第十八話:歌舞伎町の光と影
Scene.76 眠れない夜
その夜、ウチは聖樹の根元で一人眠れずにいた。
隣ではエリナが安心しきった寝息を立てている。
ウチはその無防備な寝顔と頭上で静かに輝く聖樹を見上げた。
(…守る、ね。…ウチが誰かを)
(…ウケる)
今のウチにとっては当たり前のその感情。
でも昔、その当たり前のことが死ぬほど難しくて、そして一度完全に諦めた夜があった。
ウチがまだ、ただの莉央だった頃の物語。
Scene.77 アタシが“莉央”になった夜
歌舞伎町のキャバクラ「Labyrinth」。そこがウチの戦場だった。偽物の愛を囁いて男から金を巻き上げるだけの簡単なお仕事。ウチはそこでNo.3だった。売るのは男が見たい“都合のいい女”っていう幻想だけ。
そんな店に半年前に入ってきたのが萌果だった。田舎から出てきましたって顔に書いてあるようなマジでトロくさいガキ。他の女たちはそんな萌果を格好の餌食にして面倒な客を押し付けたりしてた。
(…見てるだけで、イラっとする)
最初はそう思ってた。でも萌果を見てるとどうしても昔の自分を思い出してしまう。上京したての頃何も知らなくてただ笑うことしかできなくて、クソみたいな大人たちに良いように使われてたあの頃の自分を。
ある日のこと。店一番の太客で一番タチが悪いことで有名なIT社長ササキが萌果を場内指名した。ササキの席は女の子を潰して遊ぶのが“趣味”の魔窟だった。
「莉央ちゃん、ヘルプお願いできるかな?」
「…しょーがないなー」
ウチはわざとだるそうに返事して地獄のテーブルに向かった。案の定、萌果はテキーラの一気飲みを強要されて顔面蒼白になってた。
「よぉササキ社長!今日も羽振りいいっすね!」
「お、莉央ちゃん!この新人全然飲まないんだよ。キミからガツンと言ってやりなよ」
「あはは、マジすか。萌果、社長のお酒飲めない感じ?」
「ち、違…!そ、その…」
震えてる萌果の肩をウチはポンと叩いた。
「しょーがないなーこのポンコツちゃんは。社長、この子マジでザルじゃなくて“網”だから。この子に飲ませるお酒全部床にこぼれちゃってもったいないだけだよ?」
「あぁ?なんだと?」
ササキの目が一気に据わった。
「代わりにウチが飲みますよ。社長が萌果に飲ませたかった分ぜーんぶ。ただしゲームしない?ウチが勝ったら今日は萌果をお開きにしてもらって代わりにウチを同伴。負けたらこのボトル全部ラッパ飲みした上でノーバックでアフター付き合いますよ」
「…ほう。面白い」
ササキが提案してきたのはイカサマありきのカードゲームだった。知るかよそんなもん。ウチは萌果を下がらせるとそこからマジで記憶が飛ぶくらい飲んで飲んで飲んでササキに付き合った。
結局ゲームはボロ負け。約束通りテキーラのボトルを口開けて流し込まれ意識が朦朧とする中でササキに連れ出されそうになった。でもその時。
「社長!莉央さんはもう限界です!お店のアフターは私が代わりに!」
萌果が震えながらもウチとササキの間に立ちはだかった。
黒服の店長まで出てきて頭を下げる。ササキはクソつまらなそうな顔で舌打ちすると「…チッ。今日の会計全部莉央ちゃんのツケにしとけ」と言い残して帰っていった。
翌日ウチは地獄の二日酔いの中、ロッカールームで萌果に会った。
「あの…莉央さん…。昨日はありがとうございました…。私のせいで、すいませんでした…!」
「…別に」
ウチはタバコに火をつけながらぶっきらぼうに言った。
「萌果が潰れたら後片付けがめんどいだけだし。あと萌果みたいなのがいると店のレベル下がるわけ。もっとマシになりなよね、ポンコツちゃん」
そう言って萌果に背を向けた。でも萌果が小さな声で
「ありがとうございます、お姉ちゃん…!」
って言ったのが聞こえてた。
