第九十三話:夢渡りの夜
Scene.346 夢の中のお仕事
幸いこの『永遠の凪』は魔物も敵意も存在しない、この世界でも有数の安全な場所だろう。
ウチの見張りなんてただの念のための保険だ。
本当の主役はウチじゃなく夢の中のリラっちとベル。
ウチはただ三人が無事に帰ってくるのを信じて待つだけだ。
Scene.347 『安息』の夢
意識が浮上する。
リラが次に目を開けた時彼女は見知らぬ場所にいた。
どこまでも続く柔らかな光る草の平原。
空は常に三つの月が優しく輝く穏やかな夜。
涼しい風が頬を撫でどこからともなく心地よい花の香りがする。
(…ここがベル様の夢の中…)
あまりにも完璧な安らぎに満ちた世界。
ここにいるだけで闘争心も悩みも、全てがどうでもよくなっていく。
このままこの草の上に寝転がって、永遠に眠ってしまいたい。
そんな甘い誘惑がリラの心を蝕み始める。
その瞬間。
彼女の魂の奥深くから懐かしいメロディが聞こえてきた。
現実世界でエリナが奏でているオカリナの音色だ。
それはリラが今ここにいる理由を思い出させてくれる命綱。
リラはその音色を頼りに平原を歩き始めた。
やがて音色の発生源に辿り着く。
そこには星の民の美しい女性の幻影がオカリナを奏でながら立っていた。
ベルが愛した巫女アストラ。
彼女は微笑むとリラに手招きをした。
Scene.348 夢の中心
アストラに導かれるままリラはさらに夢の奥深くへと進んでいく。
その先に夢の中心はあった。
星の光でできた巨大な柳の木。
その根元でまだ『安息』の神だった頃の若いベルが膝を抱えて眠っていた。
だが、その体には絶望と悲しみが具現化したかのような黒い茨が何重にも巻き付き、彼を安らかな眠りという名の牢獄に縛り付けていた。
アストラを失った悲しみ。世界を救えなかった無力感。
それが彼を『怠惰』へと堕とした呪いの正体。
リラは炎でその茨を焼こうとした。
だがアストラの幻影が静かに首を振る。
この茨はベルの心そのもの。無理に破壊すれば彼の魂ごと砕け散ってしまう。
リラは眠るベルの隣に静かに座った。
そして語りかけた。
莉央というめちゃくちゃで破天荒で、でも誰よりも仲間を想う人間の女の話を。
エリナというたった一人で種族の希望を背負う健気な聖女の話を。
そして自分自身の話を。
過ちを犯し全てを失ったが、新しい主に出会い新しい誇りを見つけた堕ちたエルフの話を。
彼女は魔法じゃない。ただの言葉でベルの閉ざされた心に呼びかけ続けた。
停滞した世界にも、まだこんなに面白くて愛おしい物語があると。
リラが持っていた『月雫の結晶』がその言葉に呼応するように輝き始める。
結晶はこの夢の世界に現実世界の三つの月が輝く美しい星空を映し出した。
「…ベル様。もういいのです。もう一人で悲しむのはおやめください」
アストラの幻影が、眠るベルの額にそっと口づけをする。
その瞬間、ベルの瞳から一筋涙がこぼれ落ちた。
彼を縛り付けていた黒い茨がはらりと解け光の粒子となって消えていく。
リラの役目は終わった。
彼女の意識は温かい光に包まれ現実世界へと還っていく。
Scene.349 『安息』の統合
リラの魂がその体に戻った瞬間。
彼女はゆっくりと目を開けた。エリナがオカリナを口から離し、その場にへたり込む。
そしてハンモックで眠っていたベル。
彼を覆っていたあの淀んだ灰色のオーラが完全に消え失せ、代わりに穏やかで清浄な白いオーラがその体を包んでいた。
ヤツの寝顔はもうただの怠け者じゃない。
本当に安らかな『安息』の表情をしていた。
ベルはゆっくりと体を起こした。その目はもう全てを諦めたような眠そうな目じゃなかった。
どこまでも澄み切っていて、穏やかでそして古い大樹のような深い叡智の色を宿していた。
『怠惰』の魔人じゃない。八柱神の一柱『安息』の神。それが彼の本当の姿。
「…ありがとう、調停者殿。そして仲間たちよ」
ベルは穏やかに微笑んだ。彼が完全に覚醒したその瞬間。
彼の体から最後の呪いの残滓…灰色の靄のような魔力がふわりと抜け出た。
その魔力は霧散するのではなく、まるで引力に引かれるようにウチの体へと吸い込まれていく。
ウチの『贖罪』の光が、その灰色の魔力を浄化し清浄な白い光へと変えていく。
そしてウチのステータスに新しいスキルが刻まれた。
【神技スキル】:
・安息の聖域【新規】:特殊な結界空間を展開する。空間内ではあらゆる傷、疲労、状態異常が高速で回復する。
Scene.350 動き出す世界
「…どうやら君に全て託されたみたいだね」
ベルはウチの変化を見て穏やかに微笑んだ。
「別に。キミがめっちゃ怠け者だったおかげで、こっちも楽させてもらったし。貸し借りゼロでしょ」
「あはは、違いないや」
ベルは笑うと立ち上がった。
「ボクはここに残るよ。この島々でボクが眠らせてしまった人々を、今度は本当の『安息』の力でゆっくりと癒していく。…それがボクの償いだ」
「…そっか。せいぜい頑張りなよね、怠け者」
ウチらは顔を見合わせて笑った。
ベルに別れを告げ、再びリラが作り出したボートで群島を後にする。
そしてその道中で、ウチらは世界の変化を目の当たりにした。
まず風が吹いていた。今まで鏡のようだった海面にさざ波が立っている。
『永遠の凪』は破られたんだ。
島々の村では人々がゆっくりと動き始めていた。
まだ戸惑いながらも、自分の家の掃除をしたり、破れた網を繕ったりしている。
子供たちが生まれて初めて見る「波」にはしゃいで砂浜を駆け回っていた。
森の動物たちも変わっていた。鳥たちは複雑なメロディでさえずり、猿たちは木々の間を飛び回る。
そして空には太陽のようなものが、ゆっくりと西の地平線へと傾き始めていた。
空が茜色に染まっていく。
島々の人々は皆手を休め生まれて、初めて見るであろうその美しい夕焼けの光景に息を飲んでいた。
ウチはボートのへりからその光景を眺めていた。
ここではもうウチらの助けは必要ない。
ウチらは次の目的地へとボートを進めた。




