第九十八話:時の真珠
Scene.370 最後の晩餐
眠っていたベルゼの瞼がゆっくりと開かれた。
ウチが差し出した半分このパン。そのあまりにも懐かしくて温かい匂いに誘われたんだろう。
彼はおそるおそるその小さな手でパンを受け取ると一口かじった。
その瞬間。
彼の瞳が大きく大きく見開かれた。
何千年もの間、その魂を支配してきた飢餓と渇望がすーっと消えていく。
代わりに流れ込んでくる温かくて優しい満足感。
彼がずっと探し求めていたあの日の味。
「…おいし、い…」
ベルゼの瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
そして彼は子供のように屈託のない満面の笑みを浮かべた。
ウチが今まで見たどんな笑顔よりも純粋で綺麗な笑顔だった。
(よし…!)
ウチは拳を握りしめた。
(これでコイツも救われ…)
―――その希望は次の瞬間、最悪の絶望へと変わった。
Scene.371 拒絶と暴走
「ぎゃあああああああああああああああああああああっ!」
ベルゼの笑顔が凄まじい苦痛に歪む。
ウチが与えたあまりにも純粋で温かい「安息」の力が、彼の魂にこびりついた「暴食」の呪いを無理やり剥がそうと拒絶反応を起こさせたんだ。
「嘔吐」が始まった。
だがそれは、先程の発作とは比べ物にならない。
ベルゼの体から噴き出したのは混沌のエネルギーじゃない。
『暴食』の権能そのもの。
「喰らう」という概念そのものが暴走を始めたんだ。
ウチらが立っていた黒い孤島が足元から溶けていく。
いや違う。
喰われているんだ。
周りの残滓の海が津波となってウチらに襲いかかってくる。
それはもうただの海じゃない。
全てを分解し喰らい尽くす巨大な胃液の奔流。
「エリナ!リラ!バリアを張って!」
エリナの聖なる結界も、リラの魔法障壁も、その胃液に触れた瞬間チーズのように溶かされていく。
ウチの神の力ですら、解放したそばから喰われていく。
反撃なんて無駄だ。ウチらの攻撃という「概念」ごと喰らうのがコイツの本質なんだから。
ウチらは一方的に蹂躙されるだけ。
「…クっソ!浄化が裏目に出た!」
「あの呪いを無理やり剥がしたせいで、暴食の力そのものが暴走してんじゃん…!」
足元の島が完全に消滅した。
ウチらの体はなす術もなく、荒れ狂う残滓の海の渦の中へと引きずり込まれていく。
「飲まれる…!」
ウチは遠のく意識の中そう叫んだ。
ウチらは今まさに世界ごと喰われようとしていた。
Scene.372 仕掛けられた罠
クソが…!
ウチの意識が混沌の海に飲み込まれるその寸前。
ウチの口元に笑みが浮かんだ。
(…なんてね。待ってたよ。この瞬間を)
ウチは遠のく意識の中でほくそ笑んでいた。
『暴食』の力が暴走する。
それは計算外だった。
でも、ヤツがその全てを喰らう巨大な口を開けるこの状況。
これこそがウチらが狙っていた唯一の千載一遇のチャンス。
いまだ!
思いのほか早かったけど関係ない。
ウチらがこの数週間念入りに準備していた『アレ』を使う時だ!
(そのためにあえてリラの便利な豪邸ワープを使わなかったんだし)
(わざわざ数週間もかけて、のんびり船でここまで来たんだから!)
Scene.373 時の真珠
ウチは最後の力を振り絞り、胸元に隠していた一つのアイテムを取り出した。
それは一見ただの黒い真珠。
だけどその内部には宇宙の星々が渦巻いているように見えた。
ウチらが船旅をしている間ずっと作り続けていた対『暴食』用の最終兵器。
リラが空間魔術で極小の一点に膨大なエネルギーを圧縮し続け。
エリナが聖なる力でそのエネルギーをひたすら浄化し続け。
そしてウチがレベル606の神の力でmその中に一つの「概念」を封じ込めた。
その概念とは『時間』。
この黒い真珠の中には圧縮された 百万年分の『時間』 が封じ込められている。
「エリナ!リラ!最後の仕上げだよ!」
ウチの声に、気を失いかけていた二人がはっと目を開き最後の力を振り絞る。
エリナの聖なる光とリラの霜炎の魔力が真珠に注ぎ込まれ、その封印を解き放つ鍵となった。
黒い真珠が眩い白銀の輝きを放ち始める。
Scene.374 百万年分の胸焼け
『暴食』の権能はあらゆる物質魔力そして概念すらも喰らう。
だけど「時間」だけは別だ。
「時間」は喰らうことはできても、一瞬で「消化」することはできない。
一時間は一時間かけてしか喰えない。
百万年は百万年かけてしか喰えない。
「喰らいなよ、クソガキ!」
ウチはその白銀に輝く『時の真珠』を、ウチらを飲み込もうと渦を巻く混沌の中心へと叩き込んだ!
「百万年分の『時間』だよ!」
「せいぜい胸焼けしなよね!」
時の真珠が渦に触れた瞬間。
世界から音が消えた。
荒れ狂っていた残滓の海がピタリと動きを止める。
ウチらを襲っていた魂の絶叫も止まった。
全ての動きが永遠にフリーズしたかのように静止する。
そして時の真珠を中心に全てを白く塗りつぶす純粋な光が溢れ出した。
暴走した『暴食』の権能が百万年というあまりにも長すぎる「食事」を消化するために、その全ての機能を停止させたんだ。
ウチらの捨て身の作戦は成功した。
ウチの意識はその白い光の中で完全に途切れた。
後のことはもう知らない。




