第九十六話:世界の胃袋
Scene.361 胃袋の底の再会
リラの潜水豪邸が静かに残滓の海の中心に浮かぶ黒い孤島へと着陸した。
扉が開く。ウチらは世界の墓場へと第一歩を踏み出した。
地面はガラスのように滑らかな黒曜石でできている。
見上げれば遥か遥か頭上、光の点にしか見えない大穴の入り口。
そして目の前には一本の枯れた巨木。
その根元に小さな背中を丸めて座る子供の姿。
『暴食』のベルゼ。
ヤツはウチらに気づいているのかいないのか。ただ静かに目の前の光るスープの海を見つめている。
(…さて、と。どう仕掛けるかな)
ウチは剣の柄に手をかけた。
だけどなぜか抜く気にはなれなかった。
(…つーかマジでガキ相手にすんの苦手なんだよね。どーすりゃいいわけ、こういうの)
誰がどう考えても偶然じゃない。こっちは明確な殺意を持ってキミの腹の中にまでやってきたんだ。
だけどウチの口から出たのはあまりにも間の抜けた言葉だった。
苦手な客を相手にする時の昔のクセ。
とりあえず声をかけて場を繋ぐ。
「おーう、ガキんちょ!」
ウチの声が静かな空間に響き渡る。
「偶然じゃん、こんな世界のケツの穴の底で会うなんて!」
Scene.362 飢えたる神
ウチのその言葉にベルゼはゆっくりとこちらを振り返った。
その瞳は豊穣の神殿で会った時と同じ。
子供のように純粋でそして宇宙のように古い瞳。
だけど、今はそこに深い深い悲しみの色が浮かんでいた。
「…偶然じゃないよ」
その声は子供の声だったけど、何千年も響き続けた鐘の音のようだった。
「君たちが来るのはずっと前から分かってた。だからここで待ってた」
「…は?」
「だって、もう、ボクにはここしかいられる場所がないから」
ベルゼはそう言うとウチらを通り越し、ウチの後ろに立つエリナとリラへと視線を注いだ。
そしてその小さな唇からお腹の底から絞り出すような声が漏れた。
「…お腹、すいたなぁ…」
それは脅しでもなんでもなかった。
ただ純粋な魂の渇望。決して満たされることのない永遠の飢餓。
そのあまりにも悲痛な響きにウチは言葉を失った。
(…なんだよこいつ)
(全然戦う気しないじゃん)
(…ただ腹空かせて、今にも泣きそうな顔してるだけじゃない…)
ウチがこの旅で初めて感じた感情。
敵意でも殺意でもない。
ただ目の前の小さな神様へのどうしようもない「哀れみ」だった。
Scene.363 食欲の正体
ウチは剣を鞘に収めたままベルゼの近くにどかりと腰を下ろした。
エリナとリラもそれに倣う。
目の前のクソガキは驚いたようにウチらを見ている。
今までコイツに近づいてきたヤツらはみんなコイツを殺そうとしたか、コイツから逃げようとしたかのどっちかだったんだろう。
「ねぇ、ガキんちょ…。いや、ベルゼ」
ウチは残滓の海を見つめながら話しかけた。
「何を喰っても満たされないってのは、想像しただけで辛いわ」
「…」
「別にキミのこと分かるなんて思い上がったことは言わないけどさ。…キミは具体的に何が喰いたいの?食欲って、その、好きなモンとか嫌いなモンとかあんでしょ?」
ウチのその問いにベルゼは虚を突かれたように瞬きをした。
今まで誰もそんなことコイツに聞いたことなかったんだろうな。
ヤツは長い長い沈黙の後ぽつりと話し始めた。
「…好きなもの…」
「…昔、昔…。ボクがまだボクじゃなかった頃」
彼がまだ七つの大罪『暴食』ではなく八柱神『糧』であった遥か太古の記憶。
「…誰かが作ってくれたあったかいスープの味がするパン…。それを誰かと半分こして食べた記憶があるんだ」
その言葉にウチは息を飲んだ。
ウチと樹里のメロンパンの記憶がフラッシュバックする。
「…甘くてしょっぱくて優しくて。…お腹だけじゃなくて、心もいっぱいになったんだ」
「…ボクはずっとあの味を探してる」
ベルゼは悲しそうに笑った。
「でも見つからない。世界を喰っても。星を喰っても。未来も過去も記憶も全部喰っても。あのちっぽけなパンの半分この味には敵わないんだ」
Scene.364 失われたスパイス
「…そのスープとパンは…」
隣で話を聞いていたエリナが涙を流しながら言った。
「きっと『愛情』という最高のスパイスが入っていたんですね…」
「『糧』は愛と共にあった時にだけ、本当の意味で心と体を満たすことができます…。でもあなたは、その愛を失ってしまったから…。だから、いくら食べても食べても心が満たされない…」
そうだ。
こいつはただ腹が減ってるだけじゃない。
心が腹を空かせてるんだ。
永遠に満たされることのない愛情に飢え続けている。
そのあまりにも純粋であまりにも悲しい飢餓の理由。
ウチは言葉を失った。
こいつを殺す?
こんなただ愛情に飢えてるだけのガキを?
できない。
ウチにはできないよ。
ウチは立ち上がった。
そしてベルゼの目の前にしゃがみ込むと、その頭をわしゃわしゃと撫でてやった。
「…しょーがないなー」
ウチは笑った。
らしくもない優しい笑みがこぼれた。
「キミが探してるその世界一美味いメシ。ウチが見つけ出して食わせてあげる」
「え…?」
「だからもう世界喰うのはやめなよ。…もっとマシなモン、ウチが腹一杯食わせてあげるから」
ウチのその言葉にベルゼの瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
それはきっと、何千年もの間溜め込んできた孤独の味だった。




