第七十一話:完璧なる美
Scene.254 楽園の終焉
ウチの咆哮に呼応するように解放された人々の欲望が街中に渦を巻く。
その瞬間だった。ピタリと世界の音が止まった。
あれほど騒がしかった群衆の雄叫びも音楽も全ての音が完全に消え失せる。
そしてウチは見た。
この快楽都市ヴァニタスを覆っていた真っ青な空。その空がまるで薄いガラスのようにピシリと音を立ててひび割れていくのを。
パリン、パリーン!
空の破片がキラキラと光の粒子になって舞い落ちる。
ひび割れた空の向こう側に見えたのは青空じゃない。赤と紫が溶け合ったような官能的な夕暮れ色の宇宙。
この街はまるごと巨大な幻影のドームの中にあったんだ。
Scene.255 『色欲』降臨
街中の全ての視線が一点に注がれる。
街の中心。湖に浮かぶガラスの宮殿。
その宮殿が内側からまばゆい光を放ち始めた。
そして一番高い塔の先端が、まるで巨大な蓮の花が開くようにゆっくりと溶け開いていく。
その花の、中心から。
一体の人影が静かに舞い降りてきた。
…美しい。
ウチは生まれて初めて生物に対して完璧な「美」という概念を見た。
人間じゃない。エルフですらない。神が自分の理想だけを詰め込んで作り上げた最高傑作。
肌は月光を練り上げたように白く輝き髪は溶けた黄金そのもの。その顔立ちは性別すら超越している。
纏っているのはまるで星空をそのまま切り取ったような薄い衣だけ。その完璧すぎる裸体を隠そうともしていない。
七つの大罪『色欲』のアスモデウス。
彼女が広場の中心に舞い降りた瞬間、さっきまで欲望のままに暴れていた群衆がピタリと動きを止めた。
彼らの瞳に宿るのは恐怖じゃない。
畏敬。崇拝。そして魂ごと吸い寄せられるような強烈な美への憧憬。
誰もがその完璧な美の前にひれ伏したいと願っていた。
アスモデウスはそんな家畜どもには目もくれない。その瞳孔のない銀河が渦巻くような瞳がまっすぐにウチを捉えた。
脳内に直接響く声。それは男でも女でもない鈴を転がすような美しい声色だった。
『…まあ。これはこれは』
『私の静かな箱庭を、随分と騒がしい動物園にしてくれたものですね』
その声には怒りも焦りも一切含まれていない。
ただ自分の作品を子供に汚されたかのようなわずかな失望と好奇心だけ。
『見てください。この醜い乱雑を。満たされぬ感情を。…これでは魂が傷んでしまいますわ。最高の芸術品が台無しです』
やっぱりウチの思った通り。
『あなたが噂の『黒狐』…』
アスモデウスの視線がウチの魂の奥底まで見透かしてくる。
『なるほど。下品で野蛮で、そして…』
彼女はうっとりと微笑んだ。
『とても美しい魂の色をしていますのね』
(…やっと出てきたね、本物が)
ウチは剣を構え直した。
(上等じゃん。キミのその綺麗事のメッキ、全部剥がしてあげる)
ウチという下品で生々しい「本物の欲望」と。
あんたという上品で作り物の「偽物の美学」。
どっちが上か、ここで決めようじゃん。
Scene.256 三位一体の一撃
アスモデウスがうっとりと微笑んだその瞬間、ウチは動いていた。
合図と共に、まず動いたのはリラ。
「我が紅蓮の紋章にかけて!全てを焼き尽くせ!『クリムゾン・パニッシュメント』!」
巨大な炎の竜巻がアスモデウスへと襲いかかる。
「聖なる鎖よ!彼の者を縛めたまえ!『チェインズ・オブ・ジャスティス』!」
エリナが炎の竜巻の中に無数の光の鎖を放り込む。
そして。
「そこだ!」
ウチはリラの炎を物ともせずにその中へと突っ込む。炎と光の中で身動きが取れなくなったアスモデウスの無防備な懐。
そこへウチのレベル101の全霊を込めた神速の斬撃を叩き込んだ!
ガキンッと硬い手応え。でも確実に通った!
ウチの二本の剣はヤツの薄い衣を切り裂き、その神々しい肌に一筋の赤い線を刻みつけていた。
連携攻撃、ヒットだ!
Scene.257 快楽の反撃と魂の鏡
炎と光が晴れる。
そこにはウチの一撃を受けたはずのアスモデウスが涼しい顔で立っていた。
その完璧な頬にウチが付けた一筋の傷。そこから流れる銀色の血液を彼女は自分の指でそっと拭った。
そしてその銀色の血をぺろりと舐めると、初めて心の底から恍惚とした笑みを浮かべた。
「…ああ。痛み。不純物。完璧な絵画に一点だけ落とされた真紅の絵の具。…なんて刺激的で美しいのでしょう。あなた達、最高ですわね」
ヤツは怒っていなかった。むしろ喜んでいた。
「ですから私も、最高の“おもてなし”を差し上げなければ」
その瞬間ズドンッと地面から不可視の衝撃波がウチら三人を襲った。
それは痛みじゃない。殴られたはずなのに脳が蕩けるような強烈な『快感』の奔流。
あまりの快楽の衝撃にウチらは抵抗もできずに後方へと吹き飛ばされた。
「褒美として見せて差し上げましょう」
アスモデウスはうっとりと目を細めた。
「私の本当の『色欲』の権能を。…そしてあなた達の魂が秘めている、最も『美しいもの』を」
彼女がぱちんと指を鳴らす。世界が白い光に包まれた。
次に目を開けた時、ウチらは変わらずヴァニタスの広場にいた。
だが目の前に立つ敵はもうアスモデウス一人ではなかった。
エリナの目の前には。
彼女の魂が描く最も美しい希望の光景。完全に再生した聖樹エリュシオンがそびえ立ち、その根元からは目覚めた星の民たちがエリナに向かって優しく手招きをしていた。
リラの目の前には。
彼女が失った最も美しい誇りの記憶。彼女を追放したはずの父親が涙を流し「よく戻ってきた」とその手を広げている。
そして。
ウチの目の前には。
莉央の魂に傷としてそして宝石として刻まれた、最も美しかった過去の一瞬。
「莉央、一緒に食べよ?約束でしょ?」
あの日の屋上で朝日を浴びて笑う樹里がいた。
その手には半分に割られたメロンパン。
それは幻じゃない。温もりも匂いも魂の気配すら感じる実体。
アスモデウスの権能。相手の魂の一番奥にある「最も美しい思い出」を完璧な形で現実世界に召喚する最悪の精神攻撃。
『魂の鏡』。
そしてウチらの目の前に立つ、ウチらが最も愛し最も求めてやまないそれらの幻影はゆっくりとウチらに敵意を向けた。
アスモデウスを守るために。
ウチらを排除するために。
「…マジかよ」
ウチは呟いた。
これは最悪の地獄だ。
自分の一番大事な宝物を、この手で破壊しろって言うの?




