第三十話:ショーの開幕
Scene.118 血と砂の前の静寂
円形闘技場の地下。
『屠殺場』と呼ばれる剣闘士たちの控え室。そこは希望なんて言葉がとっくに死に絶えた場所だった。
薄暗い石造りの大部屋に500人以上の奴隷剣闘士がまるで家畜のように詰め込まれている。壁の松明が男たちの不安と恐怖に歪んだ顔を不気味に照らし出していた。
鼻を突くのは汗と血と恐怖と安酒が混じり合った吐き気を催すような匂い。
天井の向こうからはウチらの死を待ち望む何万人という観客の地鳴りのような歓声が聞こえてくる。
ウチは壁に背中を預け腕を組んでその地獄の縮図を冷静に観察していた。
「…おい、新入り」
声をかけてきたのは片目の潰れた古傷だらけの初老の男だった。こいつこの屠殺場で何度も夜を越してきた顔してる。
「威勢のいい顔しとるな。死に急ぐなよ、お嬢ちゃん」
「アンタこそ。おじいちゃんが来るとこじゃなくない?」
ウチが悪態で返すと男はニッと歯の欠けた口で笑った。
「ブランと申す。この“大淘汰”、10回は生き残ってきた」
「へぇ。長生きの秘訣でもあんの?」
「秘訣は一つ。…誰と戦わないかを見極めることだ。馬鹿どもが潰し合うのを待ちな。アリーナは広い。自分の“場所”を見つけて生き残れ」
男はそれだけ言うと自分の持ち場に戻っていった。…意外と悪いヤツばかりでもないらしい。
「ひゃはは!見ろよあの女!いいケツしてるぜ!」
だけどもちろん、どうしようもないクズもいる。
上半身裸の筋肉ダルマみたいな男が下品な仲間たちとウチを見て囃し立てていた。
「俺様がこのバトルロイヤルを勝ち抜いてトーナメントで優勝したらお前を褒美にもらってやるぜ!毎晩可愛がってあげるから楽しみにしてろよ!」
「…」
ウチはそいつに視線を向けた。ただじっと虫ケラでも見るような絶対零度の目で見つめてやった。
「…ウケる。アンタみたいなモブキャラがウチを指名するとか100年早いんですけど」
その一言で筋肉ダルマは金縛りにあったように黙り込んだ。周りの連中もウチがただの女じゃないことに気づいてサッと視線を逸らす。
ウチはもう興味を失って壁にもたれ直した。
Scene.119 誰にも言えない欠陥
…しょーもな。こいつら誰一人として分かってない。
本当の敵が、ウチらがこれから殺そうとしている相手が、どんな“化け物”かなんて。
ウチは目を閉じた。
瞼の裏にあの日光景が鮮明に蘇る。豊穣の神殿で対峙した『暴食』。
ウチの神速の剣舞をただ「おいしそうだね」と言ってその概念ごと喰らったあの子供の化け物。
エリナっちの神聖魔法ですらおやつのように平らげたあの絶望的な光景。
レベル99?神の加護?そんなもん何の意味もなかった。ウチらの“力”というルールがアイツには一切通用しなかったんだ。
(暴食が、あのレベル。じゃあ、『強欲』のマモンは?)
ウチの背筋を冷たい汗がつうと流れた。
(同格…いや、それ以上かも。ウチの剣もエリナっちの魔法も、また“喰われる”みたいに無効化されたら?どーすんの!?)
ウチはザハラとエリナっちに完璧な作戦を自信満々に語って聞かせた。
エリナっちを不安にさせたくなかった。ザハラたちにウチらの力を信じさせたかった。
だから言わなかった。ウチが心の底で抱えているこの巨大すぎる不安を。
(ウチはアイツらにデカい口叩いちゃった。『神様だって殺せる』?ウケる。どの口が言ってんの。勝算なんて本当はゼロじゃん…!)
作戦はマモンがウチらの攻撃を食らうことが大前提だ。
でももしマモンも暴食と同じようにこっちの攻撃を無効化する能力を持っていたら?
その可能性を考えないように蓋をしていた。
(『喰らう』のが暴食。『欲しがる』のが強欲…。その違いは何?何かが違うはず…!マモンの能力は何?金?支配?いやもっと根源的な…!何か!何かヤツを殺せる手が絶対にあるはず…!)
思考が焦りでぐるぐる回る。答えが見つからない。
どうやってウチはあの化け物を殺す?
その瞬間だった。
ブオオオオオオオオオオオオッ!!
ウチらの頭上で闘技場の開戦を告げる巨大な角笛が鳴り響いた。
目の前の巨大な鉄格子がギギギ…と上がり始める。
その向こうには太陽に照らされた白い砂のアリーナと、ウチらの死を望む大観衆の熱狂が広がっていた。
(…クソが)
ウチは目を開けた。その瞳にはもう迷いも恐怖もない。
(考えるのは後だ)
ウチは二本の剣をゆっくりと鞘から抜いた。
(まずは、生き残る!)




