り返り、小声で囁いた。
「ああ、大丈夫だ。俺が守る」
ミリアが少しだけ頬を赤く染める。
(青春してんな……いや、嫌いじゃないけどさ。今はマジでそれどころじゃない)
旧校舎の入口に近づき、ルイがそっと扉へ手を伸ばした。
触れた瞬間、魂核がぐっと脈打つ。
ドクン──。
(……本気で嫌がってる)
白核が震え、黒核は逆に“開けろ”とせがむように蠢く。
「行くぞ」
ヴォルツが一歩前に出て、重い扉を押し開けた。
ギィ……と軋む音とともに、中から冷気が流れ出してくる。廊下は真っ暗で、奥のほうから腐った空気のような湿った匂いが漂っていた。
「うわ……なに、この空気……」
セリアが思わず身を縮める。
「魔力の流れが全部……“下”に吸い込まれてる」
アレンの声も固い。
(やっぱり……第二の門は地下だな)
ルイが一歩、暗闇の中へ足を踏み入れた、その時。
天井から、何かがぽたりと落ちてきた。
ポタ……ポタ……
足元を見れば、床の上に黒い液体がじわりと染み広がっている。
(……影が液体になって落ちてきてるのかよ……)
黒い雫は床に吸い込まれるようにして消え、そのまま廊下の奥へ向かって細い流れとなっていく。
『……アア……こイ……オ前……鍵……』
囁きは、さっきよりずっと近い。耳元というより、頭の内側に直接響いてくる感じだった。
ルイは小さく息を吐く。
(完全に“誘って”やがる)
五人は警戒を強めながら、薄暗い廊下を進んでいった。足音が、崩れかけた天井やひび割れた壁ににぶく反響する。
進めば進むほど影は濃さを増し、空気の重さが肩にのしかかってくる。セリアは耐えきれないようにルイの手をぎゅっと握った。
「ルイ……見える……? あそこ……」
指さした先、廊下の突き当たり。
割れかけた窓から差し込む弱い月光の前で、“影の手”が壁を這っていた。
細長い指の形をした黒が、べたりと壁に貼り付きながら音もなく動いている。
ぞわり、と背筋が総毛立った。
「あれ……生きてる?」
ミリアが震えた声を漏らす。
影の手は、こちらを一度振り返るように形を歪めると、そのまま壁に張り付いたまま廊下の奥へと這い、ぬるりと逃げていった。
(……完全に誘導だな)
「追うぞ」
ヴォルツが短く言い、先頭を走り出す。
アレンが剣を握り直し、ミリアは魔法陣の準備をしながら続く。
ルイとセリアも、その背中を追って駆けた。
やがて、廊下の先に下へ続く階段が現れる。
階段の下から、黒い風が吹き上がり、顔に当たった。
『……コイ……コイ……鍵ノコ……』
(これ……本気でやばいやつだ)
魂核の黒が、悲鳴じみた震え方をし始める。
白核は逆に熱を帯び、セリアの手を通して光の熱が伝わってきた。
「ルイ……! これ以上は危ないよ……!」
セリアが不安げに腕を掴む。
「セリアは、無理だけはするな。……下は俺が見る」
(とはいえ、隠し続けるとは言っても……最低限は押さえないと)
ルイは胸の奥に意識を向け、白の力を少しだけ解き放つ。
黒の暴れ方が、わずかに穏やかになった。
「今の……白い光……?」
ミリアが目を見開いて呟き、アレンが振り返る。
「ルイ、今の……お前の魔法か?」
(やべ……正面から聞かれると困るんだよな)
「……ただの魔力の漏れだよ。ここ、圧がすごいから」
なんでもない風を装って肩をすくめる。
その瞬間だった。
階段の下の闇の中から、“門の音”が響いてきた。
ゴォォォォォン……。
重く、深い音。世界の底から鳴っているような低音が、石造りの壁と床を震わせる。
震動に合わせて影が波打ち、天井から砂塵がぱらぱらと落ちてきた。
「な、なんだ……!? 地震かよこれ!」
「違う。これは……」
(影門が……動き出した音だ)
階段の下から、黒い霧が渦を巻きながら立ち上ってくる。
その中で、さっき見た“影の手”が何十、何百と蠢き、壁や床を這い回っていた。
『……マモナク……開ク……
影ノ本門ガ……』
(“本門”……!)
ルイの心臓が一気に早鐘を打つ。
嫌な汗が背中を伝った。
全員で階段を駆け降りると、そこは広い空洞になっていた。
壁一面には黒い血管のような影が絡みつき、天井には渦巻く黒い紋章が浮かんでいる。
空気は重油のように粘りつき、息をするだけで肺の中まで黒く染められそうだった。
空洞の中央には──
巨大な黒い円が、宙に浮かんでいた。
以前、封印書庫で見た核付きの影門よりもはるかに大きい。
それはまるで、この場所にあるすべてを飲み込むために“口を開けている”怪物のようにも見えた。
「……これが……第二の門……」
ヴォルツの声が低く震える。
アレンとミリアは、目を見開いたまま立ち尽くしていた。
セリアは顔を真っ青にして、ルイの袖にぎゅっとしがみつく。
「ルイ……怖い……怖いよ……!」
(……俺もだよ)
それでも、目を逸らすわけにはいかない。
その時──
黒い円の中心から、ゆっくりと“誰か”が歩み出てきた。
霧の濃い闇の中から、輪郭の定まらない人影がふらりと浮かび上がる。
足音はない。だが、その存在感だけが圧として押し寄せてきた。
『……待ッテイタ……鍵……』
(……来たか。“本物の敵”)
門の縁に沿うようにして、無数の影の手がじわじわと広がっていく。
まるで、こちらを迎え入れるために、門の口をさらにこじ開けているかのようだった。
黒い円──第二の影門は、ゆっくりと、だが確実に“完全開放”へと向かっていく。
(ここからが……学院編前半の、本当の山場だ)
ルイはセリアの手を握り直し、迫りくる闇を真正面から睨み返した。




