第九十七話:嘔吐
Scene.365 救いの代償
「ウチが食わせてあげる」
ウチのその言葉に、ベルゼの瞳が大きく見開かれた。
何億年ぶりかの、希望の光。
ウチはその小さな神様に、そっと手を差し伸べた。
「だから、もう、泣かないでよ」
助けたい。
心の底からそう思った。
ウチの指先が彼の頬に触れるか触れないか、その瞬間だった。
「…う…」
ベルゼの表情が希望から一転、激しい苦痛に歪んだ。
「あああああああああああああああっ!」
彼の小さな体が、エビのようにのけ反り痙攣を始める。
全身から今まで抑え込まれていた混沌の魔力が、虹色のオーラとなって噴き出した。
ウチらがいるこの黒い孤島が激しく揺れる。
周りの残滓の海が荒れ狂い、巨大な渦を巻き始めた。
「…くる…!ダメだ…!」
ベルゼは苦しそうに叫んだ。
「離れて…!みんな、喰われちゃう…!」
ヤツの体そのものが、暴走を始めている。
ウチが差し伸べた優しさ、救いの光。それがヤツの魂にこびりついた『暴食』の呪いを刺激し、拒絶反応を起こさせたんだ。
ベルゼ本人にも、もう止められない。
Scene.366 魂の嘔吐
次の瞬間。
ベルゼの口から、そしてその全身から、この世のあらゆる負の感情をごちゃ混ぜにしたような、おぞましいエネルギーの濁流が、嘔吐された。
「ぐっ…!?」
ウチらはその奔流に為す術もなく飲み込まれた。
それはただの攻撃じゃない。
ヤツが今まで喰らってきた全ての世界の魂の断末魔。
脳内に直接流れ込んでくる、無数の悲鳴と絶望。
―――故郷の星が喰われるのを見ながら死んでいった、古代の王の嘆き。
―――恋人と引き裂かれ喰われた、エルフの少女の悲しみ。
―――神に祈りながらその信仰ごと喰い尽くされた、聖職者の怒り。
頭が割れそうだ。精神が引き裂かれる。
それだけじゃない。その嘔吐物は物理的な形を伴って、ウチらに襲いかかってきた。
崩壊した都市の瓦礫が、ウチの体を打ち据える。
絶滅した魔物の怨念が、リラの魔法障壁を喰い破る。
エリナの聖なる結界は、何百万もの魂の悲しみの重さに耐えきれず、ガラスのように砕け散った。
ウチらは、一方的に、蹂躙された。
反撃?
バカ言わないで。反撃なんていう「闘争」の概念ごと、この混沌の奔流は喰らい尽くしちゃう。
ウチにできるのはただ歯を食いしばり、この地獄が過ぎ去るのを耐えることだけ。
「…う…ぁ…」
ベルゼは全てを吐き出しながら涙を流していた。
その瞳はウチらに「ごめんなさい」と、告げていた。
一番苦しんでいるのは、コイツ自身なんだ。
どれくらいの時間が経ったのか。
やがて嵐は過ぎ去った。
混沌の嘔吐は止まり、ベルゼは糸が切れたようにその場に倒れ、気を失っていた。
その寝顔はひどく苦しそうだ。
(…クソっ!…)
ウチは悪態をついた。
(…優しくすればいいってもんじゃないわけ?…)
(…どーすりゃいいの、コイツ…)
力でねじ伏せることもできない。
優しさで救うこともできない。
完全に手詰まり。
ウチは気を失ったガキんちょの神様を見下ろしながら、途方に暮れることしかできなかった。
Scene.367 制御できないモノ
ウチらはボロボロだった。気を失ったベルゼもボロボロだった。
(「ボクが、いなければ、いいんだ」…)
(…キミ、今、そんな顔してるよ)
(自分で止められない破壊の力。望んでもいないのに周りをめちゃくちゃにしちゃう。…そりゃ、自分なんか保てないよね。辛かったでしょ)
ウチはそいつの気持ちが少しだけ分かった気がした。
強すぎる力は呪いと同じだ。
「…ねぇ、2人とも」
ウチはようやく起き上がったエリナとリラに話しかけた。
