第七十二話:本物の『色欲』
Scene.258 偽物の『美』
ウチの目の前で、樹里が笑っている。
ウチが一番見たかった、あの日の笑顔で。
隣ではエリナが涙を流して、星の民であるその父と母の幻影に手を伸ばしている。リラも自分を許してくれた家族の姿に立ち尽くしている。
アスモデウスの絶対的な精神攻撃。
魂を直接揺さぶり、その一番弱い部分に付け入る最悪の一手。
だが。
ウチはゆっくりと笑い始めた。
最初はクスクスと。やがて腹を抱えて大声で。
「…あはははははは!マジかよ、アンタ!」
ウチのあまりにも場違いな爆笑に、アスモデウスが初めてその完璧な表情を歪ませた。
「ねぇ、アスモデウス。これがキミの切り札?」
「バっカじゃないの?」
ウチは涙を拭いながら、目の前の樹里の幻影を指差した。
「これがたとえ本物の肉体だとしても、その心が偽物だって、ウチには一発で分かっちゃうんだよ」
ウチが知ってる樹里は。
もっとバカでワガママで泣き虫で。
そしてウチを裏切った、あの醜い嫉妬をその胸に飼っていた、ただの人間だ。
こんな完璧で綺麗で空っぽな人形じゃない。
「意味のない、ムカつくだけのダっサいスキルじゃん!」
ウチは言い放った。
そして自分の胸元に手をやる。あの屈辱の反撃。
「そのキミから溢れ出てる快楽のオーラはまぁ、正直、ちょっとは濡れちゃったけど?」
ウチは挑発的に笑う。
「ウチのテクニックとは天と地だね。もっと勉強しなよ、お嬢ちゃん」
Scene.259 目覚めの平手打ち
そしてウチは、目の前の樹里の幻影に向かって突進した。
躊躇はない。
一閃。
樹里の幻は悲鳴も上げずに光の粒子となって消え去った。
「さて、と」
ウチはまだ幻影に囚われている二人の仲間に向き直った。
「いつまで夢見てんの!目ぇ覚ませ、あんたたち!」
ウチはエリナの頬を思い切りひっぱたいた。
「そいつらは偽物だよ!あんたの本当の家族は、まだあの樹の中で、あんたの助けを待ってるんでしょ!」
次にリラの腹に軽く蹴りを入れる。
「あんたもだよ、エルフ!過去に許しを乞うんじゃない!あんたの新しい誇りは、ウチの『剣』になることだったんじゃないの!」
ウチの容赦ない罵声と衝撃で、二人ははっと我に返った。
そして自分たちが何をしていたか理解して、顔を真っ赤にさせる。
ウチはそんな二人を背中に庇うように立ち、もう一度アスモデウスと対峙した。
その完璧な顔は、初めて驚愕と屈辱の色に染まっていた。
ウチは、その最高の顔に向かって笑ってやった。
「…こんなもんかよ?」
Scene.260 豹変する女王
「…こんなもんかよ?」
ウチのその挑発的な一言は地雷だったらしい。
アスモデウスの完璧だったアルカイックスマイルが、ぴしりと音を立てて砕け散った。
今まで浮かべていた余裕の笑みが完全に消え失せ、その銀河の瞳が絶対零度の怒りに染まっていく。
『…下賤な雌が』
その声はもう鈴の音なんかじゃなかった。
何百、何千という男と女の喘ぎ声と啜り泣きを重ね合わせたような、おぞましい合唱。
『私の完璧な美を、理解できぬ野蛮な獣が…』
彼女の体が変貌していく。
その美しい肌に陶器のようなヒビが走り、その隙間からドス黒い欲望のオーラが溢れ出す。
背中からはさらに四本の細くしなやかな腕が生え、昆虫のようにも神のようにも見える六本腕の異形の姿へと変わった。
(…チッ。やっと本性見せたね)
(…さすがに七つの大罪、か。…こいつはヤバい…!)
Scene.261 快楽の粛清
『まずは』
変貌したアスモデウスが、その六本の腕のうち二本を、ウチではなく、ウチの背後で剣を構えるエリナとリラへと向けた。
『その耳障りな脇役から、黙らせてあげますわ』
その指先から不可視の衝撃波が放たれる。
それは熱でも光でも音ですらない。
純粋な、「快感」そのものの、凝縮された塊。
「きゃっ…!?」
「あ…ぁ…っ!」
エリナとリラの二人が同時に短い悲鳴を上げた。
武器を取り落とし、その場にへなへなと崩れ落ちる。
二人の体はまるで雷にでも打たれたかのように、びくん、びくん、と激しく痙攣し、その瞳は虚ろに宙を見つめていた。
口元からは抑えきれない喘ぎ声が漏れている。
二人の足元からじわりと水溜りが広がっていく。
あまりにも強すぎる快楽の奔流に、聖女とエルフの身体は、もう最低限の尊厳すら保てなくなっていた。
完全に戦闘不能。いや、それ以上に心を壊されかけている。
Scene.262 絶対的な孤立
『さあ、これで二人きりになりましたわね』
アスモデウスがその六本の腕をしなやかに動かしながら、ウチに向き直った。
その銀河の瞳が、ウチの全てを嬲り尽くそうと妖しく輝いている。
(クソが…!エリナとリラが…!一瞬で…!)
ウチの背筋を冷たい汗が流れる。
ウチの光も剣も、完全に沈黙させられた。
(どうする!?)
(ウチ一人で、どうやって…!)
絶望的な状況。
ウチは後ずさりながらも必死で活路を探していた。
だが、アスモデウスはそんなウチの焦りすら楽しむように、ゆっくりとその距離を詰めてくる。
もう逃げ場はどこにもなかった。