…悪くないじゃん、たまには。そう思っただけだ。
Scene.78 ウチの心を殺した日
ウチには親友がいた。樹里。田舎から一緒に夢を追いかけて上京してきたたった一人の家族みたいな存在だった。ウチらはオンボロのアパートで二人で暮らし同じ店で働き、いつかこの街で一番になろうって毎晩語り合ってた。
ウチの方が先に売れた。口の悪さと客を転がす才能があったから。でも稼いだ金はいつも樹里と山分けだった。樹里はウチが守るべき大事な片割れだったから。
ウチには一人面倒な太客がいた。不動産会社の役員で粘着質なストーカー気質の男タカハシ。ウチに大金を注ぎ込んで本気でウチを愛人にしようとしていた。ウチはそいつをうまくあしらいながら絞れるだけ絞ってた。
異変に気づいたのはいつからだったか。
樹里が少しずつ変わっていった。ウチに隠れて誰かと電話するようになった。ウチがプレゼントした服やバッグを身に着けなくなった。そしてウチを見る目に時々得体の知れない光が宿るようになった。嫉妬。憧れ。そして憎悪。
その日ウチは珍しく体調が悪くて店を早退した。樹里は
「大丈夫?おかゆ作ろっか?」
なんて優しい言葉をかけてくれた。ウチはその言葉に何の疑いも持たず樹里が作ってくれたおかゆを食べ薬を飲んでベッドに入った。
すぐに体が鉛みたいに重くなった。意識がシロップみたいにドロドロに溶けていく。
…おかしい。この感覚、風邪のダルさじゃない。昔盛られた睡眠薬の感覚と同じだ。
「…樹里」
ウチは最後の力を振り絞ってベッドから這い出た。リビングでは樹里がスマホで誰かと話していた。
「うん…もうぐっすり寝てる。薬すごい効いたみたい。…え?うん分かってる。タカハシさんが来たら私は外出るから。あとは好きにしていいって。…うん約束忘れないでね。マンションと毎月のお小遣い…。うんじゃあ待ってる」
…ああ。そういうことか。
全身から血の気が引いていく。タカハシ。ウチのストーカー。そいつと樹里が繋がってた。
ウチを売りやがった。このウチが世界で唯一信じていた存在に。
「…樹里」
ウチが震える声で名前を呼ぶと樹里は悪魔みたいな顔でゆっくりと振り返った。
「…あ、起きたんだ。しぶといね、莉央は」
「…なんで」
「なんで?いつもいつも莉央ばっかり!店でも男にも!私だって幸せになりたい!莉央みたいに綺麗で強くて人気あったら、こんなことしなくても良かったのに!」
ピンポーンと無機質なインターホンの音が鳴った。タカハシが来たんだ。
「じゃあね莉央。タカハシさん優しい人だからきっと可愛がってくれるよ」
樹里は笑いながら玄関の鍵を開けようとした。
その瞬間ウチは火事場の馬鹿力で床を転がるように移動し樹里に体当たりした。
「どきなよ…!」
「きゃあ!」
ウチは朦朧とする意識の中、必死で玄関のチェーンをかけ鍵を閉めた。ドアの向こうでタカハシがドアノブをガチャガチャやっている音がする。
「なにするのよ!開けなさいよ!」
「うるさい…!お前らだけには…絶対に好きにさせない…!」
ウチは震える手でスマホを掴み警察に電話した。樹里はウチを罵りながら部屋から金目のものを掴んで裏口から逃げていった。
警察が来た時ウチは玄関の前でただ蹲っていた。
薬のせいじゃない。心が完全に凍りついていた。
信じてた人間に裏切られる痛み。魂を内側から殺される感覚。
ウチはあの日心を殺した。もう二度と誰も信じないと。ウチはこの世界でずっと一人きりなんだと。
Scene.79 だから、守る
…だからだ。
だからウチは今、隣で眠るエリナを絶対に守らなきゃなんない。
ウチみたいな地獄をこの子にだけは絶対に見せたくない。
そのためにこの力があるんなら。
ウチは静かに眠るエリナの髪をそっと撫でた。
あの日失ったはずの温もりがなぜかそこにあった。