「正直さ、『暴食』ってなんか、ただの食いしん坊のデブみたいな、ザコ臭いイメージない?」
「ええ。文献においても、『暴食』は、他の大罪に比べ、理性に乏しい下等な罪として描かれることが多いですわ」
リラのその言葉にウチは首を振った。
「でもさ。確かによく考えると違うんだよね」
「…?」
「強欲も、色欲も、嫉妬も、憤怒も、怠惰も、傲慢も。…全部、どっかで、心が『そうしたい』って、選んでる部分がある。どんな理由があれ、ね」
ウチは続ける。
「だけど、食欲だけは別」
「…こいつだけは、腹が減ったら理屈じゃない。自分の意思じゃ、どうしたって制御できないんだ」
そうだ。
腹が減る。喉が渇く。眠くなる。
それは、生き物として当たり前のどうしようもない本能。
こいつはその「本能」そのものが、呪いになってる。
「こいつは他の大罪とは根本的に違う。…こいつの敵はウチらじゃない。こいつの敵はこいつ自身のどうしようもない『飢え』そのものなんだ」
Scene.368 神のレシピ
(…『世界一、美味い、メシを、食わせてやる』)
ウチはコイツにそう約束した。
そのメシは物理的な食い物じゃない。
こいつの魂の飢餓を、完全に満たしてやれる何か。
こいつが失くしちゃった、「愛情のスパイス」が入った何か。
ウチは二人をビシッと指差した。
「エリナっち!キミは聖なる力で、デカくて綺麗な混ぜるためのボウルを用意して!」
「は、はいっ!」
「リラっち!キミは、コンロ係!最高のとろ火を用意しといて!焦がしたら承知しないからね!」
「か、畏まりましたわ…!」
二人は戸惑いながらも、すぐにウチの無茶苦茶な指示に従ってくれた。
エリナが祈りを捧げると、目の前に黄金の光でできた、美しいボウルが現れた。
リラが指先を操ると、そのボウルの下にチロチロと穏やかに燃える紅蓮の温かい炎が灯った。
「まず、生地からね」
ウチは両手を光のボウルの上にかざし目を閉じた。
そしてウチの中に宿った、新しい神の力を呼び覚ます。
【神技スキル:安息の聖域】
ウチの手の中に温かくて柔らかな、純白の光の塊がゆっくりと練り上げられていく。
これがパンの「生地」。
「次に、味付け」
ウチはその生地に次の力を注ぎ込む。
【神技スキル:愛情の奇跡】
ウチの心から溢れ出した温かい「愛情」の力が、ピンクゴールドの光となって白い生地に練り込まれていく。
ベルが失くしてしまった、あの懐かしい「愛情のスパイス」。
「よし、リラっち!焼いて!」
「はいっ!」
愛情を練り込まれた生地を、リラのとろ火でゆっくりと「焼き」始める。
そしてウチは最後の仕上げに取り掛かった。
【神技スキル:繁栄の祝福】
ウチは焼き上がるパンに祝福を与えた。
それは「もう二度と飢えることはない」という、希望の味付け。
「豊かさ」と「幸福」の約束。
やがてウチらの目の前に、一つのパンが完成した。
それは、何の変哲もない素朴な丸いパン。
だが、そのパンは内側から黄金色に輝き、見ているだけで心が温かくなるような、不思議なオーラを放っていた。
匂いは焼きたてのパンと温かいスープ。そして、なぜか一番幸せだった頃の記憶の匂いがした。
Scene.369 最高のフルコース
ウチは完成したその奇跡のパンを手に取った。
そして、ベルゼが言っていたように、それをちょうど半分に千切った。
ウチは、気を失ったままのベルゼのそばに跪くと、その体を優しく揺さぶった。
「…ねぇ、ガキんちょ。起きなよ」
ウチの声にベルゼの瞼がぴくりと動く。
「世界一、美味いメシだよ」
「…冷めないうちに、食べな」
ウチはそのパンの半分を、彼の口元へと差し出した。
さあ、喰らいな。
これが、ウチらがキミのために作った、最初で最後のフルコースだ。




